history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 飛鳥・奈良時代

蘇我氏と物部氏は仏教の受け入れをめぐって対立していたというのが通説になっております。しかし、最近の研究でどうもそれは疑わしい。

そもそも仏教は6世紀半ばに百済王の聖明王から大和朝廷に正式にいただいたもの。日本側の都合で、「こんなのいらねえよ」って突き返せるものではないのです。それは物部氏といえど反対できなかったのです。渋川廃寺という物部氏ゆかりの寺があったのですが、そこから物部氏も仏教を受容していた痕跡が最近になって見つかったといいます。蘇我氏と物部氏が対立したのは、むしろどちらが仏教の担当者になるかという役目争いだったという説もあるのです。むしろ蘇我氏と物部氏の対立は仏教というより権力闘争だったというのが真相だったそうです。そうして両者は対立、血で血を争う戦に発展したのです。いわゆる丁未ていびの乱です。

暑い日が続いておりますね。熱中症に注意ですね。歩いていて足がほつれたりしたら、それは熱中症のサインだとか。睡眠中にも熱中症になることがあるので寝る前に水分を取るとよいそうです。以下、僕がテレビで知った情報ですw

今日は、曲名に「青」がつく曲のアンケートです。曲名に赤とか白とか青とか色がつく楽曲は、それこそ色々ありますが、とりわけ「青」は非常に多い。青は日本人が好きな色のひとつなのかもしれない。実際、日本人が好きな色のランキングで「青」は二位に入っております。ちなみに一位は「黒」だそうです。意外ですね。ブラック企業とか、黒星とか良くない意味で使われたり、今のこの時期に台所とかでゴソゴソ出てくるGの色も黒なので、むしろ嫌いな色にランキングされそうなのに。

万葉集にも「あをによし、奈良の都は、咲く花の、にほふがごとく、今盛りなり」とあります。意味は「奈良の都は花の香が香ばしく、今が盛りとたくさん咲いています」。「あをに」とは漢字で「青丹」と書きまして、「あをによし」は「奈良」にかかる枕詞です。青丹は青色の土のことで、奈良では「青丹」がよく取れたのですね。おもに顔料や化粧料の黛に使われたそうです。青丹とは僕も実物を見たことがないのですが、その色は青とはいいがたく緑色に近いそうですが。

きょうは聖武天皇の皇后だった光明皇后について。彼女は仏教を熱心に信仰していて、東大寺および国分寺の設立を夫の聖武天皇に進言したと伝えられています。光明皇后は藤原家の出で、はじめは光明子と言われておりました。藤原氏が権力を維持するために光明子を天皇家に嫁がせたのです。光明子が男の子を生めば、その子は天皇になる。つまり藤原家の血が入った天皇が誕生する。これは藤原家にとってはまさにおめでたい事。藤原氏は天皇の親戚ということで権力を握れる。藤原氏の未来を託されたのです。いわば政略結婚。

光明子は男子を出産。これで藤原家は万々歳。しかし、すぐに悲劇が訪れます。神亀じんき5年(728)9月、皇太子が幼くして亡くなるのです。悲しみにくれる光明子。

さらに長屋王の変という事件が天平元年(729)におこります。長屋王の変からすぐさま、光明子に光明皇后となります。長屋王は皇室の人間で左大臣の地位にありましたが、藤原家との関係は芳しくなかったです。長屋王は謀反の疑いをかけられ自殺をしますが、これは藤原家が邪魔者の長屋王を陥れたといわれております。藤原氏は藤原家から皇后をだそうとやっきになっていたのです。この時代、皇室の人間以外のものが皇后になるのはあり得なかったこと。皇后というと天皇の奥さんってイメージがありますが、それは現代の感覚。この時代、皇后とは時に天皇にかわって政治を行うことができる立場という意味合いがあったのです。

皇后になった光明子は救貧施設の「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して、病人や孤児の保護や治療を行ったといいます。また諸国から献上させた薬草を無料で貧しい人たちに与えたともいわれております。また浴室からふろという公衆浴場、今でいうサウナもつくって病人たちをいやしたといいます。

こうした光明皇后が慈善活動を行った理由は彼女自身の性格もあると思いますが、長屋王の変にも理由があるのではないかと。この変では長屋王ひとりが自殺をしたのではなく、長屋王の正室や複数の息子も亡くなったのですね。光明子は藤原家の陰謀によって皇后になれた上に、そのために長屋王の家族が犠牲になったのです。そのことに対し光明皇后は罪の意識を持っていたのかもしれない。罪滅ぼしのために、こうした慈善活動を行った可能性があります。

このころ、天然痘が猛威を振るっておりました。光明皇后の兄たちである藤原四兄弟たちも天然痘にかかり次々と亡くなったのです。身内が次々となくなるという不幸があっても、光明皇后はけなげに夫の聖武天皇を支えつつ公務にあたったのです。天平10年(738)には、聖武天皇と光明皇后の一人娘である安倍内親王を皇太子とたてました。これまで女性が皇太子になる前例はなかったのです。そして安倍内親王は天平勝宝元年(749)に孝謙天皇となります。聖武天皇は上皇、光明皇后は皇太后になりました。この時、光明皇太后のために紫微中台しびちゅうだいという役所がつくられ、その役所の長官に藤原仲麻呂が就任。紫微中台という役所は、光明皇后の 意志 の 伝達 ,日常生活等を営むためにつくられたものです。

藤原仲麻呂は光明皇后の甥にあたり、非常に有能な人物でした。仲麻呂は政治の実権を握っていったのです。

聖武天皇が亡くなると、次期天皇問題が出てきます。孝謙天皇には子供がいなかったので、孝謙天皇の次の天皇を誰にするかということになったのです。候補者は二人。道祖王ふなどのおう大炊王おおいのおう。聖武上皇は遺言で次期天皇を道祖王にしろといったのです。道祖王は天武天皇の孫で血筋的には問題がない。しかし、素行が悪く評判がよくない。一方、大炊王は道祖王のいとこで藤原仲麻呂は大炊王押しでした。大炊王は人間性は悪くないが、仲麻呂の言いなりでした。自分が生きているうちは仲麻呂を抑えることができるが、自分が死んだら孝謙天皇はやり手の仲麻呂に悩まされるにちがいないと。光明皇后はどちらを次期天皇にするか悩みます。亡き夫のいうことを聞いて道祖王にすべきか、大炊王を支持すべきか。

結局、光明皇后は大炊王を次期天皇として支持したのです。大炊王はのちの淳仁天皇となります。光明皇后は本当に苦しかったと思います。自分が子供を産んでいれば、こんな次期天皇選びに悩むことなどなかったろうにって。とはいえ、次期天皇が無事に決まって光明皇太后もほっとしたと思います。光明皇太后は天平宝字4年(760)6月7日に崩御します。


光明皇后といえば、こんな言い伝えもあります。施薬院にて千人のアカを洗い落とすことを発願した皇后がその通りに人々を世話していたところ、最後の千人目に重症のハンセン病患者が現れ、皇后にウミを口で吸い出すよう要望し、彼女がその通りにすると、病人は正体を現し阿修羅如来となったというもの。その千人目が本当に如来様だったかどうかはわかりませんが、皇后がそれくらい優しい方だったということでしょう。


皇后の姿勢を見ていると、中国の作家・方方さんが書かれた『武漢日記』の一説が浮かびます。


「一つの国が、文明的であるかどうかの尺度は、高層ビルや、車の多さや、強大な武器や、軍隊や(中略)世界各地で豪遊する旅行客の数ではない。唯一の尺度は弱者にどう接するか。その態度である」


本当にそうだなって。

*この記事は『英雄たちの選択』を参考にして書きました。

飛鳥時代の政治家、蘇我入鹿って悪者ってイメージがあります。それにしても、蘇我入鹿の名前おぼえずらいですね。子供のころ、僕は入鹿のことを、魚のイルカ🐬のことをイメージしながら名前を覚えた記憶があります。あと、入鹿をやっつけた中臣鎌足。かれのことは鎌足ではなくカタマリって覚えた記憶がありますw昔の人の名前は難しいですからね。

その蘇我入鹿がやっつけられた事件が 乙巳 いっしの変。これは中大兄皇子と中臣鎌足が、悪者の蘇我入鹿をやっつけて、その父親の蘇我蝦夷も自殺したという、有名なクーダターです。しかも、入鹿は時の天皇皇極天皇の前で無残に殺されてしまうのですね。

蘇我親子を倒したクーデターのことを「大化の改新」だと勘違いしがちですが違います。クーデターのことを乙巳の変と言い、大化の改新はそのクーデターの後の政治改革のことを言います。さて日本書紀によると蘇我入鹿が、聖徳太子の息子である山背大兄王を自害に追いこんだ悪者だと。そして入鹿は専横をおこなったと。それで正義の中大兄皇子と中臣鎌足がやっつけたことになっています。そうした日本書紀の書き方に近年疑問の声が上がっているのですね。むしろ、権力抗争に巻き込まれた気の毒な人ではないかって説もあるのです。

その「日本書紀」は681年に天武天皇が、藤原不比等ら六人の皇族と六人の役人、総勢十二人に国史編纂ヘンサンを命じたのですね。全30巻。神代の時代から持統天皇の時代まで描かれているのですね。「日本書紀」は我が国初の正史です。完成したのが720年。40年近くかかったのだから、いかに大きなプロジェクトだったかが伺えます。ただ、歴史というものは勝者の歴史。戦争や権力抗争やらで権力を握ったものにとって都合の良い歴史が書かれていることが多いのですね。「日本書紀」も例外ではありません。『日本書紀』の編纂を命じたのは天智天皇の弟。そして、編纂の中心人物は藤原不比等。藤原不比等は鎌足の息子、どうしても天智天皇や天武天皇、そして藤原家にとって都合の良いことしか書かれていないはず。



入鹿が山背大兄王を自害に追い込んだ理由は古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこおを皇位につけたかったのですね。蘇我の血をひく古人大兄皇子が天皇になれば、蘇我家の権力がますます強くなる。古人大兄皇子は蘇我系の血を受けた舒明天皇の第一皇子で、もう少し早く生まれていたら、皇位に就いていてもおかしくない人物でした。ところが、蘇我入鹿が殺され頼みとする後ろ楯を失い、最後は出家、隠退したのですが、不幸にも古人大兄皇子は異母弟・中大兄皇子が差し向けた刺客に殺害されたのですね。

古人大兄皇子が天皇になるのを恐れたのが中大兄皇子でありますが、もっともそれを恐れたのが軽皇子カルノミコ。軽皇子は時の天皇の皇極天皇の弟で、中大兄皇子は軽皇子の甥です。皇極天皇の後継者は古人大兄皇子か中大兄皇子だといわれており、軽皇子は蚊帳の外だったのです。で、中大兄皇子は天皇に即位するには若すぎる。となると、軽皇子のライバルは古人大兄のみ。それで、軽皇子は中大兄皇子と結託し古人大兄皇子を排除する必要がある。古人大兄皇子のバックには蘇我家がついている。その蘇我家を滅ぼせば自分にも天皇の座が回ってくる。そんなことを軽皇子が考えたという説もあるのですね。

実際、 乙巳 いっしの変の後、皇極天皇の後継者は軽皇子になりました。そして軽皇子は孝徳天皇となったのです。あまりにもタイミングが良すぎるのですね。しかも、中大兄皇子とともにクーデターにかかわった藤原鎌足は、軽皇子の側近。もちろん、軽皇子が黒幕だと断定はできないのですが、少なくとも蘇我入鹿が『日本書紀』で言われるほどの悪人とはかんがえにくいのですね。

*この記事は『にっぽん!歴史鑑定』を参考にして書きました。





「渡る世間は鬼はなし」って言葉があります。世の中には鬼のように無情な人ばかりでなく、親切で人情に厚い人もいるということのたとえです。実際は鬼の方が圧倒的に多くて、親切で情に厚い人を探すのは難しい気がするのですがw、それはともかく、「鬼」っていうと悪いイメージがあります。また、鬼というと、虎のパンツで筋骨隆々で、おっかない顔のイメージがあります。いかにも強そうな感じですね。「桃太郎」とか「一寸法師」とかの昔話でも、鬼はラスボスのイメージですね。仕事の鬼という言葉がありますが、これはすごい仕事ができる人のことを言いますね。また、最近の若者よく「鬼」という言葉を使い、「鬼リピ」(鬼のようにリピートする)とか、「鬼やば」(とてもヤバい)みたいに使います。ここでは鬼ってすごいってイメージですね。いづれにせよ鬼は強いというニュアンスから、このような言葉が生まれたのだと思います。

この「鬼」という文字も中国から伝わりました。鬼の原点も古代中国です。しかし、古代中国における鬼は我々が考える鬼とはちょっと違うのですね。中国語の「鬼」は本来は人が死んだ後になるものという意味で、日本語でいうと「幽霊」に近いニュアンスです。現代でも人がなくなると鬼籍って言いますよね。その鬼籍もここからきているのです。

中国語の「鬼」は特に女性の幽霊のイメージがあるようです。古代中国の家制度で、未婚の女性が亡くなるとお墓にちゃんと入れてもらえなかったのですね。つまり女は結婚してやっと一人前。SDGSとかLGBTの現代では考えられないような女性差別ですが、そのため未婚で亡くなった女性の霊はこの世に未練を残してしまうと。それで男を探しに生きている男の前に現れると考えられたのです。

それが鬼は日本に渡って、いつの間にか得体の知れないものってイメージになったのですね。鬼が初めて登場するのは『日本書紀』。飛鳥時代、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅と別れておりましたが、日本は百済と友好国で、その百済を助けるべく日本も立ち上がったのです。時の天皇、斉明天皇自ら出陣し、京から九州に向かったのですが、しかし九州にあった朝倉宮で斉明天皇は突然病死。その時の『日本書紀』の記述。

「朝倉山の上に鬼ありて大笠を着て、喪のよそおいを臨み視る」

なんと、朝倉山の上に大きな鬼がいて、大きな笠を被っていて、鬼が天皇の葬儀を見ていたというのです。怖いですね。見ているだけで悪さをしたわけじゃないのですね。また『日本書紀」には「鬼神」と書いて「かみ」とまで読ませていたのですね。ここでは鬼は悪さをするというより、人智を超えたものというイメージですね。

そして奈良時代になると『出雲国風土記』には鬼が人を襲うって記述があるのです。島根県の阿用というところがあるのですが、ここに一つ目の鬼が現れ人間を殺したというのです。その鬼が殺された人が亡くなる際に「あよ、あよ」って言ってなくなったとか。それから、この地は阿用の郷と呼ばれるになったのです。実は、この地はタタラ製鉄が盛んで、製鉄の作業中に、作業員が片目を潰してしまったと。それでタタラの民は目が一つだと。タタラの人というと「もののけ姫」を連想します。タタラの民は人を襲うどころか、真面目に生きてきたのに、朝廷から悪魔のように言われた、まあ言ってみれば差別ですね。

おそらく朝廷は鉄が欲しかったから、タタラの民を鬼と言って悪者扱いしたのでしょう。正義の朝廷からが悪い鬼(タタラの民)をやっつけて困っている村人を救うんだ、なんて感じでタタラの地を侵略したのですね。なんだか、どっちが鬼だかわかりませんがw、かつてのイラク戦争のようなことが起こっていたのですね。あの戦争もイラクのフセイン大統領を大量破壊兵器を隠し持つ悪い独裁者をやっつけろ見たいな感じでしたが、結局は石油の利権でしたから。

また、山賊だとか海賊だとか、そういうものたちのことを鬼と呼ぶようになったのですね。だんだん、鬼が野蛮で悪い奴ってイメージが出てきたのですね。

平安時代になると都に百鬼夜行が現れたそうです。百鬼夜行とは、訳もわからぬ化け物や妖怪たちがうじゃうじゃ練り歩くことです。その姿はなんとも恐ろしげです。その百鬼夜行が現れる日は毎月決まっていて1月と2月 は子(ね)の日、3月と4月は 午(うま)の日という具合に。百鬼夜行を見たものは死んでしまうという言い伝えもあり、そのため百鬼夜行に会うと大変だということで、その百鬼夜行が現れる日は貴族は外出を控えたと言います。百鬼夜行は一条大路と二条大路あたりに出没するのです。そこは天皇が住む大内裏の周辺。その正体は、貴族から見た身分が低い者たち。貴族にとっては、それは排除すべきもの、異物だという感覚だったのです。今でいえば負け組とか底辺の人たち。要するに貴族はそいういった人たちを妖怪とみなし見下していたのですね。

54BDC61A-FD68-491F-AE1D-0E2C9BB09ACE

(百鬼夜行の絵 Wikipediaより)

*この記事は「ダーク・サイドミステリー」を参考にして書きました。

このページのトップヘ