history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 飛鳥・奈良時代

鑑真は日本にわたることを決心しますが、当時の唐は一種の鎖国政策みたいなものをとっていて、唐の人間が国外にでることを禁じられました。それで鑑真がとった方法は密航でした。鑑真はたびたび、日本に渡ろうとしましたが、何度も失敗をしてしまいます。一度目の渡航を計画したのは743年。地元の有力者にお金を出してもらい、船をつくりますが、密告により失敗。同じ年に今度は鑑真自らが費用を工面し船を調達し、その年の暮に出航しましたが、船は嵐にあい座礁ざしょう。一応断っておきますが、ここでいう嵐とはアイドルグループのことではありませんからねw嵐といえば活動休止しましたが。おっと、すみません。本題w本題w

二度目の渡航も失敗。三度目も四度目も、鑑真来日に反対する弟子による密告により失敗。しかし、それでも鑑真は日本行きをあきらめませんでした。748年、鑑真は5度目の渡航に挑みます。当時鑑真は61歳。しかし、無事出航したのもつかの間、また嵐にあい漂流。荒れ狂う大波で、乗組員はみな船酔いし、苦しみもがいたといいます。船には飲み水もなくなるなど苦しい思いをするばかりでした。そして船は海南島に漂着します。海南島はいまでこそ中国のハワイとよばれ観光地となっておりますが、当時はジャングルだらけで、この世の果てと恐れられていたところでした。鑑真一行はこの海南島で一年を過ごしたといいます。それから揚州に戻ろうとしましたが、途中で栄叡ようえいが病に倒れ、亡くなるのです。さらに普照ふしょうも鑑真の元を離れます。鑑真とケンカしたから?のん、のん、のん。外国人である自分がこれ以上鑑真についていくと迷惑をかけると思ったからです。泣く泣く普照ふしょうも鑑真の元を離れます。

そして、鑑真自身にも異変が起こります。疲れがたまっているのにかかわらず炎天下のなかで歩き回ったせいか、失明をしてしまうのです。

753年、揚州に帰った鑑真は日本から来た遣唐使に会います。遣唐使たちは自分たちの船に乗って日本に来てほしいと頼みます。鑑真は日本への渡航を決心したのです。しかし、いざ乗船というその時、遣唐使の大使が急に反対を言い出すのです。もし、鑑真の密航が発見されると、唐との外交問題になりかねないと恐れだしたのです。鑑真があきらめかけると、大使の次にエライ副士が声を掛けます。「私の船に乗ってください。」副士は、自分が搭乗する第二船にひそかに鑑真を乗せたのです。おそらく、副士はひそかに大使を説得したのかもしれませんね。日本を救うためには鑑真がどうしても必要だと。かくして鑑真と弟子たちはようやく日本にたどり着きます。

753年、鑑真は日本に到着。鑑真66歳でした。754年2月、平城京にやってきた鑑真は盛大な歓迎を受けました。そして、聖武太上天皇(当時の天皇は孝謙天皇。聖武の娘)は、このように喜びの意を示しました。

「鑑真和上は遠く大海を渡り、この国へ入られた。喜ばしきたとえようがない。」

こうして鑑真による授戒が行われ、聖武太上天皇、お后の光明皇太后、そして孝謙天皇が鑑真より戒律を授かったといいます。その後鑑真は、東大寺に戒壇院かいだんいんをつくり、ここで出家した者にたいし戒律を与えたといいます。ここで戒律を受けた者のみが僧侶になることが許されたといいます。鑑真がもたらした授戒制度により、脱税目当ての出家に歯止めをかけることができたといいます。

そして、鑑真は758年、71歳で大和上という称号をもらい引退をしたといいます。翌年、唐招提寺をひらき、一般の人にも仏教を説いたといいます。763年、鑑真はこの世を去りました。享年76歳。鑑真が弟子たちに残した言葉です。

「憂ううことを もちいざれ よろしく方便を求めて必ず本願 遂ぐべし」(心配しなくていい、願いは必ずかなえられる)

※ この記事はNHKの「英雄たちの選択」を参考にして書きました。




1 鑑真の生い立ち
 今日から鑑真のお話を二回に分けてお話します。鑑真といえば、奈良時代に日本に正しい仏教を伝えた中国の高僧として知られております。彼が建てたお寺が唐招提寺で、僕もいちど訪れたことがあります。

鑑真は688年(唐の時代)、揚州で生まれました。父は熱心な仏教徒で、父の影響を受け、701年、鑑真は14歳で出家します。唐の時代は仏教が盛んな時代で、時の皇帝たちも保護したのです。特に則天武后は熱心に仏教を保護したといいます。則天武后は悪名が高いですが、仏教の発展に関しては功績も大きい人物でした。

707年、鑑真は長安にわたります。ここは巨大な寺が乱立し、多くの僧が日々、修行をしていたのです。そこで鑑真は、仏教の要である「経」「律」「論」を学びました。「経」とはお釈迦さまの言葉を集めた経典のこと。「律」とは僧侶が守るべき道徳や生活習慣。「論」とはお釈迦さまの言葉を解説、解釈した書物のこと。鑑真は7年間にわたってこれらのことを学び、故郷の揚州に帰って、大明寺というお寺にて弟子を育成したといいます。その弟子の数4万人だそうです。鑑真は学問だけでなく、実践を重視し、僧侶は社会に出て、人々を救うべきだという考え方でした。

2 日本にいくきっかけ
 742年、55歳になった鑑真の元に二人の訪問者が訪れます。日本からの留学僧、普照ふしょうと、栄叡ようえいでした。二人は鑑真にこう述べました。

「日本には唐と同じ『正式な仏教』を指導する人がいません。どうか日本に来て正しい仏教を指導してください」

2人は朝廷から高僧を招くというミッションを与えられたのです。二人は9年前に唐に訪れ、日本に来てくれる高僧を探し続け、やっとであったのが鑑真でした。鑑真はしばらく考え、それからこのように言いました。

「今、ここにいる者たちの中にこの遠くからの要請に応じて日本に正しい仏教を伝えようとするものはいないか」

しかし、一人として手を挙げるものはいませんでした。今でこそ中国から日本に行くには飛行機でひと飛びですが、当時は木造の帆船で海を渡るしかありません。しかも、日本海は嵐や高波がすごくて、非常に危険な命がけの旅だったからです。しびれを切らした鑑真はこう言いました。

「これは仏教のためのことだ。どうして命を惜しもうか。皆がいかないなら、私が日本に行こう」

鑑真の言葉を聞いた弟子たちは、反省し、日本に行くことを鑑真に申し出たといいます。鑑真がこのような決断をした背景は、当時の中国情勢にありました。時の皇帝玄宗皇帝は、仏教よりも道教のほうが熱心で、中国でも仏教は下火でした。それで、鑑真は日本に行ったほうが仏教が広められると考えたのですね。また、普照ふしょうと、栄叡ようえいが唐に訪れる25年くらい前に日本の長屋王が中国に袈裟けさを千枚ほど寄進しているのですね。その袈裟には「国は違うが、仰ぐ空は一緒。仏を通じて、縁を結ぼう」という詩が書かれていたのです。そんな日本人の信仰深さに鑑真は感銘をうけて、日本に行こうと思ったかもしれません。


3 鑑真が選ばれた理由

 当時の朝廷が唐から高僧を招こうとした背景は、私度僧しどそうと呼ばれる人間が増えたことが大きいです。庶民たちが重い税で苦しんでいる中、僧侶たちには納税の義務がなかったのです。現代の日本も宗教法人には税金がかかりません。昔から日本は宗教者には甘いw?そのため、税を逃れるために勝手に坊さんになる人が多かったのです。当時の日本には坊さんになる正式な手続きがありませんから。にわか僧侶の増加で、税収が減り、朝廷は困ってしまいます。

さらに平城京のちかくで私度僧が一万もの民衆をあつめ怪しげな集会を開く始末。こまった朝廷は、僧侶になるための正式な手続き「授戒じゅかい」の導入を計ろうとします。「授戒」とは出家したものが高僧たちの前で、道徳や「戒律」を守る誓いを立てることです。当時の日本には僧侶の戒律を教えられる高僧がおらず、それで仏教の先進国である唐まで探せという話になったのです。

また聖武天皇の時代は、東北で蝦夷えみしが反乱を起こしたり、朝鮮半島の新羅との関係も悪化し、新羅に攻め込もうという強硬派も出てきたり、疫病のパンデミックがおこったりと国情が非常に不安定でした。それで、聖武天皇は国分寺や国分尼寺など寺をたくさん作ったり、大仏を作ったりと、仏教を通して、国を治めようとしました。唐の優れた高僧を呼び、日本の仏教のレベルを高めようと聖武天皇は考えていたのかもしれない。

令和でさえ、コロナという病気が流行り、苦しい時の神頼みとばかりに、神社仏閣にお参りに行ったり、アマビエのお札や人形を持ったり、いろいろとコロナ除けのおまじないをしている人が少なくありません。ましてや、奈良時代という科学が発達していない時代であるならば、なおさら神仏に頼ろうとするでしょうね。次回はいよいよ鑑真が日本にわたるお話をします。しかし、それは大変なことだったのです。


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1 大海人皇子と結婚
昨年、天皇皇后両陛下がご即位されましたが、その即位の礼も持統天皇ジトウテンノウが始めたとも言われております。持統天皇は645年、中大兄皇子なかのおうえのおうじの娘として生まれました。幼名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいました。なんか難しいお名前ですねw舌かみそうw

645年、大事件が起こります。乙巳いっしの変です。中大兄皇子らが、蘇我入鹿ソガノイルカを暗殺したのです。

それから、中大兄皇子は13歳になった娘の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)と自分の弟の大海人皇子おおあまとのおうじと結婚させます。すごいですね、自分の娘を自分の弟の嫁にやるのですから。昔は近親結婚が珍しくなかったのですね。

668年には中大兄皇子が天智天皇として即位しました。大海人皇子は兄を助けました。それが671年、天智天皇は病に倒れたのです。天智天皇は大海人に「後のことはたのむ」と言ったのですね。その兄の申し出を大海人は辞退。大友皇子を推薦し、大海人皇子は出家します。実は天智天皇は、我が子大友皇子を次の天皇にし、弟の大海人皇子をオトシイレようとしたのですね。大海人はそれを見抜いていたのですね。

671年、天智天皇が崩御ホウギョすると、大友が兵をあげます。それをきいた大海人は吉野を逃れました。はじめは数名だったのが、次第に大海人に人が集まり、大軍となりました。そして大友と大海人がぶつかかりました。それが672年におきた2 様々な困難
673年、大海人は天武天皇に、 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコは皇后になります。天武天皇は中央集権国家の樹立をはかります。一方の 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコも積極的に政治にかかわります。681年、 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコは天武天皇とともに律令の編纂を命じます。飛鳥浄御原令です。のちの大宝律令につながります。

天武天皇と 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコは679年、大津皇子や草壁皇子ら6人の皇子とともに吉野に訪れ、そこで天武天皇は「兄弟が相争ってはいけない」と6人の皇子に言い聞かせたのです。6人の皇子は兄弟といっても腹違いでした。これがいわゆる吉野の盟約です。

しかし、夫の天武天皇がなくなってからは 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコは天武天皇の後継者は若すぎるということで、自ら実権を握りました。しかし、そのことに反発した大津皇子( 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコの姉の子)が謀反をおこしました。結局大津皇子は敗れ、捕らえて亡くなりました。

しかし、一難さってまた一難。それから3年後、 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコの実子の草壁皇子が病死しました。天皇の後継者はだれがつとめるのか。

草壁の息子の軽皇子かるのみこという息子を即位させるか。しかし、軽皇子は7歳と幼いのがネック。それとも年長の皇子の高市皇子たけちのみこにするか。

3 天皇になる
結局、 鸕野讃良皇女 ウノノサララノヒメミコ、持統天皇として即位します。有力候補だった高市皇子たけちおうじは太政大臣に任命され、実務の面で天皇を支えることになりました。しかし、持統天皇には天武天皇のようなカリスマ性がありません。それで持統天皇が行ったのは、即位儀礼でした。

この即位の儀式こそ、今日まで続いている即位の礼につながっているのです。この儀式を行うことで、天の神から統治を委任された私が天皇に即位すると広く宣言することにつながったのです。一つのパフォーマンスですね。持統天皇は「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)というおくり名ももらいました。こうしてわが国で3人目の女性天皇が誕生したのです。


そして、持統天皇が即位から4年後に藤原京に遷都せんとしました。藤原京はのちの平安京にも負けずとも劣らぬほどの大きな都市だったといいます。藤原京に都を移した理由は、官位を豪族たちに与え、朝廷に忠誠を誓わせるためだといわれております。

しかし、その晩年再び後継者をめぐって持統天皇は選択を迫られます。696年、持統天皇を支えた高市皇子が死去します。持統天皇はこのとき50代。50代といえば働き盛りですが、この当時の50代といえば晩年。それで持統天皇は軽皇子を即位させようとしますが、軽皇子は15歳とまだ若い。それで持統天皇は、豪族や後継者の皇子たちを集めました。次期後継者をめぐってその場は紛糾したものの、軽皇子が次期天皇になることで落ち着きました。


697年、軽皇子は文武天皇として即位します。皇位を譲ったあとも持統天皇は、まだ若い経験不足な文武天皇の後見人になったのです。持統天皇の最晩年に行ったのが、702年の遣唐使再開させました。それまで遣唐使は中断していたのですが、30年ぶりに復活したのです。そして持統天皇はそれまでの「倭国」という国名の表記を、「日ノ本」という表記に改めるよう時の皇帝にいったそうです。中国に意見を言ったのですね。

702年12月、持統天皇は58年の生涯を閉じました。亡骸は飛鳥の地で夫、天武天皇と合葬されたといいます。持統天皇は火葬をしたといいます。火葬をした天皇は持統天皇が初めてだといいます。

※この記事はNHK「英雄の選択」を参考にして書きました。






















  

1 祭祀の島だった沖ノ島
 今日は、沖ノ島オキノシマのお話。

沖ノ島は九州北端と対馬のほぼ中間、玄界灘げんかいなだに浮かんでおります。周囲約4キロ、面積わずか0・69平方メートルの小さな孤島コトウです。この島には宗像大社沖津宮むなかたたいしゃおきつみやという神社があります。え、宗像大社沖津宮ってなにかって?順を追ってお話ししますと、宗像大社とは福岡県宗像市にある大きな神社で、沖ノ島の沖津宮筑前大島ちくぜんおおしま中津宮なかつみや、宗像市田島の辺津宮へつみや(総社)の3つの神社をひっくるめて宗像大社というそうです。その沖ノ島にある沖津宮とは宗像大社にある3つの神社の一つなのですね。

かつてはこの島で祭祀サイシが行われ(4世紀〜10世紀ごろ)、銅鏡や玉類、武器、中国由来の金銅製品、ササン朝ペルシア製のカットグラスなど様々な宝物が発見されました。これらの宝物はすべて国宝か重要文化財に指定されました。それで、沖ノ島は「海の正倉院ショウソウイン」と呼ばれるようにもなりました。

これらの遺物が出土した背景として、古来、沖ノ島が日本から朝鮮半島や中国にわたる際の要地にあったからです。古代、宗像地方を治めていた豪族・胸方むなかた氏によって宗像大社沖津宮が沖ノ島に置かれたのです。そして、祭祀が行われるようになったのです。何のためかというと、航海コウカイの無事を祈るためです。

昔は造船技術ゾウセンギジュツや航海技術が未熟ミジュクであったため、海難事故カイナンジコが多発したそうです。沖ノ島に住む神様に航海の無事を祈るべく祭祀が行われたのです。



2 沖ノ島に入り込んだ人々

この沖の島は女人禁制ニョニンキンセイむやみに出入りすることもできません。今でもこの島に立ち寄れるのは神職の人一名だけです。そして、この島にあるものは小石や雑草さえも持ち帰ってはいけない。持ち帰ればたたりがあると信じられてきておりました。だから、島内には手つかずの原始林が生い茂っております。


しかし、島のものを持ち帰ったものがいました。福岡藩初代藩主の黒田長政クロダナガマサ。貝原益軒の「 筑前国続諸社縁起 ちくぜんのくにぞくふどき」によると、黒田長政がキリシタンに命じて、島にあった宝を持ち帰ったといいます。その宝を城中に運んだ、その日から建物が振動したり、領内で、猛烈モウレツな豪雨が降ったといい

それで、黒田長政は「これは神様の祟りに違いない!」と思い、その宝を島に戻したといいます。すると、建物も振動しなくなったり、豪雨も止んだといいます。この時、長政が持ち出した神宝の一つが、現在、宗像大社神宝館に所蔵されている金銅製高機(国宝)ではないかと言われております。

幕末になると外国船警備の名目で、福岡藩士が常駐ジョウチュウしたそうです。ちょうど沖ノ島が、日本と朝鮮半島の中間地に位置していましたからね。



そして、昭和に入ると沖ノ島ももはや神聖なる神の島という位置付けではなくなります。1939年(昭和14年)になると陸軍が中継基地にしたのですね。大陸防防衛戦時中には陸海軍合わせて200人ほどの軍人・兵士がこの島に駐屯チュウトンしていたといいます。

3 世界遺産に登録されたが

宗像大社は2017年に世界遺産セカイイサンに登録されましたが、登録されるのに一悶着ありまして、元々この島は女人禁制だったのです。それで女性の権利団体からクレームが来て「女性の入島を認めない限り世界遺産は認めん」と主張。結局ユネスコ側から文化や伝統を尊重すると言うことで、世界遺産になりました。この島が女人禁制なのは女性をバカにしているわけじゃなく、この島の神様が 多紀理毘売命 タギリビメノミコトという女神様で女性が近づくと嫉妬シットするからだと言われております。

また、世界遺産になったことで一般人も入れなくなりました。世界遺産になるまでは、毎年5月に1日だけ男性の一般人200名が沖ノ島に行けたのです。もちろん、島に行くためにはハダカで海に入りミソギをすることが条件ですが。今では宗像大社の神職の人が一名、10日交代で島に派遣されるだけで一般人はまず無理。あと島に入ることが許されるとしたら研究者の人くらいでしょうか。







※ 参考文献および参考にしたもの




あと、『歴史秘話ヒストリア』も参考にしました。




こちらのサイトも参考にしました)


また、youtubeも参考にしました。




10年くらい前に奈良の正倉院にいったことがあります。機会があれば、また奈良に行きたいです。奈良はいいところですね。大阪、京都、神戸、奈良と関西は見どころが多いですが、僕はそのなかでも奈良が好きですね。昔は京都だったのですが、いまは奈良ですね。特に法隆寺がある斑鳩いかるがの雰囲気が好き。

さて、正倉院は宮内庁くないちょうの所有らしく、敷地しきちに入ることはできますが、当然中に入ることができません。正倉院の入り口のところには警備の人がいて、ものものしい雰囲気ふんいきでした。それはそうです、奈良時代から伝わる天皇家の至宝がこの正倉院の中にあるのですから。年に一回、奈良国立博物館で正倉院の至宝が公開されるのですが、普段はなかなかお目にかかれません。

さて、この正倉院の宝物はペルシャや中国からシルクロード経由で日本に伝わったものだというイメージがありますが、近年の研究で、ほとんどが国産だということがわかってきました。宝物を分析したところ、塩化鉛が検出されたのです。塩化鉛は古代日本で白い色をだすために広く使われた顔料です。

では、正倉院の宝物を作らせたのは誰でしょう。聖武天皇しょうむてんのうです。聖武天皇は奈良の大仏を作った天皇でしたが、正倉院の宝物も作らせたのです。それは、聖武天皇の地位が盤石ばんじゃくじゃないため、当時みんながあこがれている中国と同じような宝物を作って権威を高めようとしたのですね。中国のものを見本にして、同じような宝物を作ったのですね。

聖武天皇は内匠寮たくみりょうとい職人集団をつくり、彼らに宝物をつくらせたのです。内匠寮の「内」は天皇家、「匠」は優れた職人という意味です。内匠寮は木工や金工など、様々なジャンルの職人が集まり、協力して宝物を作ったのです。

では、なぜこれらの宝物が今日までのこされるになったのか。それはお后の光明皇后の強い願いがあったのです。

聖武天皇が756年に亡くなるとお后の光明皇后が嘆き悲しんだといいます。二人は大変仲睦まじかったようですから。在りし日の聖武天皇の姿を少しでも残したいと思い光明皇后は正倉院に宝物を治めさせたといいます。正倉院の宝物はほとんど聖武天皇が愛用したもの。これらの宝物をみると光明皇后は泣き崩れてしまうほど。

この正倉院は落雷にあったり、宝物の一部が盗難に合ったり、火災に巻き込まれそうになったり、いろいろ大変なことがありましたが、時代を超えても正倉院の宝物は人々に大切にされてきたのです。壊れた宝物があっても度々修理されたりして、宝物は令和の今も残されているのです。

※ この記事は「歴史秘話ヒストリア」を参考にして2022年1月21日に加筆修正しました。

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