History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 江戸時代

https://hobbytimes.jp/article/20170313e.html

4代将軍、徳川家綱は影の薄い将軍と言われております。徳川15代将軍で影の薄い将軍ランキングのサイトで3位に選ばれるほど。ちなみに一位は7代将軍の家継でした。家綱は、知恵伊豆こと松平信綱、保科正之、大老の酒井忠清といった優秀な家臣に政治をまかせっきりで何もしないイメージがあります。実際、家綱は病弱で、なんでも家臣のいうことを「さようせい(そうしろ)」というので「さようせい様」と陰口をたたかれるほど。

しかし、家綱の治世は28年9か月という長きにわたり、歴代将軍の中でも長いほうです。また、家綱の時代に江戸じゅうを焼き払った明暦の大火(*1)や、由井正雪の乱(*2)など幕府を揺るがす大事件がおこり、それを家臣ともに乗り越えたのです。優秀な家臣にまかせっきりというのは聞こえは悪いが、優秀な家臣を信頼し、家臣の意見を聞き入れ、最後に責任は自分がとるというのは、むしろリーダーとして大変優秀なのです。かつて中日の落合博満監督は、「責任はオレが取るから。迷わずに思い切り自分の思った通りにやれ」とコーチたちに言い、当時の投手コーチだった森繁和さんに投手交代どころか、先発投手を誰にするかまでも任せたといいます。落合さんが直接、先発投手を決めたのは1年目の開幕戦、川崎憲次郎さんの一度だけ。それで落合さんは何度も中日を優勝に導いたのです。

なんでもリーダーがしゃしゃり出るのが優れたリーダーとは限りません。逆に優秀な家臣をつぶし、自分が一番でないと気が済まないリーダーは良くないのです。また家綱の治世は、それまでの武断政治から文治政治に切り替わった転換期でもあります。(*3)

家綱は三代将軍家光の嫡男として生まれました。母はお楽の方。家綱は幼少から病弱だったのですが、家光は早々と自分の跡取りにしたのです。家光には家綱の他にも男子がいたのになぜ?それは、家光の苦い経験があったのです。

かつて家光は自分の弟の忠長との間で世継ぎ争いをして、結局、弟を自害させてしまったのです。我が子にそんな思いをさせたくないとの親心からでした。それと、祖父の家康の影響も大きい。家光も実は幼いころから病弱でした。しかも、言葉もうまくしゃべれなかったのです。今でいう発達障害でしょうね。一方の弟の忠長は優秀で、忠長を将軍にという声もあったのですが、家康の「家督は長男が継ぐべし」という鶴の一声で家光は将軍になったのです。家光は家康に倣い、長男の家綱を将軍としたのです。

それと家光は家綱の人間性も評価していたのかもしれない。家綱が6歳になった、ある日のこと。家綱は家臣から、島流しに罪人の話をきいて驚いたのです。流罪人には食べ物など与えられず、餓死するものも少なくなかったから。「流罪に処して命を助けたにも関わらず、なぜ食料を与えないのか」と言ったのです。その発言に感心した家光は、「遠島になったものにも食料を与えるのは理にかなっている。今後は流罪人に対しても一定の食料を与えよう」と家臣に命じ、さらに「これを家綱の仕置きはじめにせよ」と命じたのです。仕置きはじめとは最初の命令のこと。6歳にして、ここまで人のことを考えられるなんてスゴイですね。

家継が11歳の時に父の家光が亡くなり、家継は将軍になりました。家継は将軍になるや、「吾、幼年なりといえども、先業をけ継ぎ、大位に居れり」と発言。11歳と言えば小学校5年生くらいの年齢。『ドラえもん』に出てくるのび太と同い年ですね。そんな幼い子の発言とは思えない、力強さを感じます。自分が将軍になるんだという覚悟が感じられます。また、幼い家継には、こんなエピソードもあります。家継が江戸城天守閣の最上階にいて、江戸の町をみていたら、近習のものに望遠鏡をすすめられます。そのとき、家継は言いました。

「われは少年ながら将軍である。もしも将軍が天守から望遠鏡で四方を見下ろしていると知れたらおそらく世の人は嫌な思いをするに違いない」と言って断ったといいます。客観的に物事をみれる聡明さと人々を思いやれる優しい人ですね。

そして明暦3年(1657)1月に明暦の大火。この大火事で江戸じゅうが焼けてしまいました。10万人もの犠牲者が出たとか。そして江戸城本丸までも焼けてしまったのです。江戸城の天守閣は防火設備も完璧だから燃えるはずがないと思われていたのですが、この時、火災旋風と呼ばれる炎のたつまきが発生。これにより天守の窓が開いて、天守の内部に火の粉が入ってしまい、炎は中から燃えてしまったのです。さらに本丸近くの弾薬庫まで火の手が伸びてしまい、弾薬庫こと爆発。江戸城の天守閣はなくなってしまったのです。その天守閣の再建をめぐって幕閣でも意見が分かれます。天守閣は将軍の象徴ですから、優先して立て直すべきだと。

しかし、保科正之は反対。「天守は無用。天守再建に充てる費用を町の復興にあたるべき」と保科はこたえ、家綱もそれに同意したのですね。将軍の権威より民衆のほうが大事だと家綱も思ったのでしょう。

また、家綱と言えばこういうエピソードもあります。家綱がまだ17歳くらいのころの話です。そのころ江戸城の庭に大きな岩がありました。剣術のけいこのジャマになるから撤去せよと家臣に命じました。それを聞いた酒井忠勝は「岩を外に出すには土塁や塀を壊さなくてはならないのでご勘弁ください」と。で、松平信綱は「大きな穴を掘って、そこに岩を埋めたらどうか」と提言。頭いいですね。さすが知恵伊豆。しかし、酒井はあくまでも反対。「世の中のこと万事思い通りになると思われると今後いろいろ問題があろう。岩は放っておいても害はない」と。家綱は、酒井の意見になるほどと納得したといいます。酒井は家綱にできないものはできない、家臣がなんでも思い通りに動けば、わがままを通り越して暴君になる危険もあることを酒井は危惧したのです。それを家綱は、そうだなって思ったのですね。家綱には家臣のことを受けいえる懐の深さがあったのです。

父の家光は、激高型で家臣か何か言えばキレてしまう性格。だから家臣たちも家光の逆鱗げきりんに触れないように気をつかい、殺伐とした雰囲気だったそうです。野球に例えれば中日時代の星野仙一監督みたいな感じでしょうか。一方の家綱は温厚で「武力や威圧で民を縛り家臣を押さえつけるまつりごとは先がない」という考え方。そうした家綱のもと、家臣たちは自由に意見が言えて、幕閣内も活性化したといいます。

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(明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられた回向院)

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(明暦の大火の出火元と言われる本妙寺跡。今はマンションなどが建っている
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(本妙寺があった菊坂。東京の文京区にある)

*1 明暦3(1657)年の江戸の大火。ふりそで火事とも。江戸城本丸も燃えるなど江戸の町55パーセントも焼け、死者10万人も超えた。その反省を踏まえ、大火後に道幅の広い広小路を作ったり、大名屋敷を移転させたり、墨田川に橋の増設も行った。大火前は敵の侵入を防ぐため、川に最低限しか橋がかかっていなかったが、火災で橋が少なかったために逃げられずに焼死した町民も多かった。その反省も踏まえたもの。『忠臣蔵』で有名な永代橋もこのころ建てられた。

*2 軍学者である由井正雪が中心に行ったクーデター事件。当時の江戸幕府は武断政治を行っており、大名家の取りつぶしを盛んに行っていた。それで大名の家臣たちが職を失い浪人となった。幕府は浪人たちの再就職の面倒など見なかったので、浪人たちの不満が爆発した。それで浪人たちを救い、幕府を倒そうと思ったのが由井小雪。将軍家継を拉致し、江戸城の火薬庫を爆破する計画であったが、幕府側のスパイの活躍で未然に防ぐことができた。そして首謀者の由井小雪は自害。

*3 それまで幕府はその力で諸大名を押し付けていたが、家綱の代から武力で押さえつけるやり方を改めた。その一環のひとつが末期養子禁止の緩和。末期養子とは、跡継ぎとなる子(嫡子)をもたない武家の当主が、死ぬ直前になってあわてて養子を取って跡を継がせること。 江戸時代の初期には、幕府は大名に対してこの行為を禁じていた。大名の家臣たちが自分らにとって都合の良い人間を跡取りにしようとか、そうした不正の温床にもなるということで。また跡取りのいない大名家は改易、つまり取りつぶしになる。大名家の力をそぐ意味でも末期養子の禁は理にかなっていたが、大名家がつぶれるたびに浪人が増えてしまった。これ以上浪人を増やさないためにも今ある大名家を存続させたほうがい、その大名家取りつぶしを制限するべく、末期養子を幕府はみとめるようになった

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(生糸)

日露戦争でバルチック艦隊を破ったという軍艦は、国産の生糸による収入で買ったといわれております。あと、明治時代に鉄道を開通できたのも生糸のおかげだといいます。しかし、江戸時代までは生糸は日本の主要産業ではなく、中国から生糸を輸入していたほど。もちろん、江戸時代でも生糸は作られていることは作られていました。生糸は着物や織物などで使われていたからニーズはすごくあったのです。国内の生産量だけは追いつかなかったのです。そんな生糸を日本の主要産業に育て上げた人々がいました。



ところで、着物一人分をつくるのにどれくらいのカイコが必要だと思われますか?これは横浜のシルク博物館に行った時の写真なのですが、スカーフ一枚をつくるのに必要なカイコは110個ほど。写真に写っている丸いボールの容器の半分くらいの量です。

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では着物はどれくらいかというと、

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あいにく正確な量は覚えていないのですが、カイコが入ったボールの容器がたくさんありますね。写真を見る限りでは27個くらいあるのかな。着物一枚作るのにいかに多くのカイコが必要かがうかがえます。しかも、これは現代の着物における必要なカイコの量。江戸時代の着物だったら、もっと必要だったかもしれない。ましてや大奥で上のほうの位になるほど着物も豪華でしょうから。

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(江戸時代の着物)



まずは新井白石あらいはくせき。中国の輸入生糸は高価で、輸入に頼ってばかりでは日本の金銀がどんどん流出していく。その対策に新井白石は乗り出したのです。新井白石は、まず中国やオランダとの貿易量を制限し、金銀の流出を抑えたといいます。さらに白石は時の将軍、徳川家宣とくがわいえのぶにこう言われたといいます。

「我が国にもに倭錦やまとにしきと呼ばれる絹織物があったときく。外国のもので作る必要はない。国産のものでつくってみよ」

わが意を得た白石は生糸の輸入制限をしました。困ったのは、織物屋や着物屋。もちろん、お上の急な政策転換に反発も覚えたかもしれませんが、着物が欲しいお客さんもたくさんいるから、そうもいっていられない。輸入の生糸が手に入らないのなら、日本の農家の生糸を買うしかない。着物業者たちはこぞって農家にいき生糸をかったといいます。それにつられて生糸生産、つまり養蚕ようさんをはじめる農家も増え、桑畑もこれまでよりも広がったといいます。こうして日本各地で養蚕を行う農家が増えたと。しかし、養蚕はなかなか難しく、質の高い生糸をつくれる地域とそうでない地域で格差がありました。

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(クワの葉を食べるカイコ)

江戸時代半ばまでの但馬たじま(今の兵庫県)の国のもそうでした。但馬は貧しい農家が多く、質の低い生糸しか作れなかったのです。そんな状況をなんとかしようと立ち上がったのが上垣守国うえがきもりくに。彼は、1753年(宝暦3)に蔵垣くらがきで生まれました。彼は18歳のときに先進地である陸奥国伊達郡むつのくにだてぐん(陸奥国は今の福島県)に行き、そこから蚕種さんしゅ(カイコの卵)を持ち帰って蚕種改良に乗り出したといいます。すると但馬の蚕の品質も向上したといいます。しかし上垣はそれに飽き足らず信州など養蚕が盛んな地域に足を運んで、その養蚕のノウハウを吸収したといいます。そうして1803年(享和3)、彼が48歳の時に『養蚕秘録ようさんひろく』という本を書いたといいます。この本には、たとえば種の製造の仕方、カイコの育て方、マユから糸を取りだす方法、それから注意事項、たとえばカイコの天敵のネズミには気をつけろだとか、いろいろと書かれております。秘録という名がつくくらいですから、社内文書のように門外不出のものかといえば、そうでもなく、この本を多くの人に読んでもらいたいと全国で出版したといいます。

当時の人々は文字が多かったので、上垣は挿絵さしえを多く入れて、そうした絵をみるだけでも養蚕が学べるように工夫されているようです。この本を読んだ農家の人たちも、そのノウハウを吸収し、養蚕づくりのレベルアップにもつながったといいます。のちにシーボルトもこの本を持ち帰り、その本がフランスでも翻訳されたというから驚きです。それくらい、この本に書かれていることがすごいのかなって。だから上垣守国は「養蚕の父」とも呼ばれております。

カイコは、温度と桑の与え方によって成長が変化します。中でも温度と湿度の管理が難しく、それによてマユの生産、つまり生糸の生産量も左右されてしまいます。1849(嘉永2)年、陸奥国伊達郡で養蚕を営む中村善右衛門なかむらぜんえもんが体温計をヒントに蚕当計さんとうけいを作りました。蚕当計をつくるのにおよそ10年の歳月がかかったといいます。

1840年ごろのある日、中村がカゼをひいて診察を受けたときに見た体温計。今でこそ体温計は、病院どころかカラオケボックスやデパートなど至る所で見かけます。特に今はコロナ禍ですからね。が、当時はオランダから持ち込まれたばかりの珍しいものでした。中村はこの体温計を応用すれば、養蚕づくりに生かせるのではないかと思いました。そして、中村は体温計のほかにも室温を図る温度計があることを知り、温度計を早速取り寄せたといいます。今でこそ温度計は100均でも買えますが、当時は15両とメッチャ高価。なにしろ一両で米を150キロも買えたといいますからね。そこまでして中村は養蚕に生かしたかったのでしょうね。温度計のしくみを研究し、カイコの温度を測る温度計をつくろうとしたのです。

カイコを育てるのに適している温度は華氏75度。つまり75度になるまで部屋を暖めればよいのです。それまで養蚕農家のひとたちは、経験やカンに頼ってカイコを飼育していたのですが、この蚕当計のおかげで温度の管理ができるようにあり、マユの品質向上に大きく貢献したといいます。




※この記事は『英雄たちの選択』を参考にして書きました。




岡山のお寺が秘蔵する人魚のミイラ、あれ作り物だったようです。だろうと思いましたよ。夢を壊したくないけれど、人魚なんてそんなものいる訳ないと前から思っていた。このミイラが作られたのは1800年代後半だと言います。思っていたより最近ですね。もっと昔のものかと思っていました。



ただ一つ謎が残ります。作りものだとしたら誰がどんな目的で、このミイラを作ったか。僕はおそらく信仰だと思います。人魚は食べると不老不死になるという伝説があります。それで不老不死になりたい、そこまでいかなくても長生きしたい、そんな願いを込めて人魚のミイラに託し、信仰してきたのかもしれません。



大奥は基本的に男性が入ることができず、女性のみ。女性たちが長期的な集団生活を送っておりました。こうした状況だと、女性が女性同士を好きになることもあるのです。大奥で女性同士がラブラブになったという資料や記録は非常に少ないのですが、それでも、あるにはあったんです。奥女中のさとは、そこまで激しい恋愛感情は持っていなかったのですが、さとの元にある女中から句が書かれた文が届いたのですね。その文には名前も書いていなかったのですが、さとが歌を作って返したのです。すると翌日になって相手から句が届き、さとがまた歌をかえしたのですね。そんなことが幾度も繰り返されたのです。

いくたひもとへと名のらぬ山ふきの 花の心に似たる君かな

(大意)何度もお名前を尋ねているのに名前を明かしてくださらないあなた。まるで実のなつかない山吹のようです



結局、句を書いたのは誰だったのかわからぬまま。多様性が問われている現代なら取り立てて珍しい話ではないのですが、LGBTという概念がなかった江戸の昔だと世間から奇異に見られたかもしれない。

寒い日がつづいておりますね。コロナもはやってきているようですし、皆様もお体を大切になさってください。

きょうは大奥の奥女中について。大奥の奥女中たちは最盛期は3千人もいたというから驚きです。その大奥の奥女中たちは将軍や将軍の奥さんの御台所に仕えておりました。その奥女中たちは、いくつものランクにわかれ、それはまさにピラミッド型の巨大な組織だったのです。その大奥にはいくつもの役職がありました。きょうはその役職の話をします。その役職は大きく分けて御目見おめみえ以上と御目見以下に分かれております。御目見とは将軍や御台所に直接会うことができる身分です。御目見以下だと将軍や御台所に会うこともできないのです。さらに細かく21もの役職にわかれます。きょうは御目見以上の役職を取り上げます。

  1. 上臈御年寄じょうろうおとしより
    大奥の最高職だが権力はない。いわば名ばかり管理職。将軍や御台所の話し相手。だいたい実家が公家


  2. 小上臈こじょうろう
    上臈の見習い。こちらも権限があまりない。やはり実家が公家


  3. 御年寄おとしより
    役職の名前から言っておばあちゃんのイメージがあるが、若くても御年寄になれる。奥女中の最高権力者。大奥のすべてを取りしきる。老中に相当。有名な江島や瀧山も御年寄。実家が旗本が多い。

  4. 御客会釈おきゃくあしあらい
    御三家、御三卿(*1)、諸大名などからの女使の接待役

  5. 中年寄ちゅうどしより
    御台所つきの御年寄の代理役。御台所の献立を指示し、毒見役を務める。

  6. 御中臈おちゅうろう
    将軍や御台所の身辺の世話をする。将軍は主に「将軍付き御中瓠廚涼罎ら側室を選んだ。御中臈は側室候補。将軍の側室になれた御中臈は、お手つき御中瓩箸い錣譴拭

  7. 御小姓おこしょう
    御台所の小間使い。7歳から16歳の少女が多く、タバコや手水の世話をする。

  8. 御錠口
    「上の御錠口(*2)」を管理。中奥との取次ぎをおこなう。

  9. 御表使おんおもてづかい
    大奥の外交係。「下の御錠口」を管理し、御年寄の支持を受け大奥の買い物をというかつ。御年寄に次ぐ権力者

  10. 御右筆ごゆうひつ
    日記や書類、書状などの執筆や管理役

  11. 御次おつぎ 
    道具や献上品の運搬、対面所などの掃除、召人のあっせんを担当。

  12. 御切手書おきってがき
    「七つ口」(*3)から出入りする人々の改め役

  13. 呉服ごふくの間
     将軍や御台所の衣服をつくる裁縫係

  14. 御坊主おぼうず
    将軍つきの雑用係。将軍の命を受けて中奥へ出入りが許された唯一の奥女中

  15. 御広座敷おひろざしき
    御表使の下働き。御三卿や諸大名の女子が登城した際は食事の世話をした。


以上が御目見以上の役職です。御目見で一番トップが上臈御年寄、一番下位が御広座敷です。特に上臈御年寄、小上臈、御年寄は老女と呼ばれ大奥で権力を握っておりました。特に御年寄の権力は絶大だったのですね。御目見は実家が公家か旗本だとなれたのですね。実家が公家だと上臈御年寄、小上臈年寄に御年寄から御広屋敷まではすべて実家が旗本です。御目見のおもな仕事は儀式や儀礼や役人などの対応、それから将軍や御台所の身の回りの世話がメインでした。次は御目見以下の役職について


  1. 御三おさんの間 
    新規採用の者が配属される。御年寄、中年寄、御客会釈たちの雑用係。


  2. 御中居おなかい
    御膳所つまり台所で料理をつくる役柄


  3. 火の番
    文字通り、昼夜とわず、女中たちの部屋をまわって火の元を警戒する。昔はガスや電気などあるはずがなく、照明はすべてろうそくなどに灯った火だった。


  4. 御茶の間
    御台所が飲む茶を調達


  5. 御使番おつかいばん
    御表使の下役。「下の御錠口」の開閉を管理し、御広敷役人の取次ぎをおこなう。


  6. 御末おすえ
    一番、下っ端。掃除、風呂、水くみ、選択、駕篭かつぎなどすべての雑用を行う。



御目見以下は下働き。特に御末は重労働で、水くみ、はては駕籠かごかつぎまでやりました。その中でも特に大変だったのが駕篭かつぎと水くみでした。駕篭かつぎは姫君とかが外出のときに駕篭をかつぐのですが、かつぐ女性たちは男性に負けないくらいの屈強なものが10人。前後5人づつでかついだのです。とくに前方でかつぐ5人は姫君に尻を見せてはならないので前側の5人は後ろ向きに担ぐ必要があったのです。水くみは井戸から桶で水を運ぶのですが、おけに入った水は重くて女性二人がかりでやっと持てるという状況でした。

これらの役職はインドのカースト制のように、ずっと固定されたわけじゃなく、基本的に才覚があったり、将軍に気に入れられると最初は下位の役職でもどんどん出世して、うまくいけば御年寄にまでなれたのですね。たとえば、11代将軍家斉の側室お美代の方は、御次からスタートして将軍の側室である御手つき御中臈になりました。ただし、出世できるといいましても生まれた家柄が低いと難しく、町人や農民の出だと昇進できず、町人や農民のむすめだとせいぜい御三の間まで。綱吉の母である桂昌院のように八百屋の娘から出世したものもいますが、それは例外中の例外。自分の娘を大奥に奉公させ出世させたければ旗本の養子にするしかないのですね。お美代の方は、日啓というお坊さんの娘でしたが、中野清武という旗本の養女になったことで出世の糸口をつかんだのです。一番下っ端の御末から御年寄になれた女中はまずいませんでした。

さらに、大奥には下がいて、以下御紹介します。


御犬子供おいぬこども
無給の女中。雑用をすべておこなった。部屋ごとに5、6人いて、年齢は16歳から23歳程度。名前の由来は、大奥の食事の残り物を食べていたからとも、物売りがやってくると犬のように集まったからとも。

部屋方へやがた
上級の女中たち個人的に雇った使用人。水くみや炊事も行ったり、米の換金や町にでては買い物をしたりしていた。




*1 徳川吉宗があらたに設けた三家。田安家、清水家、一橋家。この三家からも将軍を輩出することができる。
*2 定刻になると、内と外とから大きな錠をおろされ、これを「上の御錠口」といい、奥の玄関の「下の御錠口」とは区別された。 上の御錠口には鈴が掛けられており、「お鈴の口」ともいった。
*3 江戸城大奥の出入り口の一。奥女中の外出のときなどの通用口。夕方七つ時に閉鎖された

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