history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: アメリカの歴史

アメリカの歴代大統領は「我々、国民」の「国民」は誰なのかを常に考えたといいます。よくも悪くも。本来、国民とはアメリカに住む人たち全員にあてはまるべきなのですが、残念ながら、そうとは言えない。時代背景や人々の偏見によって、その国民がだれに当てはまるか全く違っていたのです。国民の定義がその時代、時代によって違うのでマイノリティーの人たちは常に苦しんだのですね。黒人やインディアン、移民、女性が差別され、国民とみなされなかった時代もあったのですね。


チェスター・アラン・アーサー大統領の時に中国の移民問題が持ち上がったのです。アーサー大統領はパーティー好きで、ズボンも84本も持っていたほどのおしゃれな人。幅広い頬ひげと口ひげが彼のトレードマーク。そんなアーサー大統領が大統領だった1873年に大不況がおこります。これにアメリカ労働者は直撃。不況時の常として、人々は不満のはけ口を探したのです。

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(アーサー大統領 ウィキペディアより)

西海岸の労働運動で白人と中国人が対立。中国人移民が問題になったのです。アメリカ人は仕事を中国人に奪われると危惧したのです。中国人移民たちは低賃金で危険な仕事を進んでやったから。アメリカ人の間で人種差別と外国人恐怖症が経済不安とともに広がり始まるのです。アメリカにおける「我々、国民」に中国人移民は外されていたのです。「中国人は出ていけ」という標語が平然と言われていたのです。そして中国人移民を制限しろという声に議会もうごいて中国人移民制限法の法案が圧倒的多数で上院を通過。その内容は中国人は20年、アメリカに渡航することを禁じるというもの。

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(移民制限法によって困っている中国人の絵。ウィキペディアより)

アーサー大統領は悩みました。中国人移民の貢献で鉄道建設もできた。そういう彼らの功績も無視できないし、彼らを排除すれば東洋との交易もできなくなるから。アーサーは悩んだ末に、拒否権を行使。もちろん、東洋との交易というメリットだけでなく、アーサーの個人的信条にも反しました。できれば、そんな残酷なことはしたくない、差別は嫌だとアーサーはおもったのです。

しかし、良識や敬意は政治権力と両立しないことが多い。それで、禁止期間を20年ではなく10年に短縮するということでアーサー大統領は法案にサイン。それは1882年5月6月のことでした。それまで毎年、約4万人くらいの中国人移民がやってきたが、1885年には半減。次第に中国人だけでなく日本人を含むアジア人全てが対象になりました。はじめは10年という制限付きだったのが、、1902年には法が改正され、アメリカは永久に移民を認めないって話になりました。この法案が廃止されたのが1943年というから驚きです。この法案が廃止された現在でも移民問題はアメリカを直撃しております。トランプ元大統領がメキシコとアメリカの国境に壁を作ってメキシコからの移民を制限しようとし、またそれを支持したアメリカ国民も少なくなかったのも、その表れですね。

寒い日が続いておりますね。みなさまも風邪などめされないよう。今コロナがはやっておりますが、僕自身もきをつけないと。そのコロナも5月からインフルと同じ5類になるとか。コロナがインフルと同じ扱いとなることで世論は賛否両論ですが、ともあれ5類になることで、よくも悪くも状況が変わるでしょう。

コロナの3年間はまさに人類にとって極限状況でした。また、いまウクライナで戦争が起こっていてこれもまた極限状況です。極限状況になると人々はパニックになるのが人情ですが、その一方で、人を思いやり、人様のために働く人もいるのですね。でも、それって勇気が必要なんですよね。この間、「映像の世紀」をみて、極限状況の中で勇気をもって善を行った人々をとりあげ、僕も感動しました。今日は、その善を行った一人の女性を取り上げます。






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かつて、イギリスの首相だったチャーチルがアメリカが世界における役割について、印象的な言葉を残しております。以下、引用します。

我々は生涯に二度も運命の長い腕が大洋を超えて伸び、アメリカを戦いの最前線に招き入れた。ヨーロッパの災いが発生すると、その破滅的な猛威はアメリカにも及び、決して逃れられないことが証明される。アメリカ国民は世界的責任から免れることはできない。

私たちはほとんど予測できない激動の時代に生きているが、アメリカが富と権力において前進するたびに、この過程が強化されることは、間違いないだろう


今日のウクライナ情勢における、アメリカの動きを見るたびに、チャーチルは半世紀以上も前に、こうなることを言っていたのだから、慧眼だなって。チャーチルがこのような言葉を述べた背景を順を追ってお話しします。

アメリカは、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二度の戦争に関わりました。実は第二次世界大戦の時、アメリカ国内では厭戦気分が漂っていたのですね。第一次世界大戦にアメリカは参戦し、たくさんの犠牲者を出したのですね。戦争はゴメンだという意見が圧倒的に多かったのです。ちなみに、かのリンドバーグも戦争反対を唱えていたのですね。リンドバーグと言いましてもバンドの名前ではありませんよw、飛行機で世界一周をした有名なパイロットです。

当時、アメリカはイギリスのチャーチル首相から、ヨーロッパでナチスドイツが暴れ出し大変なことになっているから、助けて欲しいと矢のような催促をアメリカにしていたのです。しかし、ルーズベルト大統領は、本音ではイギリスを助けたいけれど、国内の厭戦気分を無視できなかったのです。1939年の世論調査ではイギリスの軍事支援を賛成する意見は、わずか16%足らずだったのです。それが1940年6月のナチスドイツのフランス侵攻、さらに同年7月にドイツがイギリス本国空爆、といったニュースを知り、アメリカ国民は衝撃を受けます。世論調査でもイギリスを助けるべきという意見が50%を超えたと言います。それでも、1940年にアメリカで徴兵制が導入されるや否や、国民の間で、それに反発する意見も大きかったのです。イギリスに物資や兵器を輸送するなどで支援するのは賛成だが、自分達が戦争に巻き込まれるのはゴメンだということでしょう。それが1941年12月の真珠湾攻撃で、アメリカ世論も戦争に参戦すべきが圧倒的になるのですが。結局、アメリカは二度の大戦に巻き込まれてしまったのですね。

二つの戦争が終わった後も、アメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と色々な戦争に関わっております。今回のウクライラでも、武器貸与法を77年ぶりに復活させました。77年前もルーズベルト大統領が、この法律でもってヒトラーと戦う姿勢を示しました。アメリカのバイデン大統領も、ロシアのプーチンをヒトラーと同一視したってことでしょう。また、ウクライナに世界中から義勇兵が集まっておりますが、アメリカからは5000人も集まっているというから、驚きます。かなりの人数ですね。アメリカは世界の警察をやめたといった矢先のウクライナ戦争ですから。チャーチルの言葉が今も生きているんだなって。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

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(KKKの儀式の写真。Wikipediaより)


1 第一期KKK
KKKという秘密結社をご存知でしょうか。正式名称は、汚い、臭い、気持ち悪い、じゃないですよwKKKは正式にはクー‐クラックス‐クランと言い、白人至上主義の団体です。ちなみにトランプ前大統領はKKKに批判的です。KKKはトランプのことを支持しているようですが。

この団体が生まれた背景は1861年から1865年まで続いた南北戦争にありました。南北戦争は黒人奴隷制度に反対する北部と奴隷制度に賛成の南部が対立し、南部が負けてしまった、そして中心的人物だったリンカン大統領が暗殺された、ってくだりは多くの教科書にも書かれております。

北部が奴隷に反対したのは、北部の方が人道的だったという面もありますが、北部と南部の産業構造の違いが大きかったのです。アメリカの北部は商工業中心で南部は農業中心でした。南部は黒人の奴隷を綿花農場とかでこき使い、そうやって生活が成り立っていたのですね。だから黒人奴隷を廃止せよという北部の言い分は南部にとっては死活問題だったのです。産業の構造が大きく崩れてしまう。

そうして、南北戦争の終結から間もない1865年の12月24日にKKKが結成されました。その時のメンバーはわずか六人。全員が元南部の兵士でした。奴隷制度を維持して、南北戦争の敗北の屈辱を晴らそうというのが、その結成の目的でした。その結成者はネイサン・ベッドフォード・フォレストです。南北戦争前は奴隷商人で、戦争中は南軍の英雄と呼ばれました。彼は白人至上主義だった言います。


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(ネイサン・ベッドフォード・フォレスト Wikipediaより。人相悪いねえ、いかにも悪いことしそうだけれど)



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(初期のKKKの衣装)

また、KKKの衣装といえば、白装束に三角の白い頭巾というイメージがありますが、初期は違いました。KKKのイメージとは違いますね。何かホラー映画とかに出てきそうな雰囲気ですね。初期の服装は赤と白の服装にグロテスクなマスクでした。赤と白は南軍のモチーフです。わずか六人だったKKKもその人数は膨れ上がりました。当初のKKKは「黒人をしつける」という感じで、イタズラ程度の嫌がらせを黒人たちにしていたのですが、会員数が増えるに従い、次第に暴力的になっていったのですね。

1868年、ジョージア州ではたった三ヶ月で39人の黒人が殺害され、アラバマ州では109件もの(黒人への)暴行事件やら殺害事件が起こったのです。こうしたKKKで起きた人の命を奪うリンチや殺人は特定の誰かが指揮して行われた訳ではないのですね。つまり設立者のネイサン・ベットフォード・フォレストの命令で行われた訳じゃないのです。むしろフォレストは過激化するKKKのあり方を憂いたのですね。そしてフォレストはKKKを解散。

フォレストはKKKを設立したことから、アメリカのヒトラーと評価するものも少なくありませんが、実際の彼は確かに白人主義者だったけれど、世間で言われる程の黒人差別主義者ではなかったのですね。実際、晩年のフォレストは演説で、「黒人は彼等の望むどの候補者にも投票する権利があり、黒人の役割は高められるべき」と語ったほどだし、黒人に対する暴力には否定的でした。

ところが、KKKが解散しても黒人差別が完全になくなった訳じゃないのです。1877年にジム・クロウ法が南部で成立してしまいます。これは黒人の人種隔離制度で以後90年も続く悪名高き法律です。この法律で黒人たちは隔離され、黒人専用のバスや食堂とかができて、差別も相変わらずだったのですね。このジム・クロウ法は20世紀に入ってからも問題になり、1960年代の公民権運動にもつながるのですが、その辺は後ほど。

2 第二期KKK
 1920年代になると、またしてもKKKの活動が活発化します。しつこいなあwって思いますが、それくらい黒人差別が、特に南部で根強かったのですね。しかも、1920年代はKKKの最盛期と言われ、その会員数はなんと500万人。これは東京の人口の半分ですね。 KKKを復活させたのは、ウィリアム・シモンズという牧師です。1915年に神のお告げを聞いて、KKKを復活させたと言います。神のお告げというより、悪魔の誘惑のような気がしますが。ちょうど同じ時期に「國民の創生」という映画が上映されます。この映画は黒人が悪者として描かれ、悪い黒人をKKKがやっつけるというプロットになっております。この映画は人種差別を助長すると言って非難され、上映禁止運動も起こったほどでしたが、興行的には大ヒット。この映画に共感するものが少なくなかったのですね。だからこそ、KKKが息を吹き返したのでしょう。

第二期のKKKは古き良き時代のアメリカの道徳を取り戻そうという目的で設立されました。しかし、やっていることは一期のKKKよりもひどく、「黒人をしつける」とした以前のKKK以上に強硬的な過激派として活動したのです。例えば、1923年にはオクラホマ州だけで2,500件以上の暴行事件を起しており、放火や殺人が日常的に行われたと言います。暴力行為もそれはひどいもので、ターゲットを縄でしばって列車にひかせる、焼印を押すなど残虐さを極めたとか。

しかも、KKKの攻撃ターゲットも広がり、黒人だけでなく、有色人種全体の排撃を主張したのですね。この頃のアメリカは移民がどんどん入ってきた時代ですからね。移民たちに俺たちの仕事が奪われるって思って移民排除を行ったのです。

白人至上主義だけでなく、宗教色も強まり、カトリックやユダヤ教、イスラム教徒も攻撃の対象としたのですね。アメリカは伝統的にプロテスタントですから。他にも共産主義者も攻撃対象とされました。

もちろん悪いことばかりした訳じゃなく、病院や学校に寄付をしたり慈善活動も盛んに行ったのも第二期KKKの特徴と言えます。

こうしたKKKの姿勢は貧しい白人たちの絶大な支持を集め、南部の州だけでなく、中西部のテネシー州とかオレゴン州とかでは少なからぬ政治的影響力を持つようになったと言います。そして、インディアナ州では、KKKの構成員が州知事になったというから驚きです。知事だけでなく、後の大統領となるハリー・トルーマンもKKKの票が欲しくて、KKKに加入したこともあったというから、これまた驚きです。1925年には、KKKはワシントンDCで大規模なパレードを行なったと言います。秘密結社だったKKKが表舞台に堂々とでてきたのですね。

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そんなKKKもいろいろ問題を起こしたり、1924年に移民法が成立し、移民の制限が行われるようになると、次第にKKKの移民排除という目的もうしわなれ、徐々に衰退していきます。

3 KKK第三期
 1960年代になると、三たびKKKはよみがえります。きっかけは公民権運動。KKKの活動は残虐さを極め、黒人の家をダイナマイトで吹き飛ばしたり、黒人を狙ったテロやリンチ事件が一年で100件以上だったとか。こうしたKKKによる犯罪事件に警察署長も見て見ぬ振りをしていたと言います。なぜなら警察署長も公民権運動に反対していたから。やりたい放題のKKKによる犯罪で有名なのが、1963年9月に起こった16番地バプテスト教会爆破事件、もう一つは1964年に起こったミシシッピ・バーニング事件。

まず、アラバマ州、16番通りバプテスト教会爆破事件は、KKKがバプテスト教会にダイナマイトを仕掛け、爆破したのです。バプテスト教会は公民権運動の拠点の一つでした。だからターゲットになったのです。この爆破事件で、日曜学校に来た二十名が負傷、そして黒人女子小・中学生4人が死亡しました。幼い子供の命まで奪ったということで、この事件は世間から大いに非難されました。

ミシシッピ・バーニング事件は、黒人一人と白人二人の公民権運動の活動家が何者かに殺されてしまったのですね。三人はリンチの末、銃殺されてしまったのです。その時上がった容疑者は十八名。その容疑者たちはセールスマンとかドライバーとか牧師とか職業はさまざまでしたが、十八名全員KKKの構成員でした。十八名の犯行をめぐって裁判も行われましたが、陪審員は全員白人。アメリカは陪審員制度(✳︎1)を行なっていたので、これは黒人にとって非常に不利でした。裁判官による冷静な判決が下せません。18人中、11人が無罪、有罪になった7人も懲役3年ないし10年という軽い罪でした。殺人罪には至らなかったのです。つまり黒人と、その黒人の味方をしたから殺されたのだ、自業自得だという言い分でしょう。ひどい話ですが、これが1960年代のアメリカの現実でした。

しかし、神様はいるのですね、2005年にミシシッピ・バーニング事件の容疑者たちが改めて裁かれたのです。エドガー・レイ・キリンという容疑者の一人が過失致死罪の罪で60年もの懲役が裁判で決まったのです。キリンは1964年の裁判では陪審員がかばって無罪だったのに、それが一転して有罪になったのです。アメリカも変わったのですね。
1964年には公民権法が成立、1965年には(黒人への)投票権法成立、21世紀にはライス元国務長官やオバマ元大統領と黒人の政治家が次々と活躍し、KKKは衰退と思いきや、21世紀になってまた別の白人至上主義団体が出てきております。KKKも解散した訳じゃないし。差別問題をなくすのはまだまだ時間がかかるようです・・・

*この記事は「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました





✳︎1 陪審制度は,有罪かどうかは民間から任意に選ばれた陪審員が決め,有罪の場合にどのような刑にするかを裁判官が決めるもの。

前回の記事で、テニアン島のテニアンスクールの話をしましたが、その続きを。

「人と人が直接に知り合っていれば憎しみは生まれません。お互いの人間的な関係がない時に人は3万フィートの上空から平気で人々の上に爆弾を落とせてしまうのです。それがまさに戦争の悲劇なのです」

このセリフは爆撃機に乗り、日本本土を無差別爆撃を行った、ある兵士が語った言葉です。彼は命令されるまま、テニアン島にある基地を飛び出し、日本の都市部への爆撃を行いました。任務が終わってテニアン島に帰還して、爆撃機に乗っていた乗組員たちが、立ち寄ったのがテニアン島にあったテニアンスクール。テニアンスクールには日本人捕虜の子どもたちがたくさん。子どもたちの無邪気な笑顔を見て、兵士たちも心も和みます。そして一緒にスポーツをやったり、パーティーをやったり楽しんだといいます。爆撃で殺したのも、今目の前にいる子どもたちも同じ日本人。だからこそ、冒頭の言葉を述べた兵士は苦しんだのです。爆弾を落としている自分と子どもたちを可愛がっている自分の矛盾に苦しんだ兵士たちは少なくなかったのですね。さまざまな事情で戦争になってしまったけれど、同じ人間同士ってことですね。

今、ウクライナが大変なことになっておりますが、冒頭の兵士の言葉が響きますね。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

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