history日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: アメリカの歴史




ルイ・ヴィトンのかばんが浮力があって、水に浮くって話を知ったのは「金田一少年の事件簿」。その話が本当かどうか、結論から言えば何とも言えません。


あくまで「金田一」に出てくる知識ですが、140年以上前、旅行の移動手段といえば、汽車か船がメインで、飛行機なんてなかった。それで、水難事件にそなえて、ルイ・ヴィトン社は、旅行トランクが水に浮くように設計したといいます。仮に船が転覆しても助かるように。昔は転覆事故が多かったといいますからね。ネットで調べると、タイタニック号の沈没の際、ルイ・ヴィトン製のトランクを持っていた乗客は助かったといいます。沈没から数十年後たって、沈んでいたヴィトンのトランクを引き上げたところ、トランクケースの中に、一切水が入っていなかったといわれておりますが、あくまでウワサ。

ウワサとはいえ、ルイ・ヴィトンのトランクは水に浮くって評判になったのですね。それがマジかどうか別にして、一度そういうウワサが広まると買ってみようって人もいるのですね。そして、21世紀初頭、顧客からの要望の多かった鞄の軽量化を名目に生地の製法を変更し、現在製造するトランクは浮かなくなったといわれております。だから、ルイ・ヴィトンのトランクが本当に水に浮いたかどうかは、なんともいえないのです。

僕もユーチューブで、実際にルイ・ヴィトンのトランクが水に浮くかどうか実験する動画を探したのですが、全然見つかりません。ルイ・ヴィトンのトランクが高いうえに、現在販売されているものは水に浮かないっていいますし。



この間、Amazonのビデオで久々に「グレムリン」見ましたが、懐かしいですね。子供の頃に見た時は、怖いなって思ったけれど、大人になってみてみると、以前ほど怖いなって思わなくなった。「チャイルドプレイ」だとか「シャイニング」とか、「グレムリン」よりもっと怖いホラー映画やサスペンス映画を見慣れた後となると「グレムリン」が取り立てて怖いとは思わなくなったですね。むしろ、ちょっと怖いところもあるけれどコメディー色や風刺も込められた映画だなって。


さて、この映画に出てくるグレムリンという化け物のモデルが日本だと言われておりますが、僕は半分は当たっているかもしれないが、半分は違うと思います。

まず本題に入る前に、「グレムリン」のあらすじを。主人公ビリーの父親が、息子のビリーのためにチャイナタウンにある骨董品屋でモグアイという謎の小動物を買おうとします。この小動物は、けむくじゃらで耳が異様にデカく、猫のような猿のようなそんな生き物です。しかし、骨董屋の主人は売り物ではないといって拒否します。しかし、骨董屋は金に困っており、主人の孫がこっそり、ビリーの父にモグアイを売ってしまいます。主人には内緒で。

父からモグアイを渡されて、ビリーは大喜び。ビリーはそのモグアイに「ギズモ」って名前をつけます。意味は、新製品。生き物に製品って名前をつけるのも変な感じですが。そのモグアイを飼うのは大変難しく、三つの決まりを守らなくてはなりません。一つは水をかけない。水をかけるとモグアイの数が増えてしまう。二つ目は、光を当てない。光が弱点。特に日光に当たるとモグアイは死んでしまいます。三つ目が1番重要で、深夜の12時過ぎに食べ物を与えてはならない、するとモグアイはグレムリンという鱗だらけで半魚人のようなおぞましい生き物に変化し凶暴化してしまう。結局、ビリーたちは決まりを破り、モグアイの数も増やしてしまい、挙句に狂暴化させてしまい、人間に危害を与えるようになるのです。



まあ、グレムリンが水を浴びて、どんどん数が増えていく有様は、ヒッチコックの「鳥」と共通するものがあるなって。グレムリン騒動はクリスマスに起こった事件として描かれているので、この映画を見るのは、本来クリスマスの方がいいかもしれない。

で、改めて「グレムリン」見てみると、映画にフッターマンというおじさんが出てきて、たびたび外国製の電化製品やら車を批判し、車は国産つまりアメリカ製に限ると言っているのですね。フッターマンは、かつては第二世界大戦の英雄だったが、現在は失業中という設定。

この映画が上映されたのは1984年。当時のアメリカは貿易赤字に苦しんでいたのですね。また、財政的にも赤字で、双子の赤字という状況だったのですね。ベトナム戦争で莫大なお金を使った挙句に、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻。米ソ間の軍事的緊張が高まっている状況。軍備にかけるお金がばんばん膨らみ財政的に苦しくなる一方。

かたや、日本は莫大な貿易黒字だったのです、その原動力は1970年代の石油危機を乗り越えたことにありました。日本は省エネ技術や太陽光発電などの技術革新で、石油危機を乗り越えたのです。この結果、燃費に優れた日本製の車や、信頼性の高い日本製の電気製品が世界を圧巻したのですね。安くて性能も良い日本の車や電気製品は人気が高かったのです。また、日本は防衛費にお金をかけなくても良かったので、防衛費に回すお金を経済の発展に回すことができたのですね。それで、1981年の日本のGN Pは世界の10%を占めるほど。しかし、こうした経済の発展はアメリカの強い反発を生むのですね。日米の貿易摩擦です。日本の輸出攻勢はアメリカの産業に大打撃を与えるのです。

アメリカの自動車業界では30万人もの労働者が解雇され、日本車の非売運動まで発展します。「グレムリン」のフッターマンもそうした状況で工場を解雇され、外国産とくに日本産の電化製品には嫌悪感を抱いていたのですね。

またギズモもアメリカの国旗を好み、おまわりさんから「アメリカびいきなんだな」って言われるほど。それくらい、日本とアメリカの関係はいいとは言えなかったのですね。

そして、アメリカは双子の赤字状況を脱却すべく、1985年にプラザ合意を行いました。これは日本や西ドイツ、イギリスいった国々の首脳をアメリカのプラザホテルに集め、アメリカのドルの価格の是正を求めたものですが、槍玉に上がったのが日本との間の貿易赤字。結局、日本の車や家電商品が安いから売れるわけで、ドルの価格が下がり、いわゆる円高ドル安状況になれば、日本の車や家電商品が高くなる、それで日本製のものが売れなくなるのです。円高ドル安ってちょっとわかりにくいですが、これはアメリカ人の立場から見て、円の価格が高く、ドルの価格が安くなったという状況。円、つまり日本のお金の値打ちが高くなれば、日本製のものの値段も上がってしまうってことですね。

そうなると、困るのは日本。車や電気製品がアメリカで売れなくなったのです。円高になると、輸出に頼っている日本は困ってしまうのです。それで好景気に沸いた日本も円高不況になってしまい、日本の工場が海外に出て行ってしまったりといろいろ大変なことになって、それからバブル経済を生み出すことになるのですが、それ以降の話はまた別の機会に。

グレムリンが上映された1984年はプラザ合意の一年前ですね。グレムリンの映画に出てくる、グレムリンの正体は日本じゃないかとも言われておりますが、確かに当時のアメリカ人にとって、当時の日本人は小憎たらしい悪魔のような存在かもしれない。しかも80年代といえば、先の戦争から40年しか経っておらず、日米両国、お互いに戦争の記憶も残っている状況。両国の指導者たちも戦争を知っている世代。

でも、グレムリンは知日派のスピルバーグも関わっているし、この映画のダンテ監督も日米の対立とか、そうした話を盛り込みつつも、自然への畏怖を忘れ、お金儲けに走る人間への警告をしたかったのかもしれない。映画でも、骨董屋の主人が、人間は愚かで自然の摂理を踏みにじってまで、幸せを得ようとすると言ってます。

実際、アメリカでも環境問題に関心を持つ人が増えたのですね。温暖化、それからフロンガスによるオゾン層破壊が問題になったのもちょうどこの頃。

また、1990年に「グレムリン2」が上映されます。2の方がコメディ色が強く、マネーゲームに走り過ぎて、人間としての情だとか、自然への畏敬を忘れてしまったことへの批判が1よりも込められておりました。むしろ、2のほうがダンテの言いたかったことが込めれているなとおもうし、僕も2のほうが好きですね。グレムリン2には遺伝子をいじくって新しい生物を作り出す研究所が出てくるのですね。ちなみに「グレムリン」は小説にもなっているのですが、そこではモグワイは科学が発展した星で科学者が人工的に作り出した生物だという設定なんですね。それで科学者がモグワイを地球に送り込んだって話。

そして、守銭奴の象徴が、クランプという富豪。クランプはニューヨークの王者と呼ばれる人物で、不動産を中心にアメリカの経済を動かすほどの人物ですが、一方で偏屈で人間性に欠けている面もあった。グレムリン騒動で彼もラストで更生するのですが。そのクランプのモデルが、トランプ元大統領。トランプは日本では、大統領になるまで、それほど知られた人物ではなかったのですが、アメリカではこの頃からすでに有名人で、評判もあまり良くなかった。「バックトゥザフューチャー」に出てくる悪役のビフもトランプがモデルだと言いますし。横暴でモラルに欠ける人間と看做された人物がのちにアメリカの大統領になるとは。いろいろ考えさせられます。









シャイニング (字幕版)
シェリー・デュバール
2014-02-24



シャイニング(上) (文春文庫)
スティーヴン・キング
文藝春秋
2015-04-17



1 シャイニング
「シャイニング」って映画ご存じでしょうか?キューブリック監督の作品で1980年に発表。ジャックニコルソンが出演で、コロラド州の山中にあるオーバールック・ホテルというホテルが舞台。冬の間だけ、アル中気味の小説家とその一家が管理人として、そこに寝泊まりするのですが、小説家がホテルに居ついてた悪霊にとりつかれ、自分の家族を殺そうとするというプロットです。最初は家族思いの優しいパパが次第に豹変し、悪霊にそそのかされ殺人鬼に変わっていく様子が怖いんですよ。「RED RAM」というフレーズが出てきますが、これは英語の「MARDER」(殺人者)をひっくり返したもので、「金田一少年の事件簿」にも出てきます。



その小説家をジャックニコルソンが演じられているのですが、一言でいえばすごいの一言。鬼気迫る演技で、身の毛がよだつほどの殺人犯を見事に演じられておりました。ジャックニコルソンの演技力は非常に定評があって、僕は彼が出演している映画はたいていみておりますが、「シャイニング」におけるジャックの演技は本当に印象に残っております。ジャック演じる小説家の「おこんばんわ」と言って家族を襲うシーンが特に印象的でした。

「おこんばんわ」の元ネタは、あくまで日本のコメディアンのトニー谷のセリフで、映画では「Here's Jonney」って言っておりますね。この「Here's Jonney」にも元ネタがあって、アメリカの長寿番組「Tonight Show」の司会ジョニー・カーソンが登場するときに使われていたお決まりフレーズだそうです。同じコメディアンの決め台詞ということで、映画の翻訳者の方は「おこんばんわ」というセリフをチョイスしたのかなって。

この映画の原作者は、スティーブン・キング。彼はホラーものやサスペンスものを多数書いていて、彼の作品は、「キャリー」だとか「ミザリー」だとか結構映画化されております。かといってサスペンスやホラーものばかりではなく「グリーンマイル」のようなヒューマンドラマや、「スタンドバイミー」のような青春ものも書いてます。「スタンドバイミー」を初めてみたのは僕が中学の頃ですが、その頃は原作者が誰だか知りませんでした。僕が大人になって、スティーブン・キングが原作だと知ってずいぶん驚いたものです。もっとも、「スタンドバイミー」に出てくる少年たちは、死体を探しに冒険をするというプロットですから、ある意味、キングらしいなって。

ちなみに、キングはキューブリック版の「シャイニング」が大嫌いです。「私の小説は熱いが、映画は冷たい。」って批判してました。原作では小説家の息子ダニーという少年が主人公で、「シャイニング」と言われる特殊な超能力を使うという設定。父である小説家は、悪霊にとりつかれながらも、最後まで父としての良心が残っているというもの。映画版ではジャック演じる小説家が主人公で、完全に悪霊にとりつかれてしまっている。それにキューブリック版に出てくるダニー少年は、予知能力があるものの、原作ほど超能力を使わない。あまりに映画と原作と違うというのでキングは怒ってテレビドラマを作ったほど。キューブリックの映画、普通に面白いというか、見ごたえあると思うが。

ちなみに「シャイニング」には続編があります。「ドクター・スリープ」という作品で、大人になったダニーが主人公で、ダニーもまた父の短気な性格とアル中気質は受け継いでいて、なぜか、惨劇の起こったあのホテルに戻るというストーリー。「ドクター・スリープ」も映画化されましたが、この映画は原作とキューブリック版「シャイニング」をうまく融合したといわれ、キングもこの映画を大絶賛したとのこと。



(RED RAMが登場する話。この作品でも「シャイニング」が言及されている)

シャイニング 特別版 [DVD]
スティーブン・ウェバー
ワーナー・ホーム・ビデオ
2013-06-26


(ドラマ版のシャイニング)

ドクター・スリープ(吹替版)
レベッカ・ファーガソン
2020-09-07



2 キングが書いたきっかけ

 キングがこの作品を書いたきっかけは、キングが小説を書いている最中に、彼の子供が書き上げた原稿にいたずらをしたようです。それでキングは一瞬だが殺意を覚えたといいます。その時の体験がもとになり「シャイニング」が生まれたと。

僕は小説なんて書いたことがないから知らないが、書いている最中はイライラするようですよ。アイディアもなかなか浮かばないし、かといって自分が書きたいものを自由にかけるかといえば、そうでもなく、せっかく小説を書き上げても編集者の意向に沿わなければボツ、それで売れなければ意味がない。「シャイニング」と同じような話は、日本にもあります。井上ひさしの元の奥さんが暴露本を書いたのですが、彼の奥さん曰く「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」という具合にすさまじいDVにあったといいます。ひどい話だなって。それでも直木賞を受賞するまでは、普通にいい人だったのに、受賞して有名になってから彼は変わったといいます。売れて、いい気になったのかな。

僕は井上ひさしといえば温厚なイメージで、彼の小説もヒューマニズムにあふれていただけに非常に驚きましたね。何か芸術的なものを生み出すというのは実は大変なことで、肉体的にも精神的にもまいってしまうんだなって。その生みの苦しみを人によっては誰かにぶつけてしまうと。

一方、僕が尊敬してやまない藤子・F・不二雄は、その苦しみを弟子どころか家族にぶつけなかった、だから自分の身に来てしまい、62歳という短い生涯だったのかなって。





3  インディアンについて


映画では、ホテルのあった場所はもともとはインディアン(※1)の墓地があったところで、建築中もインディアンが襲来したとなっております。そうしたインディアンの呪いがこのホテルに乗り移ったのかなって。それと、悪霊にとりつかれた小説家がバーボンを飲む際、「酒は白人の呪いだ、インディアンはしらん」ってセリフもでてきます。僕も知らなかったのですが、バーボンってトウモロコシ🌽が原料なんですってね。白人がインディアンからトウモロコシ畑を奪い、さらにバーボンを白人は発明したと。そんな血塗られた歴史があったのですね。さらに小説家が家族を殺そうと手に持った武器は斧。🪓斧はインディアンの象徴です。ちなみに、この設定は映画のみで、原作にはない設定です。でも、アメリカにおいて白人はインディアンにひどいことをしましたからね。映画を通してキューブリックはそのことを訴えたかったのかもしれない。


たとえば、1890年におきたウェンデッド・ニーの虐殺事件。それはベンジャミン・ハリソン大統領(※2)の在任中に起こったのです。ハリソン大統領の祖父はウィリアム・H・ハリソンといいましてインディアンと戦った人でアメリカの9代大統領でありました。つまり、ベンジャミン・ハリソンは世襲大統領の走りみたいな人だったのですねえ。

ハリソン大統領の時に、ノースダコタ、サウスダコタ、モンタナ、ワシントンという4つの新たな州がうまれました。いづれも白人たちにとって未開の土地で、これらの土地に次々と白人の入植者がやってきたのです。当然、先住民であるインディアンは土地を奪われ、住み家を破壊されたのです。とくにスー族は多くの居留地に分けられ約4万5000平方キロの土地を失ったのです。

絶望したインディアンたちは、ゴースト・ダンスをはじめました。ダンスを踊れば先祖の霊がよみがえりバッファローの群れももどり白人が消滅すると信じたのです。それを白人たちは不気味に思い、インディアンの反乱の兆しだと考えたのです。軍部は政府に「インディアンが俺たちに反抗しているぜ」って文書を送ったのです。

ハリソン大統領は報告を受け激怒。約5000人の軍隊を現地に派遣。その数、常備軍の4分の1という大規模な数。そして、連隊のリーダーはインディアンたちに踊りを今すぐやめろと要求。そして指揮官は銃殺を命令。悲劇は起こりました。銃声が止まり、大砲の弾がつきるまでに数百人のインディアン老若男女問わず殺されたのですね・・・ハリソン大統領はインディアンの命よりも入植者のほうが大事だったのです。それどころか、ハリソンは虐殺をした白人20人に名誉勲章を与えたというから、あきれた話です。

このインディアン虐殺はあくまでもアメリカにおけるインディアン差別問題の一つにすぎません。長いことインディアンはアメリカ人とみなされず、アメリカの進歩を妨げる存在だとずっと思われてきたのです。実際、西部劇とか映画でもインディアンは悪役として描かれておりますし。






※1 インディアンという言葉は現在では差別用語とされ、ネイティブ・アメリカンと呼びましょうって、現在アメリカで提唱されているが、当のインディアンたちは白人による差別の歴史に蓋をしているだけと反発。
※21889年から1893年まで在任

ウォルド・ディズニーと言えば、ディズニーアニメならびにディズニーランドをつくった人として、人々に夢と感動を与える人だというイメージがあります。しかし、ウォルト・ディズニー自身、そんな夢と感動ばかりを与えてばかりの人ではありません。彼は戦時中は戦争に積極的に協力したし、かなりの反共主義者でもありました。

1941年にディズニーの会社で従業員がストライキを起こし、スタジオが壊滅的な状況に陥ったのです。それでウォルト・ディズニーはますます保守化し、共産主義の弾圧に関与し、共和党の最も反動的な分子とも組んだとか。

またウォルト・ディズニーの人となりも、交際を好まず、複雑で気分屋で、本音を明かさず、「非常に理解しにくい人物」であったと。1920年後半から彼に仕えたベン・シャープスティーンは「彼は決して自分の考えを明かそうともしない・・・私は30年間、彼と働いたが、最後には彼のことがますますわからなくなった」と語るほど。

もちろん、ウォルト・ディズニーもはじめから従業員に対して冷淡な人物だったわけではありません。ウォルトは、お金というものを軽蔑していたのです。ディズニーのスタジオを実質的に経営していたのはウォルトの兄であるロイ・オリヴァー・ディズニーでした。ロイはある会議で映画の製作費がかかりすぎるとウォルトに不満をもらしたのです。するとウォルトは怒って、「ロイ、ぼくは映画をつくってるんだ。金をつくるのは兄さんの役目だ」といったとか。また、ウォルトのスタジオの給与は業界でも最高水準だったといいます。


また、1939年ごろ、アニメ映画製作が忙しく、従業員も増えたこともあって、それまで使っていたスタジオ(※1)が手狭になったのです。それであたらしいスタジオをバーバングというところに移築したのです。スタジオの総面積は50エーカー、総工費は200万ドルもしたといいます。そのスタジオの外観は大学のキャンパスのようだったといいます。スタジオの設計の際ディズニーがこだわったのは、スタッフが義務感からではなく楽しみながら働けるようにでした。単調さを避け、気分転換を図るために各棟ごと各階ごとに色彩をかえ、陰気な工場の雰囲気を避けるために、様々な色合いのベージュ系のレンガを使用したといいます。庭には緑の芝生、ブナの木を植えたと。福利厚生も充実していて、建物の中には理髪店やインストラクター付きのスポーツジムまでありました。また、食堂やスナックもあり、従業員がサンドイッチや飲み物を注文すれば仕事場まで配達してくれたといいます。

また、このころのディズニーも従業員に対して気さくな態度で、食堂でも、ウォルトの兄であるロイと、スタッフが混じって一緒に食事をしたといいます。スタッフが庭の芝生で寝っ転がっていると、そこにウォルトが通りかかりました。「何寝てるんだ!、仕事をしろ」と言われることもなかったといいます。それどころか、スタッフはウォルトを呼び捨てにして「やあ、元気かい、ウォルト」と言ったほど。日本の企業では考えられませんね。するとウォルトは手を振り挨拶を返したといいます。

しかし、そんな幸福な日々は長く続かず、ウォルトとスタッフの関係も次第に悪くなっていったのです。従業員が増えたことで、一人一人に気軽に接する機会も減ったのです。かつては少数精鋭だったのが、新スタジオに移ってからは、スタッフの数も1200人になっていたのですから。スタジオが広くなり過ぎたことも災いでした。同僚と話をするのに階段の上がり降りをして、しかも秘書を通さなくてはならなくなったのです。またウォルトもだんだん秘書に囲まれて自室にとじ込もることがふえたのです。かつてはスタッフ全員の名前を憶えていたウォルトも、いまじゃほとんど交流がなくなった。

またスタジオが立派過ぎて、「カレッジ(大学)のような雰囲気がかえって耐え難く重苦しいものに感じるようになった」という意見も出たほど。そうして、スタッフとウォルトの間で溝が少しづつ広がっていき、あるアニメーターは「彼は人間が変わった。かってはスタッフとふれあい、一緒に汗を流していたが、バーバンク(新しいスタジオ)に移ってから、ボスになってしまった。専制君主になった」と。

そして、1940年代に入ると世界中に戦火が飛び交い、ディズニーのスタジオもその影響を受けたといいます。さらに、このころにリリースした『ピノキオ』や『ファンタジア』も不振で赤字。仕事は減る、製作費はかさむ。また、ウォルト自身も『ピノキオ』以降、アニメ制作への情熱も薄れたのですね。気さくな人間だったウォルトも名声を得たと同時に、他人が彼に何を求めているかと疑心暗鬼になってしまい、性格も以前より怒りっぽくなったと。そしてウォルトは無用と思う人物を解雇したのですね。さらに義理の姉のヘーゼル・スエールがうつ病を患たった時も給料カットしたといいます。それまでスタッフを大事にしていたのに。こうしたウォルトの仕打ちにスタッフたちも戸惑います。

かつては会議で自由な意見も飛び交っていたが、このころになるとウォルトの言うことをスタッフたちはオウム返し。あるアニメーターが、評判になったアニメについて特別賞与を求めたところ、ウォルトは「賞与をもらうとすれば、それは私だけだ」と突っぱねる。つまり、部下の手柄も、ウォルトの手柄。このころのウォルトは、ホワイト企業の社長からブラック企業の社長に陥ってしまったのですね。そうしたウォルトの態度にスタッフたちは組合を結成しました。

これに怒ったウォルトもスタッフの給与を削減、残業手当の廃止、職場への食べ物の配達廃止、昼休み以外はスタジオ内の喫茶店を閉鎖などの処置をとり「誠心誠意、労働に専念すべき」と断固たる姿勢を取りましたが、逆に火に油を注ぐ結果になりました。

そしてストライキが1941年5月29日に決行されたのです。朝からスタジオはお祭り騒ぎで、ストライキに参加したものたちはカラフルなプラカードを掲げ労働歌を歌っていたといいます。そして「ウォルト・ディズニー、恥を知れ!」と参加者は叫んだと。さらにストライキのために作られた看板にはピノキオの絵とともに「私を縛らないで」というメッセージが、さらにミッキーマウスの絵には「わたしたちは人間なのか、ネズミなのか」と書かれていたのです。左派系の新聞には「労働史上最もユニークなストライキ」と報じられたほどでした。

それでもウォルトにとっては裏切りにしか思えず、兄のロイまでも「共産党員が入り込むまでは、スタジオに労使紛争はなかった」と強調。ウォルトは本来政治には興味がないのですが、「ストライキの原因は待遇の問題ではない、共産主義である」と言い出す始末。ストライキに参加したものをウォルトは解雇。ストは7月30日になって、連邦政府の仲介もあって、やっと終焉しましたが、ウォルトの受けた傷は大きく、「わたしは解決しなければならなかった。しかし、負けたのではない。私は怒っている」と。スト以降、ウォルトはますます人間不信になり、スタッフたちはみなウォルトを恐れたといいます。ウォルトの靴音が近づき、せきばらいが聞こえると、アニメーターたちはあわてて机に向かったというありさま。

とくにストライキの首謀者だったアート・バビットに対しては深い恨みを持っていたのです。アート・バビットは優秀なアニメーターで、『白雪姫』や『ピノキオ』、『ダンボ』にもかかわっておりましたが、ウォルトに反発して、ストを起こしたのですね。一度はストを理由に解雇されたのですが、スト後に再び復帰したのですが、ウォルトはバビットのことを快く思わず、バビットが働いていたかつてのオフィスには新しいスタッフが入り、バビット自身も大した仕事も与えられず、いわゆる窓際族にされてしまったのです。ある日、再びの解雇通告がされたのですが、これにはバビットも怒って不当解雇を主張。バビットは優秀なアニメーターということもあって、結局バビットの主張が通り、給与も解雇された時期の分もバビットに払いなさいということになったのです。しかし、ディズニーのスタジオの雰囲気は悪くなる一方。そんなギスギスした雰囲気の中、名作『ダンボ』が製作されました。




※1 ハイペリオンというところにあった

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(リンカーン大統領。ウィキペディアより)

リンカーン大統領とは黒人奴隷に反対し、奴隷解放をした偉大な大統領として語られております。かつては英語の教科書にも彼の伝記が載ってました。ちなみに僕の使っていた英語の教科書ではキング牧師の伝記が載っていました。しかし、実際のリンカーンはそうでもなかった、むしろ国益のため、冷徹な計算で黒人奴隷に反対していていたのです。



リンカーンの就任当時、アメリカは南部と北部が仲が悪かったのですね。北部が工業中心なのに対し、南部は綿花などのプランテーション農業がメイン産業。農業には人手も必要なので、黒人奴隷が必要だったのです。そして南部が連邦を離脱、北部にケンカを売ったのですね。『ガンダム』に例えれば、地球連邦からジオンが独立運動をおこしケンカをうったようなものです。

北部に対して南部は戦力的に優位でした。南部が優秀なモビルスーツを持っていた?まさかw南部が北部に対して優位だったの理由の一つが奴隷制度。南部は奴隷たちをこき使って富を得ていたのですね。戦争は経済力があるほうが強い。また、いざとなったら奴隷たちを兵士として戦地に送り込むこともできる。リンカーンは北部と南部の戦争が泥沼化するなかで、考えました。奴隷制度を反対したら、南部に勝てるのではないかって。歴史の教科書では、奴隷解放のためにリンカーンは南部と戦ったみたいな風に描かれておりますが、そもそも北部の戦争の目的は奴隷解放ではありません。連邦の維持です。

実際、リンカーンは周囲の者に対しこう言っていたようです。

「奴隷を解放して連邦を救えるならそうする。解放せずに連邦を救えるなら、そうする」って。もちろん、リンカーンは奴隷制度に反対でした。ただ、かれは人道主義者でも平等主義者でもなかったのです。国のために何が必要かを常に考えていたのです。黒人を解放すれば南部は大混乱になる。そして黒人を連邦軍に加えれば北部は勝てるとリンカーンはおもったのです。また、奴隷制度を残しておくと、あとあと連邦にとって面倒なことになると判断したからリンカーンは反対したのです。奴隷制度を温存すれば、また南部が北部にやらかすかもしれない。リンカーンが奴隷解放命令について閣僚と協議を始めたのが1862年の夏のことでした。リンカーンはその時、議会に言いました。

「政治に必要なのは、よりよい想像ではなく、よりよい行動だ」

そしてリンカーンは戦争のさなか、南部に対して連邦に戻らなければ、奴隷を解放すると宣言し、南部が連邦に戻る決断をするまで100日待ってやるといいました。これには南部も反発。南部は結局、北部とこのまま戦う道を選びます。リンカーンは南部が反発することはわかっていたのですが、えて100日の猶予を与えたのですね。

そしてリンカーンは奴隷解放の本を書きました。そして奴隷解放宣言を正式にだしたのです。宣言に署名する際、リンカーンの手が震えていたのですね。彼はいいました。「もし、私が歴史に名を残すとすれば、この宣言のためだろう」って。精魂をこめてリンカーンは署名したのです。もっともリンカーンは冷徹に国益のことばかり考える人間ではなく、アメリカの建国理念を信じていたのです。その理念とは「すべての人は平等につくられ、生命、自由および幸福を追求する権利を有する」。その理念を実現させようという理想もリンカーンは持っておりました。

リンカーンの黒人奴隷解放の考えに多くの黒人が賛同。そしてこの宣言により約350万人もの黒人奴隷たちが解放されました。

リンカーンは白人のキング牧師だと考えるのは妥当ではない。白人のために尽くした大統領だった」と、アメリカの歴史学者が手厳しく語っています。しかし、彼のお陰で多くの黒人奴隷が救われたのは事実であります。そしてアメリカのある歴史学者はこう続けます。

完璧な人間が時代を良くしたのではない。欠点があり誤りを犯す人間が努力し続けたからこそ、状況が大きく改善された。それがリンカーンだった。


* この記事は『ビル・クリントン元大統領が語るアメリカ大統領史』を参考にして書きました。

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