History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: アメリカの歴史

かつて、イギリスの首相だったチャーチルがアメリカが世界における役割について、印象的な言葉を残しております。以下、引用します。

我々は生涯に二度も運命の長い腕が大洋を超えて伸び、アメリカを戦いの最前線に招き入れた。ヨーロッパの災いが発生すると、その破滅的な猛威はアメリカにも及び、決して逃れられないことが証明される。アメリカ国民は世界的責任から免れることはできない。

私たちはほとんど予測できない激動の時代に生きているが、アメリカが富と権力において前進するたびに、この過程が強化されることは、間違いないだろう


今日のウクライナ情勢における、アメリカの動きを見るたびに、チャーチルは半世紀以上も前に、こうなることを言っていたのだから、慧眼だなって。チャーチルがこのような言葉を述べた背景を順を追ってお話しします。

アメリカは、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二度の戦争に関わりました。実は第二次世界大戦の時、アメリカ国内では厭戦気分が漂っていたのですね。第一次世界大戦にアメリカは参戦し、たくさんの犠牲者を出したのですね。戦争はゴメンだという意見が圧倒的に多かったのです。ちなみに、かのリンドバーグも戦争反対を唱えていたのですね。リンドバーグと言いましてもバンドの名前ではありませんよw、飛行機で世界一周をした有名なパイロットです。

当時、アメリカはイギリスのチャーチル首相から、ヨーロッパでナチスドイツが暴れ出し大変なことになっているから、助けて欲しいと矢のような催促をアメリカにしていたのです。しかし、ルーズベルト大統領は、本音ではイギリスを助けたいけれど、国内の厭戦気分を無視できなかったのです。1939年の世論調査ではイギリスの軍事支援を賛成する意見は、わずか16%足らずだったのです。それが1940年6月のナチスドイツのフランス侵攻、さらに同年7月にドイツがイギリス本国空爆、といったニュースを知り、アメリカ国民は衝撃を受けます。世論調査でもイギリスを助けるべきという意見が50%を超えたと言います。それでも、1940年にアメリカで徴兵制が導入されるや否や、国民の間で、それに反発する意見も大きかったのです。イギリスに物資や兵器を輸送するなどで支援するのは賛成だが、自分達が戦争に巻き込まれるのはゴメンだということでしょう。それが1941年12月の真珠湾攻撃で、アメリカ世論も戦争に参戦すべきが圧倒的になるのですが。結局、アメリカは二度の大戦に巻き込まれてしまったのですね。

二つの戦争が終わった後も、アメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争と色々な戦争に関わっております。今回のウクライラでも、武器貸与法を77年ぶりに復活させました。77年前もルーズベルト大統領が、この法律でもってヒトラーと戦う姿勢を示しました。アメリカのバイデン大統領も、ロシアのプーチンをヒトラーと同一視したってことでしょう。また、ウクライナに世界中から義勇兵が集まっておりますが、アメリカからは5000人も集まっているというから、驚きます。かなりの人数ですね。アメリカは世界の警察をやめたといった矢先のウクライナ戦争ですから。チャーチルの言葉が今も生きているんだなって。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

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(KKKの儀式の写真。Wikipediaより)


1 第一期KKK
KKKという秘密結社をご存知でしょうか。正式名称は、汚い、臭い、気持ち悪い、じゃないですよwKKKは正式にはクー‐クラックス‐クランと言い、白人至上主義の団体です。ちなみにトランプ前大統領はKKKに批判的です。KKKはトランプのことを支持しているようですが。

この団体が生まれた背景は1861年から1865年まで続いた南北戦争にありました。南北戦争は黒人奴隷制度に反対する北部と奴隷制度に賛成の南部が対立し、南部が負けてしまった、そして中心的人物だったリンカン大統領が暗殺された、ってくだりは多くの教科書にも書かれております。

北部が奴隷に反対したのは、北部の方が人道的だったという面もありますが、北部と南部の産業構造の違いが大きかったのです。アメリカの北部は商工業中心で南部は農業中心でした。南部は黒人の奴隷を綿花農場とかでこき使い、そうやって生活が成り立っていたのですね。だから黒人奴隷を廃止せよという北部の言い分は南部にとっては死活問題だったのです。産業の構造が大きく崩れてしまう。

そうして、南北戦争の終結から間もない1865年の12月24日にKKKが結成されました。その時のメンバーはわずか六人。全員が元南部の兵士でした。奴隷制度を維持して、南北戦争の敗北の屈辱を晴らそうというのが、その結成の目的でした。その結成者はネイサン・ベッドフォード・フォレストです。南北戦争前は奴隷商人で、戦争中は南軍の英雄と呼ばれました。彼は白人至上主義だった言います。


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(ネイサン・ベッドフォード・フォレスト Wikipediaより。人相悪いねえ、いかにも悪いことしそうだけれど)



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(初期のKKKの衣装)

また、KKKの衣装といえば、白装束に三角の白い頭巾というイメージがありますが、初期は違いました。KKKのイメージとは違いますね。何かホラー映画とかに出てきそうな雰囲気ですね。初期の服装は赤と白の服装にグロテスクなマスクでした。赤と白は南軍のモチーフです。わずか六人だったKKKもその人数は膨れ上がりました。当初のKKKは「黒人をしつける」という感じで、イタズラ程度の嫌がらせを黒人たちにしていたのですが、会員数が増えるに従い、次第に暴力的になっていったのですね。

1868年、ジョージア州ではたった三ヶ月で39人の黒人が殺害され、アラバマ州では109件もの(黒人への)暴行事件やら殺害事件が起こったのです。こうしたKKKで起きた人の命を奪うリンチや殺人は特定の誰かが指揮して行われた訳ではないのですね。つまり設立者のネイサン・ベットフォード・フォレストの命令で行われた訳じゃないのです。むしろフォレストは過激化するKKKのあり方を憂いたのですね。そしてフォレストはKKKを解散。

フォレストはKKKを設立したことから、アメリカのヒトラーと評価するものも少なくありませんが、実際の彼は確かに白人主義者だったけれど、世間で言われる程の黒人差別主義者ではなかったのですね。実際、晩年のフォレストは演説で、「黒人は彼等の望むどの候補者にも投票する権利があり、黒人の役割は高められるべき」と語ったほどだし、黒人に対する暴力には否定的でした。

ところが、KKKが解散しても黒人差別が完全になくなった訳じゃないのです。1877年にジム・クロウ法が南部で成立してしまいます。これは黒人の人種隔離制度で以後90年も続く悪名高き法律です。この法律で黒人たちは隔離され、黒人専用のバスや食堂とかができて、差別も相変わらずだったのですね。このジム・クロウ法は20世紀に入ってからも問題になり、1960年代の公民権運動にもつながるのですが、その辺は後ほど。

2 第二期KKK
 1920年代になると、またしてもKKKの活動が活発化します。しつこいなあwって思いますが、それくらい黒人差別が、特に南部で根強かったのですね。しかも、1920年代はKKKの最盛期と言われ、その会員数はなんと500万人。これは東京の人口の半分ですね。 KKKを復活させたのは、ウィリアム・シモンズという牧師です。1915年に神のお告げを聞いて、KKKを復活させたと言います。神のお告げというより、悪魔の誘惑のような気がしますが。ちょうど同じ時期に「國民の創生」という映画が上映されます。この映画は黒人が悪者として描かれ、悪い黒人をKKKがやっつけるというプロットになっております。この映画は人種差別を助長すると言って非難され、上映禁止運動も起こったほどでしたが、興行的には大ヒット。この映画に共感するものが少なくなかったのですね。だからこそ、KKKが息を吹き返したのでしょう。

第二期のKKKは古き良き時代のアメリカの道徳を取り戻そうという目的で設立されました。しかし、やっていることは一期のKKKよりもひどく、「黒人をしつける」とした以前のKKK以上に強硬的な過激派として活動したのです。例えば、1923年にはオクラホマ州だけで2,500件以上の暴行事件を起しており、放火や殺人が日常的に行われたと言います。暴力行為もそれはひどいもので、ターゲットを縄でしばって列車にひかせる、焼印を押すなど残虐さを極めたとか。

しかも、KKKの攻撃ターゲットも広がり、黒人だけでなく、有色人種全体の排撃を主張したのですね。この頃のアメリカは移民がどんどん入ってきた時代ですからね。移民たちに俺たちの仕事が奪われるって思って移民排除を行ったのです。

白人至上主義だけでなく、宗教色も強まり、カトリックやユダヤ教、イスラム教徒も攻撃の対象としたのですね。アメリカは伝統的にプロテスタントですから。他にも共産主義者も攻撃対象とされました。

もちろん悪いことばかりした訳じゃなく、病院や学校に寄付をしたり慈善活動も盛んに行ったのも第二期KKKの特徴と言えます。

こうしたKKKの姿勢は貧しい白人たちの絶大な支持を集め、南部の州だけでなく、中西部のテネシー州とかオレゴン州とかでは少なからぬ政治的影響力を持つようになったと言います。そして、インディアナ州では、KKKの構成員が州知事になったというから驚きです。知事だけでなく、後の大統領となるハリー・トルーマンもKKKの票が欲しくて、KKKに加入したこともあったというから、これまた驚きです。1925年には、KKKはワシントンDCで大規模なパレードを行なったと言います。秘密結社だったKKKが表舞台に堂々とでてきたのですね。

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そんなKKKもいろいろ問題を起こしたり、1924年に移民法が成立し、移民の制限が行われるようになると、次第にKKKの移民排除という目的もうしわなれ、徐々に衰退していきます。

3 KKK第三期
 1960年代になると、三たびKKKはよみがえります。きっかけは公民権運動。KKKの活動は残虐さを極め、黒人の家をダイナマイトで吹き飛ばしたり、黒人を狙ったテロやリンチ事件が一年で100件以上だったとか。こうしたKKKによる犯罪事件に警察署長も見て見ぬ振りをしていたと言います。なぜなら警察署長も公民権運動に反対していたから。やりたい放題のKKKによる犯罪で有名なのが、1963年9月に起こった16番地バプテスト教会爆破事件、もう一つは1964年に起こったミシシッピ・バーニング事件。

まず、アラバマ州、16番通りバプテスト教会爆破事件は、KKKがバプテスト教会にダイナマイトを仕掛け、爆破したのです。バプテスト教会は公民権運動の拠点の一つでした。だからターゲットになったのです。この爆破事件で、日曜学校に来た二十名が負傷、そして黒人女子小・中学生4人が死亡しました。幼い子供の命まで奪ったということで、この事件は世間から大いに非難されました。

ミシシッピ・バーニング事件は、黒人一人と白人二人の公民権運動の活動家が何者かに殺されてしまったのですね。三人はリンチの末、銃殺されてしまったのです。その時上がった容疑者は十八名。その容疑者たちはセールスマンとかドライバーとか牧師とか職業はさまざまでしたが、十八名全員KKKの構成員でした。十八名の犯行をめぐって裁判も行われましたが、陪審員は全員白人。アメリカは陪審員制度(✳︎1)を行なっていたので、これは黒人にとって非常に不利でした。裁判官による冷静な判決が下せません。18人中、11人が無罪、有罪になった7人も懲役3年ないし10年という軽い罪でした。殺人罪には至らなかったのです。つまり黒人と、その黒人の味方をしたから殺されたのだ、自業自得だという言い分でしょう。ひどい話ですが、これが1960年代のアメリカの現実でした。

しかし、神様はいるのですね、2005年にミシシッピ・バーニング事件の容疑者たちが改めて裁かれたのです。エドガー・レイ・キリンという容疑者の一人が過失致死罪の罪で60年もの懲役が裁判で決まったのです。キリンは1964年の裁判では陪審員がかばって無罪だったのに、それが一転して有罪になったのです。アメリカも変わったのですね。
1964年には公民権法が成立、1965年には(黒人への)投票権法成立、21世紀にはライス元国務長官やオバマ元大統領と黒人の政治家が次々と活躍し、KKKは衰退と思いきや、21世紀になってまた別の白人至上主義団体が出てきております。KKKも解散した訳じゃないし。差別問題をなくすのはまだまだ時間がかかるようです・・・

*この記事は「ダークサイド・ミステリー」を参考にして書きました





✳︎1 陪審制度は,有罪かどうかは民間から任意に選ばれた陪審員が決め,有罪の場合にどのような刑にするかを裁判官が決めるもの。

前回の記事で、テニアン島のテニアンスクールの話をしましたが、その続きを。

「人と人が直接に知り合っていれば憎しみは生まれません。お互いの人間的な関係がない時に人は3万フィートの上空から平気で人々の上に爆弾を落とせてしまうのです。それがまさに戦争の悲劇なのです」

このセリフは爆撃機に乗り、日本本土を無差別爆撃を行った、ある兵士が語った言葉です。彼は命令されるまま、テニアン島にある基地を飛び出し、日本の都市部への爆撃を行いました。任務が終わってテニアン島に帰還して、爆撃機に乗っていた乗組員たちが、立ち寄ったのがテニアン島にあったテニアンスクール。テニアンスクールには日本人捕虜の子どもたちがたくさん。子どもたちの無邪気な笑顔を見て、兵士たちも心も和みます。そして一緒にスポーツをやったり、パーティーをやったり楽しんだといいます。爆撃で殺したのも、今目の前にいる子どもたちも同じ日本人。だからこそ、冒頭の言葉を述べた兵士は苦しんだのです。爆弾を落としている自分と子どもたちを可愛がっている自分の矛盾に苦しんだ兵士たちは少なくなかったのですね。さまざまな事情で戦争になってしまったけれど、同じ人間同士ってことですね。

今、ウクライナが大変なことになっておりますが、冒頭の兵士の言葉が響きますね。

*この記事は「映像の世紀」を参考にして書きました。

戦時中、日本は鬼畜米英のスローガンの元、敵性語ということ英語が使われなくなりました。野球であれば、「ストライク」を「よし一本」、「アウト」を「ひけ」という具合に。これは政府が国民に命じたわけではなく、マスコミのキャンペーンから始まって、それがいつの間にか英語を使っちゃいけない空気になったのですね。それは教育の場にも及び、学校の英語の授業のコマ数が減らてしまったのですね。エリートとか、海軍とか英語を普通に使っていたようですが、基本的には英語を使ったものは非国民扱いでした。

孫子に「敵を知り、己を知 れば百戦危うからず」という言葉があるように、戦争に勝ちたいのなら、相手のことを知る必要があります。外国語を学ぶということは、外国の文化や習慣などを学ぶことでもあり、相手を知ることが勝つためにも大事なのですが。

一方のアメリカの方は日本語を禁じるどころか、日本の文化を簡単にまとめたドキュメンタリー映画を作ったり、日本語の研究をしていたというのです。アメリカ海軍は対日諜報戦に勝つために、日本語学校まで作って、日本語を操る情報士官、いわばスパイのような士官を育成しました。そうした人たちを日本語情報士官と言いました。今でこそ日本語がペラペラなアメリカ人は珍しくなく、僕なんかよりも日本の文化に詳しくて恥ずかしいくらいなのですがw、この時代、日本語を喋れるアメリカ人は全米でも50人程度。だからこそ、日本語養成学校が必要になったのです。そうしてできたのが海軍日本語学校(コロラド大学ボルダー校)。学校の講師は強制収容所に収容された日系人から選ばれました。

日本文学研究の第一人者のドナルド・キーンさんも実は、この学校のご出身。若かり頃のキーンさんは『源氏物語』を読んで日本に興味を持って、それで入学したいと志願されたそうです。この学校では、文法を教えず、授業では、ひたすら日本語を使い、耳から聞いた言葉を読んだり、書いたりして日本語を叩き込まれたと言います。それも1年間で。漢字はもちろん、漢字の旧字体や崩し字まで叩き込まれたというから驚きです。海軍日本語学校のある生徒は「頭脳が優れたI.Qの高い人たちで、言語習得力のある人たちだった。漢字はとても難しかったからね。」とこぼしたほど。そりゃ漢字の旧字体や崩し字まで勉強したんだもの。日本人の僕だって旧字体や崩し字なんて書けないしw

でも、語学を学ぶのに文法を教えないというのは、いい教育法だと思う。

僕はラジオの「基礎英語in English」(全て英語、日本語一切なし)とか「英会話タイムトライアル」とかで英語を学び直しているのですが、文法を学ぶだけでは頭になかなか入らないし、何より退屈なのですね。逆に耳からどんどん英語を聞いて、そして講師の先生が言った英語のフレーズを真似した方が、覚えるし楽しいのですね。最近では字幕で『ゴースト・バスターズ』とか『グーニーズ』など昔見た映画を字幕抜き、日本語吹き替え抜きでYouTubeで見たり、洋楽を聴いたり歌ったりしてますね。初見の映画はともかく何度もみた映画なら、役者がしゃべる事細かなセリフはわからなくても、あらすじは知っているので、こんなことを言っているんだろうなってなんとなく想像ができるし、その方が耳が鍛えられますね。洋楽は英語の発音を学ぶのはいいですね。カラオケで洋楽歌うのも楽しいし。

おっと、話が脱線してしまいましたねw失礼。こうして海軍日本語学校を卒業し、情報士官になった人たちはボルダー・ボーイズと呼ばれました。彼らは太平洋艦隊司令長官ニミッツの配下となり諜報活動を行なったといいます。例えば1943年5月のアッツ島の戦いでは、ドナルト・キーンさんも派遣され、戦場で押収した日記や文章の翻訳をして、情報収集をしたと言います。日記には自分の胸の内、家族への想いも綴られていました。それを見たドナルト・キーンさんはこう思ったそうです。

「アメリカ軍は日本人を自分達と全く別の狂信的な民族と思い込んでいました。しかし日記を読んでいくうちに我々と変わらない。同じ人間だったということがわかってきたのです。」


日記や文章の翻訳だけでなく情報士官は捕虜となった日本人の尋問にも当たりました。もちろん捕虜から日本の情報を引き出すためです。そんなアメリカ側の思惑を知ってか知らずか、日本人捕虜たちは尋問にはなかなか素直に応じようとしない。なぜなら、当時の日本は捕虜になることを恥だと叩き込まれており、中には殺してくれと頼む人もいたほど。それで、情報士官は日本語で、日本人捕虜の心を和ませたりしたと言います。もちろん、日本人捕虜の中には、聞いてもいないのに日本軍の上官の悪口とかをベラベラしゃべったものもいたと言いますが。

また、捕虜の中には幼い子供たちも少なくありません。そうした子供たちを殺すわけには行かないので、情報士官のテルファー・ムックさんは子供たちのためにマリアナ諸島のテニアン島に学校を作ってあげたのですね。テニアン・スクールといい、1944年の11月に開校しました。授業は日本語で行い、英語や体育の授業まであったと言います。英語の授業はムックさん自ら教鞭にたったとか。

そこの元生徒さんは「日本の軍国教育下では敵国の悪口しか教えられなかったが、この学校は違った。ムック先生も優しかった」というほど。ちなみにテニアン島には広島や長崎に落とされた原子爆弾を収納されたピッドがあったのですね。このテニアン島の飛行場からB29が飛び立ち、原爆が落とされたのですね。奇しくも今日は広島に原爆が落とされた日ですね。その飛行場から程近いテニアン・スクールの子どもたちはいつもと変わらぬ日常だったといいます。

戦後、ボルダー・ボーイズは退役し、それぞれ名分野で活躍しました。テルファー・ムックさんは戦後はアメリカにて法律家、聖職者を歴任。1991年に初めて日本にも訪れ、かつてのテニアン・スクールの生徒たちと46年ぶりの再会。ムックさんは「日本語はほとんど忘れてしまったが、皆さんのことは覚えています」と同窓会で、元生徒たちに語りかけました。テニアン・スクールの子供たちは戦後は沖縄にわたりました。そして、教え子たちの中には教師になった人もいたといいます。教え子たちは、沖縄の復興を担う若者たちを育てたのですね。ムックさんが生涯大事にしていたのは、日本人形。この日本人形はテニアン・スクールの生徒さんがかつて作ったもの。そのムックさんも2008年に亡くなられます。

ドナルド・キーンさんは日本文学の研究を行いました。キーンさんは京都大学の大学院に留学し、永井荷風や谷崎潤一郎、三島由紀夫など多くの作家と親しくなったのです。さらにキーンさんは東日本大震災で東北の人々たちの心に感動し、日本国籍を取得。鬼怒鳴門と名乗ったのです。キーンさんは日本人となって日本人として死ぬことを選んだのですね。そしてキーンさんは2019年にお亡くなりになりました。

※ この記事は映像の世紀を参考にして書きました。

10月23日。ソ連のフルシチョフが動きます。ソ連側のワルシャワ条約機構軍が、いつでもミサイル発射できるよう臨戦体制を敷いたのです。キュバーでもアメリカからの攻撃に備えるべく、ミサイルの配備が急ピッチで進みました。その頃、アメリカ本土はパニック状態でした。前日のケネディの中継を見た人々は買いだめに走り、どのスーパーも品切れが続出。震災やコロナの時もそうでしたが、人間パニックになると、同じような行動に走るのですね。この日の夜、ケネディは弟に今の心境を吐露します。

ケネディ「地獄みたいな状況だと思わないか?だが他に道はなかったのだ。フルシチョフがここまでやる以上、他に選択肢がなかった」と。ロバートはただ「そうですね」としか言えなかった。

10月24日、いよいよ海上封鎖が始まったのです。アメリカはミサイルを配備、いつでも戦争ができる状況にしたのです。

10月25日、ニューヨークの国連本部。アメリカの大使はソ連に揺さぶりをかけます。ズバリ「キューバに攻撃用の核ミサイルを配備しましたか」って。しかし、ソ連大使ははぐらかします。そこでアメリカ大使はキューバの航空写真をここで見せます。その写真には建設中のミサイル基地が映ってます。ソ連大使もタジタジ。国際社会もアメリカに味方します。

10月26日、この日の午後、ソビエト大使館からスカルという人物に電話が入ります。会ってほしいと。スカルはアメリカの記者で、フルシチョフとも面識があるのですね。それで、ソ連の大使館職員がスカルにこう言います。「キューバに侵攻しないことを約束するなら、ソ連はキューバからミサイルを撤去する意思がある」と。スカルは「私は一記者に過ぎないが、議論に値する提案」と答えたそうです。スカルの得た情報は、すぐケネディに伝えられました。実は、ケネディの元にもフルシチョフから書簡をもらっていたのです。その内容はスカルの話と同じでした。ケネディは確信した。和解できると。

10月27日、この日、ケネディにとって最悪の事態になります。のちに暗黒の土曜日と言われます。この日、フルシチョフから書簡が届いたのです。それはトルコに配備されているミサイル撤去の要求。これを飲むことはできません。さらに、Uー2偵察機がソ連軍に爆撃されたのです。だが、これはフルシチョフが命令したのではなく、現場のソ連兵が暴走したのです。これにはルメイも激怒。反撃をしろと言い出します。アメリカは大統領の指示があれば、いつでも戦争ができる臨戦体制に入りました。まさに核戦争の危機。それに国防長官のマクナマラに「待った!」をかけます。実は第二次世界大戦中、マクナマラはルメイの部下でした。日本の無差別攻撃をマクナマラは命令のもと、行いましたが、のちに悔やんだのです。「勝つためなら、一晩で10万の市民を、焼き殺していいのか。」と。あの悲劇を繰り返してはいけないと。ケネディも決断をためらいます。

同じ頃、ソ連も臨戦体制でした。封鎖線付近には潜水艦。しかも核魚雷を搭載。アメリカ戦闘機はその潜水艦を発見。事前の取り決め通り、浮上を求める合図として演習用の爆雷を投下、しかし、ソ連の潜水艦の艦長は、浮上を促す合図と受け止めず、アメリカ空軍の攻撃と見做し、反撃の準備をしました。しかし副官庁がなだめて、「これは浮上せよ」という合図だと言ったそうです。ギリギリのところで核魚雷の発射は回避されました。アメリカ統治下の沖縄にあるミサイル発射基地にも発射命令が下っていたのです。沖縄に核兵器があった!?今考えると恐ろしいですね。結局、その発射命令も誤報だったとわかり、ミサイル発射はなしになったのです。よかったですね。

その夜、ソ連から要求されたトルコのミサイル撤去要求をケネディは飲むとソ連側に報告。これはケネディの決断です。

そして10月28日。ソビエト政府はキューバでの武器を解体。そしてキューバ周辺に滞在するソ連軍に国に帰れと命じたのです。ケネディはホッとしたでしょう。教会に行き、神に感謝の意を捧げたのです。悪夢の13日間はこうして終わりました。アメリカも約束通り、トルコに配備されたミサイルを撤去。

「かつて世界大戦は、些細な出来事と誤った判断の積み重ねて加速し、世界に悲劇をもたらした。私たちは正しい情報と確固たる意志で行動しなければならないのだ」と、のちにケネディはキュバー危機の教訓を語っています。

しかし、ケネディ大統領は翌年の11月22日、テキサス州のダラスで暗殺されてしまいます。一方のフルシチョフも失脚、アメリカに譲歩しすぎたためだと言われております。前回の記事でも出てきた、アメリカのスパイ、オレグ・ベンコスキーは処刑されてしまいますが、アメリカは彼に「HERO」というコードネームをつけます。命懸けで情報を送り続け、核戦争の危機を救った人物だと称えたのです。

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