History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 平安時代

京都の宇治に橋姫伝説というのがあります。平安時代中期、大変仲が良い公家の夫婦がいました。そんな夫婦の間に亀裂が突然走ってしまいます。夫が浮気をしてしまうのです。怒った妻は夫をなじります。夫は言い逃ればかりで、結局、夫は蒸発してしまったのです。意を決した妻は貴船神社へと向かいます。ここには丑の時(午前2時)に参拝すると願いが叶うという言い伝えがあります。僕も以前に貴船神社にいったことがあるのですが、丑の時にお参りすればよかったなあw、僕がお参りをしたときは昼間でしたから。そんな話「ダークサイドミステリー」見るまで知らなかった。

そこで女がかけた願いとは、「恨みを晴らしたい、生きながら鬼にしてください」。怖いですね。普通、夫が浮気がバレた時点で奥さんは鬼になると思いますがw、わざわざ鬼になりたいと神様に願を書けるのだから本格的ですね。しかも、夫への恨みを晴らしたいと。女は神のお告げを聞き、まずは髪をツノの形に作り、そして21日間、宇治川に入り、水に浸かり続けたといいます。すごいですね。すると、女は願い通り鬼になったのです。その名を橋姫。

橋姫はすぐさま夫の元へ。夫の命を奪おうとしたら、突如現れた神々に邪魔されてしまいます。逃げ出した橋姫は、宇治川の流れに姿を消してしまうのですね。最後に残した言葉は、

「私を弔ってほしい」

男の身勝手な振る舞いに鬼になった橋姫の悲しい物語です。

また、元々丑の刻参りは願いを叶えるための純粋な行いでしたが、この橋姫以来、相手を呪うための儀式みたいになってしまったのですね。

*この記事は「ダークサイドミステリー」を参考にして書きました。

今日は大江山の酒呑童子について。有名な鬼ですよね。酒呑童子の物語を知らない人はいても、その名前を知っている人は多いはず。

時は平安時代、都で多数の行方不明事件が起こります。それで名高い陰陽師の安倍晴明が占ったところ、大江山に住む鬼の仕業だということがわかりました。その鬼の名前は酒呑童子。大江山は京都府の北西にあります。ここには鬼が古くから住んでいたという伝説があります。鬼退治の命を受けたのは武勇名高い源頼光。頼光は部下を率いて大江山に向かいました。

頼光一行が山を歩くと立派な宮殿を見つけました。その宮殿の中から身長3メートルもある大男が出てきたのです。大男と言いましても、「丸大ハンバーグ」のCMに出てくるおじさん(「大きくなれよ」のセリフで有名)、あw、若い人はわからないかw。「ジャックと豆の木」に出てくるようなおじさんではありません。見た目は子供のように見える大男です。

びっくりしたでしょうね。身長3メートルですからね。その大男は頼光一行をもてなし、酒宴を開いたと言います。そして、酒が入っていつの間にか仲良くなって、いろいろな話をしたのです。そして大男が身の上話をしたのです。

「自分は元々は比叡山に住んでいたが、最澄によって山を追い出されてしまった。仕方がないから、今は大江山に住んでいる」と。比叡山は延暦寺があるところですよね。要するに、大男は最澄や仏教勢力を快く思っていないのですね。

その大男の正体こそ酒呑童子に違いないと思った頼光たちは、鎧で身を構え、大男が寝るのを待っていたのです。そして大男の寝床に忍び込んだら、なんと身の丈15メートル、ツノが5本、目がいっぱいの、恐ろしい化け物、酒呑童子でした。そこへ頼光たちが斬りかかったのです。こうして酒呑童子を退治したのです。でも、冷静に考えるとひどい話ですよね。大男(酒呑童子)は源頼光を襲ったわけでもないし、都における行方不明事件の犯人だったという証拠もない。その根拠というのは、物的証拠ではなく、安倍晴明の占いの結果ですからね。むしろ、酒呑童子はお酒を勧めて源頼光をもてなしたのだから、結構いいやつじゃんって。

酒呑童子の首を持ち帰り、一向は大江山から京に向かったのですが、首が急に重くなったので運ぶことができませんでした。それで、途中のところで首を埋めたのです。その首を埋めたところは首塚大明神となっております。そんな伝説があるのです。また、その首は宇治の平等院の宝蔵に収められているという伝承もあります。

それにしても、このような恐ろしい鬼が実在したのでしょうか?実は平安時代は天皇を中心とした国家体制が確立されておりました。一方で、天皇に反発する人たちや、歯向かう豪族も少なくなかったのです。そうした人たちの存在を朝廷は許さなかったのです。また、宗教界では天台宗が最も権力を持っておりました。朝廷の加護を受けていましたからね。皇室にも逆らい、天台宗に対しても従わない宗教的なバックボーンを持った人たちがいても不思議じゃありません。そういう人たちを酒呑童子と見立て、悪者にしたのでしょう。要するに邪魔者。排除すべきものたち。今まで住んでいたところを追われ、逃げたら、逃げたで反逆者として、また追われ、結局殺されてしまう。なんかひでえ話だね。朝廷の方がよっぽど鬼じゃねえかって思ってしまいます。

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(宇治の平等院)



*この記事は「ダークサイドミステリー」

おはようございます。前回の続きです。壇ノ浦の戦いですが、兵士の数だけなら源氏の方が優勢です。さらに義経には策がありました。海の戦いで平家を数の力で追い詰め、陸上から兄の源範頼が平家の背後から弓矢で攻撃するという挟み撃ち作戦を立てました。完璧な作戦ですね。これなら源氏圧勝のはず。しかし、世の中なかなか、うまくはいかないものでして。

合戦を次の日に控えた日の夜、梶原景時と総大将の源義経がもめたのですね。戦の先陣を巡って、二人がバトルをしたのです。まず、景時は「総大将が先陣を切るなんて聞いたことがない」と言いました。すると、義経は「これまでの戦いで勝てたのはわしのおかげ」といったのですね。先陣を切って手柄を立てたかった景時は怒ってしまいます。景時は「義経殿は主君の器ではない」と言ったら、義経は激ってしまい「そなたこそ、日の本一の愚か者じゃ!」って、まさに売り言葉に買い言葉でバトルになったのです。平家と戦う前に身内で争ってしまってはダメでしょう。見かねた家臣たちも、義経をなだめたほど。ちなみに景時と義経は屋島の戦いの時でもバトルをしていたのですね。壇ノ浦の合戦の後、頼朝と義経の兄弟仲がさらに悪くなるのですが、それも景時も一枚かんでいたのですね。

そして運命の元暦二年(1185)3月24日早朝、義経率いる海軍800隻が東側に、平家の船500隻が西側に対峙。そしていよいよ戦いの火ぶたが切って落とされたのです。兵の数では源氏の方が上ですが、得意の海上戦で、戦いを有利に進めたのですね。しかも関門海峡は潮の流れが速く、干満の潮の流れの変化を熟知していたのです。まさに地の利を知っているものは強いですね。その潮の流れに乗って一気に源氏を追い詰めようとしたのです。その潮の流れは西から東へと流れていました。平家は潮の流れに乗って、どんどん船が進む。一方の源氏は潮の流れと逆方向にいますから船もなかなか進まない。うごく歩道の逆方向で歩いたら、なかなか前に進めないのと同じですね。

さらに清盛の四男、平知盛は、源氏が三種の神器と安徳天皇を狙っていると考え、安徳天皇ら身分の高い人たちを小さな船に乗せ、造兵たちを御座船という大きな船に乗せオトリにしたのですね。本来なら天皇は御座船に乗るはずなので。源氏の兵が御座船を攻撃しているところを平家の軍勢が包囲し攻撃をしたのです。しかも平家側も死に物狂いで戦ってくる。そうして、戦は平家軍優勢になったのです。義経危うし。


そんな時、二千頭のイルカの群れが現れたのです。可愛らしいですね。清盛の三男の平宗盛はそれを神のお告げだと思い喜んだのです。そして陰陽師の安倍晴信(あべのはるのぶ)に占いをさせました。晴信は「イルカの進む方向にいる軍が負ける」と予言します。平宗盛もイルカたちの様子を見ていたのです。するとイルカたちは源氏の方へ向かわずUターンして、平家の元へ行ったのです。イルカ占いで悪い結果が出てしまい、平宗盛もショックがったと言います。



占いの結果はどうあれ、源氏が不利であることには変わりがありません。それで義経がとった策は、なんと敵の兵士ではなく、船の漕ぎ手を攻撃しろと言ったのです。これは「鎌倉殿の十三人」にも出てきましたが、当時の武士たちにとって大変恥なことだったのです。あくまで戦争は武士同士の戦いであり、非戦闘員に手を出してはいけないというルールがあったので。漕ぎ手というのは非戦闘員ですからね。この頃すでに敵の兵士が乗っている馬を攻撃するというのはありましたが、漕ぎ手を攻撃する人なんていなかったのですね。漕ぎ手を失い、船を動かす人間が居なくなって平家は大混乱。

また平家軍についていた阿波水軍も裏切ってしまったのですね。阿波水軍のボスは御座船に天皇は乗っていないことまで源氏側に教えてしまったのですね。阿波水軍だでなく、四国や九州の兵たちも平家側から次々離反。実は阿波水軍が裏切ったのは、田口成良タグチシゲヤスの息子が源氏側に捕まったからなのですね。そのことを知っていた知盛は、裏切る可能性のある田口を斬ってしまえと総大将の平宗盛に進言するが、認められなかったのですね。平知盛は、「あの時、田口を斬っておけば」と悔やんだことでしょう。

こうして義経の漕ぎ手攻撃という奇策と味方の裏切りで平家は負けてしまいます。

負け戦に、一門の者たちそして二位尼と安徳天皇が次々と入水する中で、清盛の甥っ子の平教経はなおもひとり戦い続けたのです。さんざんに矢を射て源氏の武者たちを射落とし、敵を散々斬ったのです。これを見た知盛は人を使いして「罪つくりなことをするな、よき敵でもあるまい」と伝えたほど。

「ならば、敵の大将と刺し違えん」と意を決した教経は舟から舟へ乗り移り、敵をなぎ払いつつ義経を探したのです。そして、ようやく義経の舟を見つけて飛び移り、組みかからんとするが、義経はゆらりと飛び上がるや、義経は、「これは叶わぬ」とピョーンとジャンプして八艘ハッソウもの船を飛び移って逃げたという伝説がありますが、おそらくただの伝説でしょうwでも、義経が逃げたのは事実でしょう。

義経を逃した、もはやこれまでと思った教経は源氏の大男二人を両脇に抱えて飛び込み道連れにしたと言います。武士らしい最後でした。

一方の総大将の平宗盛は船の上をオロオロするばかり。その姿に家臣は呆れて、宗盛を海へ突き落としたと言います。宗盛はおもりをつけておらず、沈まないでバタバタとおぼれてしまい、あろうことか敵方の源氏に助けてもらったと言います。平宗盛は生き恥をさらしてしまったのです。その後、宗盛は源氏の手にかかり殺されたと言いますが、引き回しの時、周囲のものたちが、嘲笑ったと言います。

平知盛は、生き恥をさらした宗盛に呆れつつも、武士らしく最後まで戦い続け「見届けるべきものは全て見届けた」と言いました。平知盛はヨロイを二つ重ねて海に飛び込み自害したと言います・・


*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。

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(源義経)

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(平知盛)

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(赤間神社)
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(耳なし芳一の銅像。耳なし芳一の話はまた別の機会にお話します)

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(安徳天皇の御所)

今、大河ドラマで「鎌倉殿の十三人」で放送されております。この間は壇ノ浦の合戦も出てきましたね。源義経役の菅田将暉さんが熱演されていましたね。壇ノ浦といえば八年くらい前に行ったことがあります。あれは12月の初めだったかなあ。壇ノ浦に訪れて真っ先に行ったのが山口県の下関にある赤間神社。この神社には安徳天皇が祀られております。安徳天皇は当時まだ幼く、二位尼ニイノアマ(平時子)と共に入水自殺をしたのですね。ちなみに、三種の神器もその時に海に投げ込まれたのですね。壇ノ浦の合戦の後、三種の神器のうち、鏡と玉を見つけたのですが、剣が見つからないまま。それで源頼朝が義経のことを「平家がほろんでも三種の神器三つ揃わなくては意味がない!」って怒ってしまうのですね。義経のおかげで平家に勝てたのに、義経がかわいそうだなって

そして神社の境内には平家一門のお墓があるのですね。神社の境内にお墓があるのは珍しい。お墓のすぐそばに耳なし芳一の像があります。お墓の写真は撮りませんでした。呪われそうだからw?。ともかく、お墓は異様な雰囲気でしたよ。何か怨念みたいなものを感じました。実は僕はここで怖い経験があるのですね。僕がお墓をお参りしていて、「まさか、幽霊なんているわけないよな」って心の中で思った瞬間、お墓のところにあった落ち葉がチラリと動いたのですね。びっくりしましたよ。海がすぐ近くだから海風だとは思うのですが、今まで動かなかった落ち葉が急に動いたのだから怖いなって。

それくらい平家一門の無念を感じ取ることができました。それから壇ノ浦に行きました。壇ノ浦には下関から九州まで関門橋がかかっていて、その景色はとても美しかった。八百年以上も前にここで激しい戦があったとは思えないような光景でした。また壇ノ浦のところから九州まで海中トンネルで繋がっていて、徒歩で九州まで行くことができます。僕もトンネルを歩いて九州まで行きましたが、なんか怖かったなあ。トンネルが壊れたら、どうしようって思ったほど。僕は泳げないからおぼれて死んじゃうよって。源平の兵士たちも海に落ちて苦しみながら死んだんだろうなって思わせてもらいました。

ここで平家は滅亡したのですが、平家の滅亡の始まりは平清盛の死からです。「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほどの栄華を誇った平家も坂道を降りるかのようにガラガラと崩れていったのです。芸能界やスポーツの世界でもそうですが、すごい人気が出たり、輝かしい成績を残すと、かえって怖いんですよね。あとは落ちていくしかないから。源平の合戦で特に活躍したのが源頼朝の弟の源義経。奇抜な戦術で次々と勝利を収めたのです。

一方、迎え撃つ平家側の総大将は清盛の三男の平宗盛。しかし宗盛は将の器ではなく、実権は四男の平知盛が握っておりました。平家は源氏との緒戦に次々敗れ、西へ西へと追い詰められたのです。そして平家は本陣を下関の彦島に移しました。彦島を拠点にし、九州で体制を立て直そうとしたのでしょうね。ところが、頼朝の弟の源範頼ミナモトノノリヨリが一足早く九州を抑えてしまったのですね。平家はまさに袋のネズミ状態でした。野球に例えるなら、9回裏のツーアウトという状況でしょうか。一発逆転ホームランを打つには、平家が得意とする海上戦に持ち込むしかない。

一方の源氏は船も不足している上に、海上戦も苦手。義経自身も陸上での戦は強いのですが、海上戦は未経験だったのです。かといって源氏の兵士たちに海上戦の訓練をするとなると時間もかかるし、ノウハウもあまりない。それでまず源義経は、平家に味方している海賊衆に協力を求めたのです。もちろん、タダというわけには行きませんから源氏が勝ったあかつきには俸禄を与えると約束したのです。海賊なら海の戦いに慣れていますからね。例えは良くないが、会社で英語の社内公用語化を行い、社員の英語のレベルをアップさせるよりも、優れた通訳や日本語ペラペラの外国人を雇った方が早いみたいな、そんなところでしょうか。

しかし、中には平家を裏切ることに躊躇チュウチョする海賊もいたのです。和歌山の熊野を拠点とする熊野水軍が典型。平家は瀬戸内海に勢力があり、熊野水軍とも親しかったのです。熊野水軍のボスだった 湛増 タンゾウは、悩んだ末に熊野権現に祈ったところ、白旗につけというお告げが出たのです。白旗というのは降参しろという意味ではありませんよw。源氏につけという意味です。赤が平家、白が源氏です。それでも湛増は決断できず、赤いニワトリ🐔と白いニワトリ🐓をそれぞれ七羽を一羽ずつ出し合って神前にて戦わせたのですね。なんと白いニワトリが完勝。赤いニワトリはみんな負け。これで湛増の心は決まり、源氏につくことにしたのです。こうして、義経は熊野水軍、渡部水軍、伊予水軍といった海賊たちを味方につけ、四国の屋島の戦いで見事勝利。そして、戦争の舞台は壇ノ浦に移ったのです。

そして、元暦ゲンリャク二年(1185)の3月23日、戦闘開始の時刻を双方相談の上、翌日の朝6時ごろに矢合わせ(戦闘開始)しようと取り決めたのです。この頃の合戦は、プーチンみたいにいきなりウクライナに侵攻したのではなく、双方が相談してルールに則って戦争をしていたのですね。

前もって双方の使者を交換して戦争の日時と場所を決め、決められた日にちに集まり、戦争を始めていたのですね。ちなみに義経のこれまでの戦いはほとんど奇襲だったのですね。義経のこれまでの勝因はある意味、ルール違反をしていたこともあるのですね。勝つためには手段を選ばないというか。最も戦争のルールというのも時代と共に変わっている面もあり、義経ばかりを非難できないのですね。

また、この時代、戦う前に代表が「やあやあ我こそは、○○なり!」って自己紹介してから、相手の悪口を言ったり、自分を功績を自画自賛したり、そういうやりとりもあったのですね。だから、戦争の時間がやたら長引いたのです。それがのちに元寇の戦いの時に裏目に出たのですが、その辺のお話は別の機会に。

それから矢合わせというのがあり、片方の総大将が敵の陣地に鏑矢という矢を打ちます。先端がカブのような形をしていることから、そういう名前がつきました。しかも音が鳴るので、何かを知らせるにはよいものです。鏑矢が打たれると、これは戦争を始めようという合図。相手側からも鏑矢が打たれます。これは返し矢と言い、わかったという合図。今ならLINEを使って瞬時に意思の疎通もできますが、昔は、そんなものがなかったから戦にもエラく時間がかかったのでしょうね。

ところが決戦前夜に源氏の中でうちわもめが起こるのですね。その辺のお話はまた次回。


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(壇ノ浦)

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(壇ノ浦)

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(壇ノ浦)

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(壇ノ浦にかかる関門橋のアップ)

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(大砲。幕末の下関戦争でも、壇ノ浦が戦場になった。列強と長州藩が戦ったが、長州藩の大敗に終わった。この負け戦が長州藩にとってのターニングポイントで、この敗戦をきっかけに倒幕運動に長州藩は傾いた)

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(源義経の像)

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(かつて大河で源義経を演じられた滝沢秀明さん、共演された小泉孝太郎さん、松坂慶子さんの手形)

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(説明板)

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(まだ割れる前の殺生石。すでにヒビが入っていた)

栃木県の那須高原にある殺生石が割れたというニュースを目にしました。殺生石に関しましては、以前に九尾の狐の時に書きました。九尾の狐が玉藻の前という女性に化けていたが、陰陽師に見抜かれ、那須まで逃げてきたと。そこで朝廷の軍勢に討たれてしまった。その九尾の狐が呪いの言葉を残して、石に化けてしまったと。その石が殺生石だという話。

その石が割れたのだから、不吉だと思った人も少なくありません。かくいう僕もその一人。

九尾の狐の話は古代中国からありました。時は、殷の紂王の時代。紂王は妲己という女性を非常に愛しておりました。その妲己こそ九尾の狐が化けたものだと言われております。紂王と共に残虐なことをしていたといます。2本の柱に橋のように板を乗せ、その上に人を渡らせます。しかも、その橋の真下は火がメラメラと思えているのです。当然、橋から落ちたら死んでしまいます。その人が落ちて死んでいく様を妲己と紂王は楽しんでいたのです。それを見かねた忠臣たちも処刑するなど、ひどいものでした。紂王の悪政で、人々は苦しみ、そして反感をかったのです。結局、紂王は自害し、殷王朝は滅びました。

次に、西周の12代目、幽王の時代に褒姒(ほうじ)という女性に化けます。褒姒はなかなか笑わない女性で、幽王は彼女を笑わそうとするが、なかなかうまくいきません。結局、幽王は家臣からも見放され、自害してしまいます。

さらに、九尾は天竺(インド)にわたって華陽夫人に取り憑き、班足太子に取り入ったのです。そこで、太子をそそのかし、1000人もの人の首を刎ねるなど、恐ろしいことをしていたのです。

そして、日本に渡って、今度は玉藻の前となって、時の鳥羽上皇をたぶらかしたと言います。九尾の狐は那須で石灰石になったと言いますが、のちに日蓮上人が那須にやってきて、日蓮との出会いにより、改心し、悪さをしなくなったという伝説もあります。

また、韓国で九尾の狐はクミホと呼ばれ、親しまれているようです。クミホは悪さをするどころか、人間に知恵を与えてくれるありがたい存在として描かれております。

元々は九尾の狐も悪い魔物ではなく、人間に幸福をもたらす存在だったのかもしれない。実際、九尾は神獣、瑞獣など神聖な生き物だったと言われております。それが、なんらかの理由で、人間を憎むようになったのかなって僕は思います。「ごんぎつね」の話じゃないが、人間に親切にしたのに、逆に殺されてしまい、それから人間を恨むようになったのでは?と想像してしまいます。




ごんぎつね (日本の童話名作選)
南吉, 新美
偕成社
1986-10-01


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