History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 飛鳥・奈良時代

飛鳥時代の政治家、蘇我入鹿って悪者ってイメージがあります。それにしても、蘇我入鹿の名前おぼえずらいですね。子供のころ、僕は入鹿のことを、魚のイルカ🐬のことをイメージしながら名前を覚えた記憶があります。あと、入鹿をやっつけた中臣鎌足。かれのことは鎌足ではなくカタマリって覚えた記憶がありますw昔の人の名前は難しいですからね。

その蘇我入鹿がやっつけられた事件が 乙巳 いっしの変。これは中大兄皇子と中臣鎌足が、悪者の蘇我入鹿をやっつけて、その父親の蘇我蝦夷も自殺したという、有名なクーダターです。しかも、入鹿は時の天皇皇極天皇の前で無残に殺されてしまうのですね。

蘇我親子を倒したクーデターのことを「大化の改新」だと勘違いしがちですが違います。クーデターのことを乙巳の変と言い、大化の改新はそのクーデターの後の政治改革のことを言います。さて日本書紀によると蘇我入鹿が、聖徳太子の息子である山背大兄王を自害に追いこんだ悪者だと。そして入鹿は専横をおこなったと。それで正義の中大兄皇子と中臣鎌足がやっつけたことになっています。そうした日本書紀の書き方に近年疑問の声が上がっているのですね。むしろ、権力抗争に巻き込まれた気の毒な人ではないかって説もあるのです。

その「日本書紀」は681年に天武天皇が、藤原不比等ら六人の皇族と六人の役人、総勢十二人に国史編纂ヘンサンを命じたのですね。全30巻。神代の時代から持統天皇の時代まで描かれているのですね。「日本書紀」は我が国初の正史です。完成したのが720年。40年近くかかったのだから、いかに大きなプロジェクトだったかが伺えます。ただ、歴史というものは勝者の歴史。戦争や権力抗争やらで権力を握ったものにとって都合の良い歴史が書かれていることが多いのですね。「日本書紀」も例外ではありません。『日本書紀』の編纂を命じたのは天智天皇の弟。そして、編纂の中心人物は藤原不比等。藤原不比等は鎌足の息子、どうしても天智天皇や天武天皇、そして藤原家にとって都合の良いことしか書かれていないはず。



入鹿が山背大兄王を自害に追い込んだ理由は古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこおを皇位につけたかったのですね。蘇我の血をひく古人大兄皇子が天皇になれば、蘇我家の権力がますます強くなる。古人大兄皇子は蘇我系の血を受けた舒明天皇の第一皇子で、もう少し早く生まれていたら、皇位に就いていてもおかしくない人物でした。ところが、蘇我入鹿が殺され頼みとする後ろ楯を失い、最後は出家、隠退したのですが、不幸にも古人大兄皇子は異母弟・中大兄皇子が差し向けた刺客に殺害されたのですね。

古人大兄皇子が天皇になるのを恐れたのが中大兄皇子でありますが、もっともそれを恐れたのが軽皇子カルノミコ。軽皇子は時の天皇の皇極天皇の弟で、中大兄皇子は軽皇子の甥です。皇極天皇の後継者は古人大兄皇子か中大兄皇子だといわれており、軽皇子は蚊帳の外だったのです。で、中大兄皇子は天皇に即位するには若すぎる。となると、軽皇子のライバルは古人大兄のみ。それで、軽皇子は中大兄皇子と結託し古人大兄皇子を排除する必要がある。古人大兄皇子のバックには蘇我家がついている。その蘇我家を滅ぼせば自分にも天皇の座が回ってくる。そんなことを軽皇子が考えたという説もあるのですね。

実際、 乙巳 いっしの変の後、皇極天皇の後継者は軽皇子になりました。そして軽皇子は孝徳天皇となったのです。あまりにもタイミングが良すぎるのですね。しかも、中大兄皇子とともにクーデターにかかわった藤原鎌足は、軽皇子の側近。もちろん、軽皇子が黒幕だと断定はできないのですが、少なくとも蘇我入鹿が『日本書紀』で言われるほどの悪人とはかんがえにくいのですね。

*この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。





「渡る世間は鬼はなし」って言葉があります。世の中には鬼のように無情な人ばかりでなく、親切で人情に厚い人もいるということのたとえです。実際は鬼の方が圧倒的に多くて、親切で情に厚い人を探すのは難しい気がするのですがw、それはともかく、「鬼」っていうと悪いイメージがあります。また、鬼というと、虎のパンツで筋骨隆々で、おっかない顔のイメージがあります。いかにも強そうな感じですね。「桃太郎」とか「一寸法師」とかの昔話でも、鬼はラスボスのイメージですね。仕事の鬼という言葉がありますが、これはすごい仕事ができる人のことを言いますね。また、最近の若者よく「鬼」という言葉を使い、「鬼リピ」(鬼のようにリピートする)とか、「鬼やば」(とてもヤバい)みたいに使います。ここでは鬼ってすごいってイメージですね。いづれにせよ鬼は強いというニュアンスから、このような言葉が生まれたのだと思います。

この「鬼」という文字も中国から伝わりました。鬼の原点も古代中国です。しかし、古代中国における鬼は我々が考える鬼とはちょっと違うのですね。中国語の「鬼」は本来は人が死んだ後になるものという意味で、日本語でいうと「幽霊」に近いニュアンスです。現代でも人がなくなると鬼籍って言いますよね。その鬼籍もここからきているのです。

中国語の「鬼」は特に女性の幽霊のイメージがあるようです。古代中国の家制度で、未婚の女性が亡くなるとお墓にちゃんと入れてもらえなかったのですね。つまり女は結婚してやっと一人前。SDGSとかLGBTの現代では考えられないような女性差別ですが、そのため未婚で亡くなった女性の霊はこの世に未練を残してしまうと。それで男を探しに生きている男の前に現れると考えられたのです。

それが鬼は日本に渡って、いつの間にか得体の知れないものってイメージになったのですね。鬼が初めて登場するのは『日本書紀』。飛鳥時代、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅と別れておりましたが、日本は百済と友好国で、その百済を助けるべく日本も立ち上がったのです。時の天皇、斉明天皇自ら出陣し、京から九州に向かったのですが、しかし九州にあった朝倉宮で斉明天皇は突然病死。その時の『日本書紀』の記述。

「朝倉山の上に鬼ありて大笠を着て、喪のよそおいを臨み視る」

なんと、朝倉山の上に大きな鬼がいて、大きな笠を被っていて、鬼が天皇の葬儀を見ていたというのです。怖いですね。見ているだけで悪さをしたわけじゃないのですね。また『日本書紀」には「鬼神」と書いて「かみ」とまで読ませていたのですね。ここでは鬼は悪さをするというより、人智を超えたものというイメージですね。

そして奈良時代になると『出雲国風土記』には鬼が人を襲うって記述があるのです。島根県の阿用というところがあるのですが、ここに一つ目の鬼が現れ人間を殺したというのです。その鬼が殺された人が亡くなる際に「あよ、あよ」って言ってなくなったとか。それから、この地は阿用の郷と呼ばれるになったのです。実は、この地はタタラ製鉄が盛んで、製鉄の作業中に、作業員が片目を潰してしまったと。それでタタラの民は目が一つだと。タタラの人というと「もののけ姫」を連想します。タタラの民は人を襲うどころか、真面目に生きてきたのに、朝廷から悪魔のように言われた、まあ言ってみれば差別ですね。

おそらく朝廷は鉄が欲しかったから、タタラの民を鬼と言って悪者扱いしたのでしょう。正義の朝廷からが悪い鬼(タタラの民)をやっつけて困っている村人を救うんだ、なんて感じでタタラの地を侵略したのですね。なんだか、どっちが鬼だかわかりませんがw、かつてのイラク戦争のようなことが起こっていたのですね。あの戦争もイラクのフセイン大統領を大量破壊兵器を隠し持つ悪い独裁者をやっつけろ見たいな感じでしたが、結局は石油の利権でしたから。

また、山賊だとか海賊だとか、そういうものたちのことを鬼と呼ぶようになったのですね。だんだん、鬼が野蛮で悪い奴ってイメージが出てきたのですね。

平安時代になると都に百鬼夜行が現れたそうです。百鬼夜行とは、訳もわからぬ化け物や妖怪たちがうじゃうじゃ練り歩くことです。その姿はなんとも恐ろしげです。その百鬼夜行が現れる日は毎月決まっていて1月と2月 は子(ね)の日、3月と4月は 午(うま)の日という具合に。百鬼夜行を見たものは死んでしまうという言い伝えもあり、そのため百鬼夜行に会うと大変だということで、その百鬼夜行が現れる日は貴族は外出を控えたと言います。百鬼夜行は一条大路と二条大路あたりに出没するのです。そこは天皇が住む大内裏の周辺。その正体は、貴族から見た身分が低い者たち。貴族にとっては、それは排除すべきもの、異物だという感覚だったのです。今でいえば負け組とか底辺の人たち。要するに貴族はそいういった人たちを妖怪とみなし見下していたのですね。

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(百鬼夜行の絵 Wikipediaより)

*この記事は「ダーク・サイドミステリー」を参考にして書きました。

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皆さんにクイズです。上の三人の肖像画、それぞれ誰か言ってください。


え、馬鹿にするなって?

上から聖徳太子、源頼朝、足利尊氏だろっ!!


って声が聞こえそうですが、正解はなんとも言えません。実はこの三つの肖像画、本当は誰なのかわからないのです。一番上の聖徳太子の肖像画ですが、僕が高校までの教科書には聖徳太子ってはっきり書いてありましたし、かつての1万円の肖像画もまさにこの絵でした。ところが最近の教科書には「伝聖徳太子」とあるのです。つまり、聖徳太子の肖像画だと言われているが、はっきりはわからないということ。この肖像画は別人の可能性もあるのです。この肖像画は実は本人の死後100年経ってから描かれたもの。つまり、目の前の聖徳太子本人を見て描いたものではないのです。そのため、聖徳太子の風貌を正確に描かれたわけじゃないのです。

二番目は源頼朝だと言われておりますが、これも「伝源頼朝像」とあるのです。それどころか、この肖像画は足利尊氏の弟の足利直義の可能性もあるというのです。

三番目の肖像画は足利尊氏だと言われておりますが、その可能性は低そうなのです。そのポイントはこの武将の絵の上にある花押です。この花押は尊氏の息子の足利義詮のものですが、息子の花押が父の絵の上に描かれることはまずありえないというのです。さらに、この肖像画の武将というのが品がないのです。とても征夷大将軍とは思えない。だらしなくのばした髪、モジャモジャのヒゲ、折れた弓矢を見る限り、これはもっと位が下の武将かもしれないと。もしかしたら尊氏の家臣の高師直の可能性があると。もちろん、この肖像画が尊氏の可能性も低いかもしれないが、ゼロではないのですね。

歴史の教科書で、日本最初の貨幣は「和同開珎ワドウカイチンだと教わった人も多いかと思います。今の歴史教科書では違います。富本銭フホンセンというものが最古の貨幣だと書かれているのです。富本銭の存在は古くから知られておりましたが、それまでは、おまじないとか祭祀に使うものだと考えられていたのです。それが1999年(平成11)に大量に発見され、それまでの常識が覆されたのです。

その発見された場所が奈良県。今の奈良県立万葉文化館のあるところです。僕もコロナ前に奈良に訪れ、万葉文化館に訪れました。そこに何やら発掘現場みたいなのがあって、なんだろうなって思ったのですよ。万葉文化館にも富本銭のことが紹介されていました。僕もそれで富本銭のことを知りました。万葉文化館建設に先立ち1997年に発掘調査を行なったのですね。そして2年後の1999年に富本銭が見つったのですね。

富本銭が鋳造チュウゾウされたのは天武天皇の時代。天武天皇は強力なリーダシップを持っていて、色々と政治改革を行ったのです。それで貨幣制度も取り入れようとしたのですね。当時、アジアで貨幣制度があったのは中国と日本だけでした。すごいですね。この富本銭の直径は2・4センチ、重さが4・3グラム。当時の中国の開元通宝とほぼ同じくらいの大きさなんですね。悪く言えば中国のパクリですが、ただマネをするのではなく日本独自のデザインを加えました。天武天皇は中国の貨幣制度を参考にした上で、中国に引けを取らないような国づくりをしようとしたのですね。

ただ、当時の日本は物々交換がメインで、富本銭はそれほど普及しなかったのですね。



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(富本銭)

日本史の問題で「645年に起きたことといえば?」と問われたら、「大化の改新」だと答える人はおそらく30歳以上の人が多いかと思います。「645年=大化の改新」という記述は、現在の歴史教科書から消えております。現在では、645年は乙巳いっしの変が起きた年と記載されているのです。

乙巳の変とは、蘇我入鹿ソガノイルカ中臣鎌足ナカトミノカマタリ中大兄皇子ナカノオオエノオウジがて組んで暗殺し入鹿の父である蘇我蝦夷ソガノエミシが自殺に追い込まれたクーデターのこと。僕らの世代は入鹿が殺されたことが大化の改新みたいな感じで習ったのですが、実際は違うのです。大化の改新とはクーデター後の政治改革のことであって、クーデターそのものではないのですね。中大兄皇子は、鎌足と共に、唐から新しい国家体制を学んで帰国した僧や学者らと、天皇中心の中央集権国家を建設しようとしたのです。そうした一連の政治改革を「大化の改新」というのですね。

ちなみに、蘇我入鹿という人物はどのような人物かというと、聖徳太子と共に政治を行った蘇我馬子の孫です。蘇我一族は自分の娘を天皇に嫁がせ、権力を握っていたのです。推古天皇スイコテンノウも蘇我馬子のめいに当たります。そして入鹿は、聖徳太子の血をひく一族を滅ぼし、我がもの顔だったのです。


いわば乙巳の変は大化の改新の幕開けとなった事件だったのですね。

* 参考文献



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