history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 飛鳥・奈良時代

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皆さんにクイズです。上の三人の肖像画、それぞれ誰か言ってください。


え、馬鹿にするなって?

上から聖徳太子、源頼朝、足利尊氏だろっ!!


って声が聞こえそうですが、正解はなんとも言えません。実はこの三つの肖像画、本当は誰なのかわからないのです。一番上の聖徳太子の肖像画ですが、僕が高校までの教科書には聖徳太子ってはっきり書いてありましたし、かつての1万円の肖像画もまさにこの絵でした。ところが最近の教科書には「伝聖徳太子」とあるのです。つまり、聖徳太子の肖像画だと言われているが、はっきりはわからないということ。この肖像画は別人の可能性もあるのです。この肖像画は実は本人の死後100年経ってから描かれたもの。つまり、目の前の聖徳太子本人を見て描いたものではないのです。そのため、聖徳太子の風貌を正確に描かれたわけじゃないのです。

二番目は源頼朝だと言われておりますが、これも「伝源頼朝像」とあるのです。それどころか、この肖像画は足利尊氏の弟の足利直義の可能性もあるというのです。

三番目の肖像画は足利尊氏だと言われておりますが、その可能性は低そうなのです。そのポイントはこの武将の絵の上にある花押です。この花押は尊氏の息子の足利義詮のものですが、息子の花押が父の絵の上に描かれることはまずありえないというのです。さらに、この肖像画の武将というのが品がないのです。とても征夷大将軍とは思えない。だらしなくのばした髪、モジャモジャのヒゲ、折れた弓矢を見る限り、これはもっと位が下の武将かもしれないと。もしかしたら尊氏の家臣の高師直の可能性があると。もちろん、この肖像画が尊氏の可能性も低いかもしれないが、ゼロではないのですね。

歴史の教科書で、日本最初の貨幣は「和同開珎ワドウカイチンだと教わった人も多いかと思います。今の歴史教科書では違います。富本銭フホンセンというものが最古の貨幣だと書かれているのです。富本銭の存在は古くから知られておりましたが、それまでは、おまじないとか祭祀に使うものだと考えられていたのです。それが1999年(平成11)に大量に発見され、それまでの常識が覆されたのです。

その発見された場所が奈良県。今の奈良県立万葉文化館のあるところです。僕もコロナ前に奈良に訪れ、万葉文化館に訪れました。そこに何やら発掘現場みたいなのがあって、なんだろうなって思ったのですよ。万葉文化館にも富本銭のことが紹介されていました。僕もそれで富本銭のことを知りました。万葉文化館建設に先立ち1997年に発掘調査を行なったのですね。そして2年後の1999年に富本銭が見つったのですね。

富本銭が鋳造チュウゾウされたのは天武天皇の時代。天武天皇は強力なリーダシップを持っていて、色々と政治改革を行ったのです。それで貨幣制度も取り入れようとしたのですね。当時、アジアで貨幣制度があったのは中国と日本だけでした。すごいですね。この富本銭の直径は2・4センチ、重さが4・3グラム。当時の中国の開元通宝とほぼ同じくらいの大きさなんですね。悪く言えば中国のパクリですが、ただマネをするのではなく日本独自のデザインを加えました。天武天皇は中国の貨幣制度を参考にした上で、中国に引けを取らないような国づくりをしようとしたのですね。

ただ、当時の日本は物々交換がメインで、富本銭はそれほど普及しなかったのですね。



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(富本銭)

日本史の問題で「645年に起きたことといえば?」と問われたら、「大化の改新」だと答える人はおそらく30歳以上の人が多いかと思います。「645年=大化の改新」という記述は、現在の歴史教科書から消えております。現在では、645年は乙巳いっしの変が起きた年と記載されているのです。

乙巳の変とは、蘇我入鹿ソガノイルカ中臣鎌足ナカトミノカマタリ中大兄皇子ナカノオオエノオウジがて組んで暗殺し入鹿の父である蘇我蝦夷ソガノエミシが自殺に追い込まれたクーデターのこと。僕らの世代は入鹿が殺されたことが大化の改新みたいな感じで習ったのですが、実際は違うのです。大化の改新とはクーデター後の政治改革のことであって、クーデターそのものではないのですね。中大兄皇子は、鎌足と共に、唐から新しい国家体制を学んで帰国した僧や学者らと、天皇中心の中央集権国家を建設しようとしたのです。そうした一連の政治改革を「大化の改新」というのですね。

ちなみに、蘇我入鹿という人物はどのような人物かというと、聖徳太子と共に政治を行った蘇我馬子の孫です。蘇我一族は自分の娘を天皇に嫁がせ、権力を握っていたのです。推古天皇スイコテンノウも蘇我馬子のめいに当たります。そして入鹿は、聖徳太子の血をひく一族を滅ぼし、我がもの顔だったのです。


いわば乙巳の変は大化の改新の幕開けとなった事件だったのですね。

* 参考文献



(この記事は2022年6月5日に加筆修正しました)



奈良県の吉野といえば、桜の名所であります。その桜の本数は3万本だと言われております。地元の人に聞いたら4万本はあるんじゃないかと言いますが、世間では3万本の桜と言われております。これだけのたくさんの桜は自然にはえたものではないし、観光目的で植えられたものでもありません。実は、吉野の桜は信仰の証として植えられたものです。

吉野で桜が植えられるようになったのは、役小角エンノオヅメという人物が関係あります。634年に葛城山カツラギサンのふもとで生まれ、厳しい山岳修行をしたのち、日本固有の山岳宗教に密教や陰陽道を取り入れ独自の修験道を確立させた人物です。その呪術で病に苦しむ人たちを救ったと言います。役小角は藤原鎌足の病気をの治したと言われております。また、道教を学び飛天の術という術を使って空を飛んだという言い伝えもあります。

が、役小角は時の大和政権から危険視されます。人々を迷わせたと言われ、699年に伊豆大島に流罪になりますが、のちに許されます。ちなみに役小角は昼は島で過ごし、夜は呪術で海を渡り富士山で修行したという伝説もあると言います。すごいですね!

役小角は、葛城や熊野、そして吉野などの霊山で修行を重ねておりました。すると、役小角の前に岩を割って蔵王権現ザオウゴンゲンが現れたと言います。感激した役小角はその蔵王権現の姿を山桜の木に刻み、本尊としてお祀りしたと言います。吉野にある蔵王堂は、役小角が年齢や性別に関係なく蔵王権現をお参りできるようにと建立したものだと言われております。

それ以降、吉野に参拝した人たちが、信仰の証として桜の木をこの地に植えるようになったと言います。役小角のさまざまなエピソードはただの伝説で、現実にあったとは思えませんが、それくらい役小角は庶民に愛され、やがて神格化されたのでしょう。

吉野は修行の山ですが、観光地としての顔も持っております。毎年、桜の季節になると観光客で賑わいます。吉野に観光で訪れたのは豊臣秀吉が最初だと言います。秀吉が吉野へ花見に訪れたのは1594年。
徳川家康や前田利家、伊達政宗など名だたる武将たちを集め、総勢5000人もいたと言います。秀吉一行は5日間吉野に滞在しましたが、秀吉が吉野に訪れてから3日間も雨だったそうです。

それに怒ったのは秀吉。秀吉は、「明日も雨だったら、吉野の桜に火をつけて燃やしてやる」とブチ切れたのです。それに慌てたのが吉野の僧侶たち。僧侶たちは晴天になるように夜通し祈願をしたそうです。その甲斐あって、四日目は見事に晴れ。秀吉はたいそう喜び、桜を燃やすどころか、桜の苗木を吉野の地に1万本寄進したと言います。


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(蔵王堂の入り口)

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(蔵王堂。現在は改修工事中。)

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(吉野の街並み)


* 参考文献及び参考サイト

吉野の観光パンフレットやウィキペディア。それから「にっぽん!歴史鑑定」(BS・TBS)も参考にしました。

1 奈良時代のパンデミック
 奈良時代もパンデミックがありました。天然痘てんねんとうです。天然痘の症状は、ヒトに対して非常に強い感染力を持ち、全身にぶつぶつができます。致死率ちしりつが平均で約20%から50%と非常に高いのです。仮になおっても、皮ふに小さなくぼみ、いわゆる、あばたを残します。あばたといえば、「アバター」じゃないですよw、「あばたにえくぼ」(※1)ということわざにもなっていますね。天然痘は人類史上初めてにして、唯一根絶に成功した感染症なんですね。

はじまりは天平3年(735)。九州の大宰府で天然痘が発生したのです。大陸の唐や新羅(朝鮮)への使節が感染源だと考えられております。このころは遣唐使けんとうしがさかんに行われていましたからね。海外から優れた文化を学ぶために唐に使節をおくったのですが、文化と同時にウィルスまで運んだのですね・・・

その天然痘は大宰府から九州全体に伝わり、その後、日本各地に蔓延まんえんしたのです。人々の交流もまた感染を広めてしまったのですね。奈良時代のシステムは人や金やものや情報のすべてが平城京に集める制度、いわゆる中央集権型の社会でした。地方から平城京にやってきた人が感染し、その人が地方に帰って、そこで天然痘を人々にうつしてしまうのですね。第一波はすぐに収まったものの、天平7年(735)〜天平9年(737)に第二波がおそい、天然痘が全国に広がったのです。

ある研究によると天然痘による死者は、100万人から150万人ともいわれております。国民の三分の一が亡くなったともいわれております。

2 奈良時代の疫病対策

朝廷は疫病対策を全国に出しました。

  • 生水は飲むな


  • 体を温めよ


  • ニラやネギを煮て食べよ


さらに時の天皇である聖武天皇は吉野に行き、天然痘退散の祈祷きとうをおこなったといいます。


天然痘蔓延まんえんのなか、人々はいかに暮らしていたのでしょうか。たとえば、貴族ですが、貴族は天然痘が流行る前は大きな食器に料理をもりつけ、取り分けていました。それが、天然痘がはやると大きな食器が見られなくなり、小型の食器がよく使われるようになったといいます。個々の食器を使い天然痘の感染を防止したのでしょう。天然痘を通して、衛生意識が変わり、生活のスタイルを変えていったのです。


しかし、天然病はおさまる気配もなく、天平9年(737)には聖武天皇のもとで政治の実権を握っていた藤原四兄弟が天然痘で相次いで死去。ほかにも公卿くぎょう8人のうち5人が死去。そのとき聖武天皇はこう述べたといいます。「山川さんせんに祈り、神をまつったが、効果はなかった。ちんの不徳がこの事態を招いてしまった」と。

当時の日本は神権政治(宗教と政治が一体化)で、天皇は国の統治者であり、神道という宗教的な存在でもありました。だから、いくら天皇が神に祈っても天然痘は収まらないじゃないかって、人々は思うのです。そうなると天皇の権威が失墜しっついしていき、統治機構が成り立たなくなる危機があったのです。14世紀のヨーロッパでペストが流行ったときに教会の権威が失墜しましたが、おなじように天皇家の権威が天然痘で失われる恐れがあったのです。

3 国分寺と大仏
 天平9年(737)、天然痘はおさまりつつありました。聖武天皇は天平12年(740)12月15日、新たな都、恭仁京くにきょうに遷都します。都を移すことで心機一転を図ろうとしたのでしょう。

また、聖武天皇は全国に国分寺こくぶんじ国分尼寺こくぶんにじをつくろうと言い出しました。「国土に仏の経を流布させれば四天王が擁護ようごして一切の災いを除き、憂愁や疫病も除去する」。しかし、都をうつすにしても国分寺をつくるにしても、莫大ばくだいな費用もそうですが、労働力が必要です。

しかも奈良時代は朝廷が賃金を払ってくれるどころか、労役と言って、ほぼただ働きで国のために建築などの仕事をしなくてはならないのです。天然痘で人々が死んでいるところへ、寺を建てるために働けなんて聖武天皇はひどい奴だって思う方もいらっしゃるのでは。ある意味、聖武天皇はブラック企業の社長の元祖といえるかもw?


それはともかく、聖武天皇には考えがあったのです。金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょうというお経を読んだところ、天然痘が収まったといいます。そのお経こそが最も効き目のあるおまじないであり、今風でいえばワクチンだと信じられていたのです。聖武天皇は金光明最勝王経を写経し、それを全国の国分寺におさめなさいと。そうすれば天然痘もなくなると聖武天皇は信じていたのです。現代の感覚では全く考えられないことですが。

そして、聖武天皇は「大仏建立だいぶつこんりゅうみことのり」をだします。仏の力を借りて、疫病のない平和なようの中をつくろうと考えたのでしょう。紫香楽宮しがらきのみや(※2)の地に大仏をつくろうとしたのです。しかし、大仏をつくるには大仏殿と合わせて今の価値で4657億円もかかるといわれております。天平17年(745)4月、紫香楽宮でしばしば山火事が起こったのです。さらに、大地震も起こります。それで聖武天皇は平城京に戻ることを決めたのです。

天平17年(745)5月、聖武天皇は平城京に戻り、そこで大仏造立を始めたのです。そして、天平勝宝4年(752)4月、大仏開眼供養会だいぶつかいげんくようかいが行われたのです。しかし、都や大仏の大規模な建設に動員された農民たちの負担が激増。平城京内では浮浪者や餓死者が多かったといいます。そして天平勝宝8年(756)5月2日、聖武天皇(当時は太上天皇)が崩御ほうぎょします。

仏の力で疫病から人々を救おうという聖武天皇の理想は素晴らしいものですが、その分、民への負担や犠牲も大きかったのですね・・・理想と現実の難しさといえましょうか。

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(大仏の写真)


※1 好きになると、醜いあばたさえ可愛らしいえくぼに見える。 ほれた目には欠点までも長所に見えるというたとえ。
※2 聖武天皇の離宮があった。いまの滋賀県にあった。


この記事はNHKの「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

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