History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 飛鳥・奈良時代

日本史の問題で「645年に起きたことといえば?」と問われたら、「大化の改新」だと答える人はおそらく30歳以上の人が多いかと思います。「645年=大化の改新」という記述は、現在の歴史教科書から消えております。現在では、645年は乙巳いっしの変が起きた年と記載されているのです。

乙巳の変とは、蘇我入鹿ソガノイルカ中臣鎌足ナカトミノカマタリ中大兄皇子ナカノオオエノオウジがて組んで暗殺し入鹿の父である蘇我蝦夷ソガノエミシが自殺に追い込まれたクーデターのこと。僕らの世代は入鹿が殺されたことが大化の改新みたいな感じで習ったのですが、実際は違うのです。大化の改新とはクーデター後の政治改革のことであって、クーデターそのものではないのですね。中大兄皇子は、鎌足と共に、唐から新しい国家体制を学んで帰国した僧や学者らと、天皇中心の中央集権国家を建設しようとしたのです。そうした一連の政治改革を「大化の改新」というのですね。

ちなみに、蘇我入鹿という人物はどのような人物かというと、聖徳太子と共に政治を行った蘇我馬子の孫です。蘇我一族は自分の娘を天皇に嫁がせ、権力を握っていたのです。推古天皇スイコテンノウも蘇我馬子のめいに当たります。そして入鹿は、聖徳太子の血をひく一族を滅ぼし、我がもの顔だったのです。


いわば乙巳の変は大化の改新の幕開けとなった事件だったのですね。

* 参考文献



(この記事は2022年6月5日に加筆修正しました)



奈良県の吉野といえば、桜の名所であります。その桜の本数は3万本だと言われております。地元の人に聞いたら4万本はあるんじゃないかと言いますが、世間では3万本の桜と言われております。これだけのたくさんの桜は自然にはえたものではないし、観光目的で植えられたものでもありません。実は、吉野の桜は信仰の証として植えられたものです。

吉野で桜が植えられるようになったのは、役小角エンノオヅメという人物が関係あります。634年に葛城山カツラギサンのふもとで生まれ、厳しい山岳修行をしたのち、日本固有の山岳宗教に密教や陰陽道を取り入れ独自の修験道を確立させた人物です。その呪術で病に苦しむ人たちを救ったと言います。役小角は藤原鎌足の病気をの治したと言われております。また、道教を学び飛天の術という術を使って空を飛んだという言い伝えもあります。

が、役小角は時の大和政権から危険視されます。人々を迷わせたと言われ、699年に伊豆大島に流罪になりますが、のちに許されます。ちなみに役小角は昼は島で過ごし、夜は呪術で海を渡り富士山で修行したという伝説もあると言います。すごいですね!

役小角は、葛城や熊野、そして吉野などの霊山で修行を重ねておりました。すると、役小角の前に岩を割って蔵王権現ザオウゴンゲンが現れたと言います。感激した役小角はその蔵王権現の姿を山桜の木に刻み、本尊としてお祀りしたと言います。吉野にある蔵王堂は、役小角が年齢や性別に関係なく蔵王権現をお参りできるようにと建立したものだと言われております。

それ以降、吉野に参拝した人たちが、信仰の証として桜の木をこの地に植えるようになったと言います。役小角のさまざまなエピソードはただの伝説で、現実にあったとは思えませんが、それくらい役小角は庶民に愛され、やがて神格化されたのでしょう。

吉野は修行の山ですが、観光地としての顔も持っております。毎年、桜の季節になると観光客で賑わいます。吉野に観光で訪れたのは豊臣秀吉が最初だと言います。秀吉が吉野へ花見に訪れたのは1594年。
徳川家康や前田利家、伊達政宗など名だたる武将たちを集め、総勢5000人もいたと言います。秀吉一行は5日間吉野に滞在しましたが、秀吉が吉野に訪れてから3日間も雨だったそうです。

それに怒ったのは秀吉。秀吉は、「明日も雨だったら、吉野の桜に火をつけて燃やしてやる」とブチ切れたのです。それに慌てたのが吉野の僧侶たち。僧侶たちは晴天になるように夜通し祈願をしたそうです。その甲斐あって、四日目は見事に晴れ。秀吉はたいそう喜び、桜を燃やすどころか、桜の苗木を吉野の地に1万本寄進したと言います。


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(蔵王堂の入り口)

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(蔵王堂。現在は改修工事中。)

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(吉野の街並み)


* 参考文献及び参考サイト

吉野の観光パンフレットやウィキペディア。それから「にっぽん!歴史鑑定」(BS・TBS)も参考にしました。

1 奈良時代のパンデミック
 奈良時代もパンデミックがありました。天然痘てんねんとうです。天然痘の症状は、ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身にぶつぶつができます。致死率ちしりつが平均で約20%から50%と非常に高いのです。仮になおっても、皮ふに小さなくぼみ、いわゆる、あばたを残します。あばたといえば、「アバター」じゃないですよw、「あばたにえくぼ」(※1)ということわざにもなっていますね。天然痘は人類史上初めてにして、唯一根絶に成功した感染症なんですね。

はじまりは天平3年(735)。九州の大宰府で天然痘が発生したのです。大陸の唐や新羅(朝鮮)への使節が感染源だと考えられております。このころは遣唐使けんとうしがさかんに行われていましたからね。海外から優れた文化を学ぶために唐に使節をおくったのですが、文化と同時にウィルスまで運んだのですね・・・

その天然痘は大宰府から九州全体に伝わり、その後、日本各地に蔓延まんえんしたのです。人々の交流もまた感染を広めてしまったのですね。奈良時代のシステムは人や金やものや情報のすべてが平城京に集める制度、いわゆる中央集権型の社会でした。地方から平城京にやってきた人が感染し、その人が地方に帰って、そこで天然痘を人々にうつしてしまうのですね。第一波はすぐに収まったものの、天平7年(735)〜天平9年(737)に第二波がおそい、天然痘が全国に広がったのです。

ある研究によると天然痘による死者は、100万人から150万人ともいわれております。国民の三分の一が亡くなったともいわれております。

2 奈良時代の疫病対策

朝廷は疫病対策を全国に出しました。

  • 生水は飲むな


  • 体を温めよ


  • ニラやネギを煮て食べよ


さらに時の天皇である聖武天皇は吉野に行き、天然痘退散の祈祷きとうをおこなったといいます。


天然痘蔓延まんえんのなか、人々はいかに暮らしていたのでしょうか。たとえば、貴族ですが、貴族は天然痘が流行る前は大きな食器に料理をもりつけ、取り分けていました。それが、天然痘がはやると大きな食器が見られなくなり、小型の食器がよく使われるようになったといいます。個々の食器を使い天然痘の感染を防止したのでしょう。天然痘を通して、衛生意識が変わり、生活のスタイルを変えていったのです。


しかし、天然病はおさまる気配もなく、天平9年(737)には聖武天皇のもとで政治の実権を握っていた藤原四兄弟が天然痘で相次いで死去。ほかにも公卿くぎょう8人のうち5人が死去。そのとき聖武天皇はこう述べたといいます。「山川さんせんに祈り、神をまつったが、効果はなかった。ちんの不徳がこの事態を招いてしまった」と。

当時の日本は神権政治(宗教と政治が一体化)で、天皇は国の統治者であり、神道という宗教的な存在でもありました。だから、いくら天皇が神に祈っても天然痘は収まらないじゃないかって、人々は思うのです。そうなると天皇の権威が失墜しっついしていき、統治機構が成り立たなくなる危機があったのです。14世紀のヨーロッパでペストが流行ったときに教会の権威が失墜しましたが、おなじように天皇家の権威が天然痘で失われる恐れがあったのです。

3 国分寺と大仏
 天平9年(737)、天然痘はおさまりつつありました。聖武天皇は天平12年(740)12月15日、新たな都、恭仁京くにきょうに遷都します。都を移すことで心機一転を図ろうとしたのでしょう。

また、聖武天皇は全国に国分寺こくぶんじ国分尼寺こくぶんにじをつくろうと言い出しました。「国土に仏の経を流布させれば四天王が擁護ようごして一切の災いを除き、憂愁や疫病も除去する」。しかし、都をうつすにしても国分寺をつくるにしても、莫大ばくだいな費用もそうですが、労働力が必要です。

しかも奈良時代は朝廷が賃金を払ってくれるどころか、労役と言って、ほぼただ働きで国のために建築などの仕事をしなくてはならないのです。天然痘で人々が死んでいるところへ、寺を建てるために働けなんて聖武天皇はひどい奴だって思う方もいらっしゃるのでは。ある意味、聖武天皇はブラック企業の社長の元祖といえるかもw?


それはともかく、聖武天皇には考えがあったのです。金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょうというお経を読んだところ、天然痘が収まったといいます。そのお経こそが最も効き目のあるおまじないであり、今風でいえばワクチンだと信じられていたのです。聖武天皇は金光明最勝王経を写経し、それを全国の国分寺におさめなさいと。そうすれば天然痘もなくなると聖武天皇は信じていたのです。現代の感覚では全く考えられないことですが。

そして、聖武天皇は「大仏建立だいぶつこんりゅうみことのり」をだします。仏の力を借りて、疫病のない平和なようの中をつくろうと考えたのでしょう。紫香楽宮しがらきのみや(※2)の地に大仏をつくろうとしたのです。しかし、大仏をつくるには大仏殿と合わせて今の価値で4657億円もかかるといわれております。天平17年(745)4月、紫香楽宮でしばしば山火事が起こったのです。さらに、大地震も起こります。それで聖武天皇は平城京に戻ることを決めたのです。

天平17年(745)5月、聖武天皇は平城京に戻り、そこで大仏造立を始めたのです。そして、天平勝宝4年(752)4月、大仏開眼供養会だいぶつかいげんくようかいが行われたのです。しかし、都や大仏の大規模な建設に動員された農民たちの負担が激増。平城京内では浮浪者や餓死者が多かったといいます。そして天平勝宝8年(756)5月2日、聖武天皇(当時は太上天皇)が崩御ほうぎょします。

仏の力で疫病から人々を救おうという聖武天皇の理想は素晴らしいものですが、その分、民への負担や犠牲も大きかったのですね・・・理想と現実の難しさといえましょうか。

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(大仏の写真)


※1 好きになると、醜いあばたさえ可愛らしいえくぼに見える。 ほれた目には欠点までも長所に見えるというたとえ。
※2 聖武天皇の離宮があった。いまの滋賀県にあった。


この記事はNHKの「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

鑑真は日本にわたることを決心しますが、当時の唐は一種の鎖国政策みたいなものをとっていて、唐の人間が国外にでることを禁じられました。それで鑑真がとった方法は密航でした。鑑真はたびたび、日本に渡ろうとしましたが、何度も失敗をしてしまいます。一度目の渡航を計画したのは743年。地元の有力者にお金を出してもらい、船をつくりますが、密告により失敗。同じ年に今度は鑑真自らが費用を工面し船を調達し、その年の暮に出航しましたが、船は嵐にあい座礁ざしょう。一応断っておきますが、ここでいう嵐とはアイドルグループのことではありませんからねw嵐といえば活動休止しましたが。おっと、すみません。本題w本題w

二度目の渡航も失敗。三度目も四度目も、鑑真来日に反対する弟子による密告により失敗。しかし、それでも鑑真は日本行きをあきらめませんでした。748年、鑑真は5度目の渡航に挑みます。当時鑑真は61歳。しかし、無事出航したのもつかの間、また嵐にあい漂流。荒れ狂う大波で、乗組員はみな船酔いし、苦しみもがいたといいます。船には飲み水もなくなるなど苦しい思いをするばかりでした。そして船は海南島に漂着します。海南島はいまでこそ中国のハワイとよばれ観光地となっておりますが、当時はジャングルだらけで、この世の果てと恐れられていたところでした。鑑真一行はこの海南島で一年を過ごしたといいます。それから揚州に戻ろうとしましたが、途中で栄叡ようえいが病に倒れ、亡くなるのです。さらに普照ふしょうも鑑真の元を離れます。鑑真とケンカしたから?のん、のん、のん。外国人である自分がこれ以上鑑真についていくと迷惑をかけると思ったからです。泣く泣く普照ふしょうも鑑真の元を離れます。

そして、鑑真自身にも異変が起こります。疲れがたまっているのにかかわらず炎天下のなかで歩き回ったせいか、失明をしてしまうのです。

753年、揚州に帰った鑑真は日本から来た遣唐使に会います。遣唐使たちは自分たちの船に乗って日本に来てほしいと頼みます。鑑真は日本への渡航を決心したのです。しかし、いざ乗船というその時、遣唐使の大使が急に反対を言い出すのです。もし、鑑真の密航が発見されると、唐との外交問題になりかねないと恐れだしたのです。鑑真があきらめかけると、大使の次にエライ副士が声を掛けます。「私の船に乗ってください。」副士は、自分が搭乗する第二船にひそかに鑑真を乗せたのです。おそらく、副士はひそかに大使を説得したのかもしれませんね。日本を救うためには鑑真がどうしても必要だと。かくして鑑真と弟子たちはようやく日本にたどり着きます。

753年、鑑真は日本に到着。鑑真66歳でした。754年2月、平城京にやってきた鑑真は盛大な歓迎を受けました。そして、聖武太上天皇(当時の天皇は孝謙天皇。聖武の娘)は、このように喜びの意を示しました。

「鑑真和上は遠く大海を渡り、この国へ入られた。喜ばしきたとえようがない。」

こうして鑑真による授戒が行われ、聖武太上天皇、お后の光明皇太后、そして孝謙天皇が鑑真より戒律を授かったといいます。その後鑑真は、東大寺に戒壇院かいだんいんをつくり、ここで出家した者にたいし戒律を与えたといいます。ここで戒律を受けた者のみが僧侶になることが許されたといいます。鑑真がもたらした授戒制度により、脱税目当ての出家に歯止めをかけることができたといいます。

そして、鑑真は758年、71歳で大和上という称号をもらい引退をしたといいます。翌年、唐招提寺をひらき、一般の人にも仏教を説いたといいます。763年、鑑真はこの世を去りました。享年76歳。鑑真が弟子たちに残した言葉です。

「憂ううことを もちいざれ よろしく方便を求めて必ず本願 遂ぐべし」(心配しなくていい、願いは必ずかなえられる)

※ この記事はNHKの「英雄たちの選択」を参考にして書きました。




1 鑑真の生い立ち
 今日から鑑真のお話を二回に分けてお話します。鑑真といえば、奈良時代に日本に正しい仏教を伝えた中国の高僧として知られております。彼が建てたお寺が唐招提寺で、僕もいちど訪れたことがあります。

鑑真は688年(唐の時代)、揚州で生まれました。父は熱心な仏教徒で、父の影響を受け、701年、鑑真は14歳で出家します。唐の時代は仏教が盛んな時代で、時の皇帝たちも保護したのです。特に則天武后は熱心に仏教を保護したといいます。則天武后は悪名が高いですが、仏教の発展に関しては功績も大きい人物でした。

707年、鑑真は長安にわたります。ここは巨大な寺が乱立し、多くの僧が日々、修行をしていたのです。そこで鑑真は、仏教の要である「経」「律」「論」を学びました。「経」とはお釈迦さまの言葉を集めた経典のこと。「律」とは僧侶が守るべき道徳や生活習慣。「論」とはお釈迦さまの言葉を解説、解釈した書物のこと。鑑真は7年間にわたってこれらのことを学び、故郷の揚州に帰って、大明寺というお寺にて弟子を育成したといいます。その弟子の数4万人だそうです。鑑真は学問だけでなく、実践を重視し、僧侶は社会に出て、人々を救うべきだという考え方でした。

2 日本にいくきっかけ
 742年、55歳になった鑑真の元に二人の訪問者が訪れます。日本からの留学僧、普照ふしょうと、栄叡ようえいでした。二人は鑑真にこう述べました。

「日本には唐と同じ『正式な仏教』を指導する人がいません。どうか日本に来て正しい仏教を指導してください」

2人は朝廷から高僧を招くというミッションを与えられたのです。二人は9年前に唐に訪れ、日本に来てくれる高僧を探し続け、やっとであったのが鑑真でした。鑑真はしばらく考え、それからこのように言いました。

「今、ここにいる者たちの中にこの遠くからの要請に応じて日本に正しい仏教を伝えようとするものはいないか」

しかし、一人として手を挙げるものはいませんでした。今でこそ中国から日本に行くには飛行機でひと飛びですが、当時は木造の帆船で海を渡るしかありません。しかも、日本海は嵐や高波がすごくて、非常に危険な命がけの旅だったからです。しびれを切らした鑑真はこう言いました。

「これは仏教のためのことだ。どうして命を惜しもうか。皆がいかないなら、私が日本に行こう」

鑑真の言葉を聞いた弟子たちは、反省し、日本に行くことを鑑真に申し出たといいます。鑑真がこのような決断をした背景は、当時の中国情勢にありました。時の皇帝玄宗皇帝は、仏教よりも道教のほうが熱心で、中国でも仏教は下火でした。それで、鑑真は日本に行ったほうが仏教が広められると考えたのですね。また、普照ふしょうと、栄叡ようえいが唐に訪れる25年くらい前に日本の長屋王が中国に袈裟けさを千枚ほど寄進しているのですね。その袈裟には「国は違うが、仰ぐ空は一緒。仏を通じて、縁を結ぼう」という詩が書かれていたのです。そんな日本人の信仰深さに鑑真は感銘をうけて、日本に行こうと思ったかもしれません。


3 鑑真が選ばれた理由

 当時の朝廷が唐から高僧を招こうとした背景は、私度僧しどそうと呼ばれる人間が増えたことが大きいです。庶民たちが重い税で苦しんでいる中、僧侶たちには納税の義務がなかったのです。現代の日本も宗教法人には税金がかかりません。昔から日本は宗教者には甘いw?そのため、税を逃れるために勝手に坊さんになる人が多かったのです。当時の日本には坊さんになる正式な手続きがありませんから。にわか僧侶の増加で、税収が減り、朝廷は困ってしまいます。

さらに平城京のちかくで私度僧が一万もの民衆をあつめ怪しげな集会を開く始末。こまった朝廷は、僧侶になるための正式な手続き「授戒じゅかい」の導入を計ろうとします。「授戒」とは出家したものが高僧たちの前で、道徳や「戒律」を守る誓いを立てることです。当時の日本には僧侶の戒律を教えられる高僧がおらず、それで仏教の先進国である唐まで探せという話になったのです。

また聖武天皇の時代は、東北で蝦夷えみしが反乱を起こしたり、朝鮮半島の新羅との関係も悪化し、新羅に攻め込もうという強硬派も出てきたり、疫病のパンデミックがおこったりと国情が非常に不安定でした。それで、聖武天皇は国分寺や国分尼寺など寺をたくさん作ったり、大仏を作ったりと、仏教を通して、国を治めようとしました。唐の優れた高僧を呼び、日本の仏教のレベルを高めようと聖武天皇は考えていたのかもしれない。

令和でさえ、コロナという病気が流行り、苦しい時の神頼みとばかりに、神社仏閣にお参りに行ったり、アマビエのお札や人形を持ったり、いろいろとコロナ除けのおまじないをしている人が少なくありません。ましてや、奈良時代という科学が発達していない時代であるならば、なおさら神仏に頼ろうとするでしょうね。次回はいよいよ鑑真が日本にわたるお話をします。しかし、それは大変なことだったのです。


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