history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 平安時代



プロ野球でクライマックスシーズンが始まっております。短期決戦なので、ささいなミスが命取りになります。そういう意味では油断大敵ですよね。さて、「油断」という言葉。実はこの言葉が元々は仏教用語からきているという説があります。比叡山延暦寺の根本中堂の中に不滅の法灯ホウトウという灯火があります。西暦788年(延暦7年)に最澄が灯明をかかげて以来、1200年間一度もその灯火が消えることなく輝き続けていると伝わっております。

最澄の「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび(仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて弥勒如来がお出ましになるまで消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすように)」との願いを込めたと伝わっております。

現在も菜種油を燃料にして火を灯しております。毎日、朝夕の2回、燃料の菜種油を絶やさないようにお坊さんが菜種油を注ぎ足し続けているのです。お坊さんがうっかり油を注ぐのを忘れたら、油が切れて火が消えてしまいます。それから「油断」という言葉が生まれたと言われております。

それにしても1200年も続いているのを、守り続けるのは大変なプレッシャーですよね。万が一急なトラブルで火が消えてしまうことだってあるでしょう。そうならないようにバックアップ体制もできているのですね。実は法灯は立石寺(山形県山形市)の天文12年(1543年)の再建の際に分灯されてあるのです。法灯が延暦寺と立石寺で二つあるのですね。パソコンのデータを外付けのHDなどにバックアップするのと同じですね。

実際、織田信長の延暦寺焼き討ちの時、一度消えていたのですね。延暦寺焼き討ちちのあと、立石寺から再度延暦寺に再分灯で戻されたのですね。

* この記事はウィキペディアを参考にしました。

今日は平泉の史跡について、いろいろお話します。平泉の中尊寺のことは前回の記事で取り上げましたので割愛します。

1 庭園が見事な毛越寺
岩手県平泉いわてけんひらいずみにある毛越寺もうつうじについて。毛越寺といえば、みごとなのが庭園です。僕も生でこの庭園が見れて、感激しました。

奥州藤原家おうしゅうふじわらけが理想とした極楽浄土ごくらくじょうどの風景を見た思いでした。毛越寺にはいくつもの伽藍がらん(※1)があったようですが、ほとんどの伽藍は火災などで無くなってしまったようです・・・・


毛越寺には、シカの伝説があるようです。


嘉祥かしょう3年(850)慈覚大師じかくだいしが東北に巡遊をしていたようです。慈覚が歩いているときに、あたりが白いきりおおわれたようです。あたりが真っ白で何も見えません。当然、慈覚大師はこまってしまいます。

それで、慈覚大師がなにげに足元を見てみると、地面に白い毛が落ちていたようです。しかも、その白い毛があちこちに落ちていたのです。その白い毛を大師がたどってみると、大師の前方に白いシカがうずくまっていたのです。大師がシカに近くづくと、シカはとつぜん消えてしまい、かわりに、おじいさんが現れたようです。

おじいさんは「この地にお寺を建てなさい」と大師に言い残しました。

大師は「あの人は薬師如来様やくしにょらいさま化身けしんにちがいない」と思い、お寺を建てました。そのお寺を嘉祥寺かしょうじと名づけました。この嘉祥寺かしょうじこそ、毛越寺の前身です。

嘉祥寺というお寺は毛越寺の境内けいだいにあったのですが、今はもう無くなっております。ちなみに、毛越寺の名前の由来は、大師がシカの毛をたどって山をこえた話が元になっているようですね。



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嘉祥寺跡かしょうじあとの説明板)
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嘉祥寺跡かしょうじあと
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講堂跡こうどうあと
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法華堂ほっけどうと旧・常行堂跡じょうぎょうどうあと
※ 他にも伽藍跡がいくつもあったのですが、写真をりそこなったためブログでご紹介しょうかいすることができませんでした。

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(毛越寺の本堂)


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(開山堂。毛越寺を開いた慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)をまつる堂だそうです。藤原3代の画像も安置あんちしています。 )




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(いづれも常行堂の写真。江戸時代に仙台藩主せんだいはんしゅ・伊達吉村(だてよしむら)の武運長久ぶうんちょうきゅう(※2)を願って再建されたものだそうです。




2 無量光院跡むりょうこういんあとについて。

 調べによりますと、無量光院とは、藤原秀衡ふじわらのひでひらが京都にある宇治うじの平等院をまねして建立した寺院だったそうです。それが、たびたびの火災によって、無量光院も焼失しょうしつしてしまったそうです・・・

そのため今は、無量光院は残っておりません。いまは礎石そせき(※3)と池のあとが残っております。かつての無量光院は、無量光院は本物の平等院よりも大きい建物だったというからオドロキです。


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3 柳之御所
 柳之御所やなぎのごしょとは、奥州平泉おうしゅうひらいずみの政治の中心だったところです。

なんでも 藤原清衡ふじわらのきよひら豊田館とよだのたち(奥州市)から平泉に移ってきて居館きょかん(※4)をかまえた所であり、3代秀衡が再整備を行ったとか。

しかし、源頼朝みなもとのよりともが平泉にめてきたとき、藤原泰衡ふじわらのやすひらがみずから火を放ち、御所は燃えてしまったようです。

いま柳之御所跡は広い公園なっております。僕もおとずれたのですが、柳之御所は本当に広い敷地しきちだったんだなって感心しました。

柳之御所では発掘調査はっくつちょうさが行われ、おびただしい量の土器、木製の生活用具、金属製品、金塊きんかい陶磁器とうじきなど、貴重な遺物いぶつが見つかっておりますが、特に陶磁器は国産および中国産のものが多数、柳之御所跡から出土している点に僕は注目しております。これは奥州藤原氏が中国産の陶磁器を中国から輸入していること、さらに日本海海運と太平洋海運を介して、国産の陶磁器、たとえば、愛知県知多半島の常滑焼とこなめやき、熱海半島の渥美焼あつみやきなどを輸入していたのですね。

奥州藤原氏が東北を支配できたのはその経済力にありました。金や馬だけでなく、こうした海外も含めた交易もしていたのですね。

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※1 寺院または寺院の主要建物ぐん
※2 武人としての命運が長く続くこと。 また、出征した兵がいつまでも無事なこと
※3 礎(いしずえ)となる石のことであり、建造物の土台となって、柱などを支える石のこと。
※4 住まいとしているやかた。

奈良〜平安中期まで、大和朝廷はたびたび軍を東北に派遣したりして、東北を支配しようとしてきました。それが、しだいに朝廷に従順な現地の豪族たちに現地の統治を任せ、微税の便を図るようになるのです。その豪族たちの中で頭角を現したのが、陸奥の安倍氏、出羽の清原氏です。





その一方で、朝廷に代わって、東北地方に食指を動かし始めたのが、清和源氏でした。清和源氏は清和天皇の子供の経基が臣籍降下しんせきこうかし、その経基が源姓を賜り、その経基を始祖とする源氏の系統です。源頼朝も清和源氏の末裔です。





東北には馬や黄金などの産物が多く、また広大な土地も魅力的でした。この東北の地を巡って、安倍氏や清原氏などの地元勢力、朝廷、そして源氏が東北の覇権をめぐって対立をするようになります。そして、前九年の役、後三年の役という戦争へとつながっていきます。この戦争で安倍氏は滅亡し、清原氏は衰退していきます。その中で台頭するのが奥州藤原氏なのです。



また、前九年の役・後三年の役のどちらの戦いにも源氏が関わっていたのです。特に前九年の役は、源氏が興隆こうりゅうした原点ともいえる戦いでもありました。この戦いで源頼義が陸奥守および鎮守府将軍に任じられましたから。



しかし、前九年と後三年とどちらの戦いにも源氏がかかわったにも関わらず、源氏は東北の支配権を握ることができなかったのです。それが源頼朝の代で成し遂げられます。源頼朝に滅ぼされるまで奥州藤原氏は4代続きます。



なお、前九年・後三年の役に関しましては、こちらの動画の方がうまくまとまっていると思います。なにしろ、前九年と後三年の役は人間関係が難しく僕もうまく説明ができません。また別の機会に詳しく触れたいと思います。

















そして奥州藤原氏は、平泉を中心に東北をおさめました。前九年・後三年とむごたらしい戦いを続けてきた初代藤原清衡は平和な世を望みました。前九年と後三年の戦いで亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方区別することなく慰めるために中尊寺を建立しました。東北地方を仏の教えによる平和な理想郷にしようと清衡は考えたそうです。



金色堂は覆堂(※1)とよばれる建物の中にあります。金色堂自体はもちろん、金色堂の中の仏像たちが本当に金ぴかなんでびっくりしました。

金ぴかといいましてもギラギラとしたイヤらしい金色ではなく、本当に上品な感じがしまし



また金色堂には金だけでなく、銀やガラス、象牙ぞうげ(なんとアフリカゾウの象牙!)などが使われているとうからおどろきます。



それにしても、象牙まで使われていたとはおどろきます。象牙なんて今の日本ならともかく、平安の昔に象牙をたやすく手に入るわけがありません。何しろゾウなんて日本にはいないのですから。これは、奥州藤原家おうしゅうふじわらけが海外との貿易を行っていた事の証拠しょうこだと言えます。



金色堂をみて、「ああ、東北は黄金の産地だったんだな」と感心してしまいました。しかし、黄金の産地だったからこそ、時の権力者に東北がねらわれたのでしょう・・・









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(中尊寺の覆堂ふくどう。この覆堂ふくどうの中に金色堂があります。)



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(旧覆堂ふくどうの写真。以前はこの覆堂の中に金色堂があった。覆堂が作られたのは金色堂の黄金を雨や雪から守るためだそうです。)









※1貴重な文化財、史跡等を風雨から保護するために、それらをおおうように建設された簡易な建築物である



※ 参考文献



いま、「東北」の歴史を考える
高山宗東
総和社
2011-06-28





これならわかる東北の歴史Q&A
進, 榎森
大月書店
2008-06-01

東北の人たちも平和にくらしておりましたが、6〜7世紀にヤマト王権が確立すると、地方の有力首長層を国造くにのみやつこに任命し、それぞれの地域の土地と人民の支配にあたらせました。国造はヤマト朝廷に対して貢納こうのうの義務を負い、兵役や雑用までやらせたといいます。国造が治めるクニは太平洋側では福島県、宮城県、山形県の3県にわたり流れている阿武隈川あぶくまがわの河口以南、日本海側では新潟から長野県を流れる信濃川と福島県、栃木県、新潟県を流れる阿賀野川あがのがわの河口以南に置かれ、こうした境界ラインより北の住民を「エミシ」と呼ぶようになりました。本当は地図を使ってご説明すればよいのですが、あいにく、その地図が用意できなくて、申し訳ございません。


そして、7世紀半ばから9世紀初頭にかけて「化外けがいの民」としての「エミシ」支配を強化するために、宮城県に多賀城、秋田県に秋田城、岩手県に胆沢城いさわじょう、山形県に出羽柵でわさくなど20あまりの城や柵をつくって、これらの城や柵を拠点にして、エミシに対する支配を強化する一方で、朝廷への朝貢も強要しました。

そういた朝廷のやり方に反発した中心人物はアテルイとモレです。そのアテルイ一派を征伐せいばつするために朝廷から派遣されたのが坂上田村麻呂なんですね。ちなみに坂上田村麻呂は京都の清水寺を建立こんりゅうした人物でもあります。清水寺にはアテルイを供養する慰霊碑いれいひもあります。アテルイは大変な勇者でしたが、田村麻呂率いる朝廷の大軍にかなわなかったのですね。田村麻呂はアテルイとモレの命乞いをしたのですね。「あれほどの勇者を殺すのは惜しい」と。しかし、朝廷はアテルイとモレを処刑したのですね。

アテルイとモレは大阪あたりで処刑されたといいます。


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(アテルイとモレがたてこもったといわれる岩屋)

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(坂上田村麻呂が建立した清水寺)


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(清水寺にあったアテルイとモレの慰霊碑)

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(大阪にあるアテルイとモレの慰霊碑)

今日は「さとうきび畑」。あまりに有名な曲です。この曲を聞くと沖縄って感じがしますし、戦争の悲惨さがひしひしと伝わります。この曲は、ちあきなおみあさんや森山良子さんがお歌いになりました。

あいにく、沖縄は僕は一度も訪れたことがありません。親戚が沖縄に訪れたことがあるのですが、海がすごくきれいで驚いたって言っていました。親戚はひめゆりの塔にも行ったし、首里城にも行ったようです。首里城は昨年火災にあいましたね‥・・


沖縄はきれいなところなようですが、その歴史を振り返ると色々複雑でして。また、ひめゆり部隊に代表されるように沖縄は悲惨な戦争の舞台でもありました。米軍基地の問題も難しい問題です。

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