History日誌

へっぽこ歴史好き男子が、日本史、世界史を中心にいろいろ語ります。コミュ障かつメンタル強くないので、お手柔らかにお願いいたします。一応歴史検定二級持ってます(日本史)

カテゴリ: 中国・台湾の歴史

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(まだ割れる前の殺生石。すでにヒビが入っていた)

栃木県の那須高原にある殺生石が割れたというニュースを目にしました。殺生石に関しましては、以前に九尾の狐の時に書きました。九尾の狐が玉藻の前という女性に化けていたが、陰陽師に見抜かれ、那須まで逃げてきたと。そこで朝廷の軍勢に討たれてしまった。その九尾の狐が呪いの言葉を残して、石に化けてしまったと。その石が殺生石だという話。

その石が割れたのだから、不吉だと思った人も少なくありません。かくいう僕もその一人。

九尾の狐の話は古代中国からありました。時は、殷の紂王の時代。紂王は妲己という女性を非常に愛しておりました。その妲己こそ九尾の狐が化けたものだと言われております。紂王と共に残虐なことをしていたといます。2本の柱に橋のように板を乗せ、その上に人を渡らせます。しかも、その橋の真下は火がメラメラと思えているのです。当然、橋から落ちたら死んでしまいます。その人が落ちて死んでいく様を妲己と紂王は楽しんでいたのです。それを見かねた忠臣たちも処刑するなど、ひどいものでした。紂王の悪政で、人々は苦しみ、そして反感をかったのです。結局、紂王は自害し、殷王朝は滅びました。

次に、西周の12代目、幽王の時代に褒姒(ほうじ)という女性に化けます。褒姒はなかなか笑わない女性で、幽王は彼女を笑わそうとするが、なかなかうまくいきません。結局、幽王は家臣からも見放され、自害してしまいます。

さらに、九尾は天竺(インド)にわたって華陽夫人に取り憑き、班足太子に取り入ったのです。そこで、太子をそそのかし、1000人もの人の首を刎ねるなど、恐ろしいことをしていたのです。

そして、日本に渡って、今度は玉藻の前となって、時の鳥羽上皇をたぶらかしたと言います。九尾の狐は那須で石灰石になったと言いますが、のちに日蓮上人が那須にやってきて、日蓮との出会いにより、改心し、悪さをしなくなったという伝説もあります。

また、韓国で九尾の狐はクミホと呼ばれ、親しまれているようです。クミホは悪さをするどころか、人間に知恵を与えてくれるありがたい存在として描かれております。

元々は九尾の狐も悪い魔物ではなく、人間に幸福をもたらす存在だったのかもしれない。実際、九尾は神獣、瑞獣など神聖な生き物だったと言われております。それが、なんらかの理由で、人間を憎むようになったのかなって僕は思います。「ごんぎつね」の話じゃないが、人間に親切にしたのに、逆に殺されてしまい、それから人間を恨むようになったのでは?と想像してしまいます。




ごんぎつね (日本の童話名作選)
南吉, 新美
偕成社
1986-10-01


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1 端午の節句と屈原

 今日は端午たんごの節句です。きょうは端午の節句ということで、我が家でも、柏餅かしわもちをいただいております。でも、柏餅を食べるのは関東で、関西では5月5日に、チマキを食べるようですね。チマキの話はまた後で出てきます。また、きょうは「子供の日」でもあります。僕が小さい頃は、今の時期に家の居間いまに五月人形(ヨロイかぶと)、その五月人形もすでに処分してしまいましたが。さて、今日は端午の節句にまつわるお話をします。もともとは中国の伝統行事です。

それは屈原くつげんという政治家の悲しいお話からはじまりました。屈原はという国の政治家でした。生まれたのが、紀元前340年1月21日頃で亡くなったのが 紀元前278年の5月5日です。つまり屈原は5月5日の今日亡くなったのですね。

屈原は家柄もさることながら、頭の良く、また詩文の才能もありました。楚の王様だった懐王かいおうの信頼も厚かったのです。当時、楚の国をしんという国が脅かしていました。その秦という国は軍事力が強く、その国とどのような態度をとるか、楚の重臣たちの間で意見が割れていたのです。。秦と友好の立場をとるか、それとも楚の同盟国のさいとともに、楚を対抗するか。今日の中国と日本の関係に似た状況です。屈原は「秦は信用できない」という立場をとっていました。

しかし、屈原は優秀な政治家ですが、あまりに剛直ごうちょくな性格のため、時にズケズケ言うこともあって、うとまれていたのですね。それだけでなく、優秀な性格のゆえに、周りの人がおろかに見えて、つい上から目線の態度をとってしまったのかもしれない?僕の職場にもこういう人いるなあ。すごく優秀なんだけど、とっつきづらいというか。また、懐王の信頼も厚いうえに、嫉妬しっとされていたようです。中には、懐王に屈原の悪口をあることないこと吹き込んでいたやからもいたとか。

2 張儀の策略
 そうして、屈原の意見はだんだん退けられ、「秦と仲よくしよう」という声が重臣たちの間でも強まり、懐王も次第にそっちのほうへかたむいてしまったのですね。屈原の心配は強まるばかり。

案の定、秦の謀略家ぼうりゃくか張儀ちょうぎという人物の策略に懐王が引っかかるのですね・・・

張儀は対楚工作にしました。楚に対して秦の土地、六百里四方を分けてあげるから、斉との同盟を破棄はきして欲しいと申し入れを張儀はしたのです。楚の懐王は喜んでこれに応じ、斉との同盟を破棄してしますのですね。しかし、うまい話にはウラがあります。

将軍に秦に土地を受け取りに行かせたが、張儀は約束よりものずっと狭い六里四方の土地をあげると言い出したのです。これに楚の将軍は約束は六百里だとめっちゃ抗議こうぎするが張儀はとぼけて相手にしなかったのです。懐王は大いに怒り、秦に対し出兵したが、大敗するのですね。

それから、秦から楚に土地を割譲かつじょうする事で和睦しようという交渉が持ちかけられたが、懐王は「土地などいらぬ。張儀の命が欲しい」と言いました。懐王も自分をだました張儀のことが許せなかったのですね。

これに答えて張儀は楚に行ったのです。これでは張儀は殺されに行くようなものです。けれど、したたかな張儀には生還する策がありました。。懐王の寵姫ちょうき(※1)に人を使って「秦は張儀の命を救うために懐王に財宝と美女を贈るつもりです。もしそうなったらあなたへの寵愛ちょうあいはどうなるでしょうな」と言わせ、不安に思った寵姫は懐王に張儀を助けてあげてと願ったので懐王は張儀を殺すどころか釈放しゃくほうしたのですね。懐王は女に甘かったのですネ・・


3 屈原の最後
 さらに、秦は懐王に縁談を持ちかけ秦に来るように申し入れたのですね。当然、屈原は秦は信用がならない、先年だまされたことを忘れたのかといさめたが懐王は聞き入れません。結局、親秦派の重臣に勧められて秦に行きました。そして、懐王は、まさに飛んで火にいる夏の虫、秦に監禁かんきんされてしまったのです。これが懐王が『北斗の拳』のカイオウ様みたいに強かったら、秦の兵士を振り切り、楚にもどってこれたかもしれませんがw

懐王も屈原の言うことを聞いていれば、こんなことにならなかったのです。それから、楚の国は懐王の息子があとを継ぎましたが、屈原にとって悪いことに、宰相さいしょうに屈原がもっとも嫌いな人物が就任してしまったのです。当然、屈原は左遷させんさせられてしまいます。屈原が、頭は良かったが、権謀術数けんぼうじゅつすうがうずまく政治の世界を泳ぎ渡るしたたかさがなかったのですね。

その後、秦により楚の首都が陥落かんらくしたことで楚の将来に絶望して、石を抱いて川に入って自殺したのですね。かわいそうに・・・

彼の死後、屈原は愛国者ということで持ち上げられ、彼の命日にチマキを川に投げ入れ、屈原のことをしのんだといいます。彼の命日にチマキが食べるようになったのは、彼のことをしのぶためだったのですね。屈原は生きているうちは報われなかったけれど、亡くなってから彼の評価がうなぎ上り。しかし、僕は複雑ですね。こういう実直な人が評価されず、口がうまいズルい人間が得するみたいな。なんだか、まじめに生きているとバカをみるようで、なんとも後味の悪い話です。

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不明 - 清宫殿藏画本. 北京: 故宫博物馆出版社. 1994., パブリック・ドメイン, リンクによる


(屈原の絵。ウィキペディアより)



※1君主の寵愛ちょうあいする侍女。めかけ


この記事はWikipediaを参考にして書きました。

1 クリスチャンだった李登輝
 まだまだコロナが治まりそうもありません。昨年は台湾の偉大な政治家李登輝氏が亡くなった年でもありました。彼は台湾の民主化を進めた政治家として名高い人物で、日本ともかかわりの大きい人でありました。僕も彼の本は何冊か読んだことがあります。

李登輝元総統はたびたび日本に訪れました。総統退任後は持病の治療や講演、観光などの目的で計9回、日本に足を運んだといいます。特に2000年の訪日には中国から「李登輝を日本に入国させるな」という圧力があったそうですが、時の総理の森喜朗元総理がビザを発行したのですね。昨年の李登輝氏の葬儀にも森元総理も駆けつけました。

李登輝は政治家でありますが、クリスチャンでもありました。彼のバックボーンにはキリスト教という信仰があったのです。彼が台湾省主席だったころ、東海大学(日本の東海大学とは別)で講演した内容をご紹介します。

「「私はキリスト教徒であります。個人的体験から見て聖書のなかの最も偉大な一字こそ「愛」であると思うのです。コリント前書第13章では、「愛」についての解釈は最も詳しく、そのなかで「愛は寛容であり・・・愛は誇らない、高ぶらない、無作法をしない、自分の利益を求めない、愛はいつまでも絶えることがない」




2 農業博士だった李登輝
 さて、今年もコロナで大変な年になりました。僕も他人事ではありまえん。もしかしたら自分も感染しているんじゃないかくらいの気持ちを持ったほうが良いのかもしれません。

僕は医学的なことは全く分かりませんが、健康の基本は食だと思うんです。食といえば、李登輝も「食」に関しては大変熱心な取り組みをしました。李登輝は政治家であると同時に農業学者という顔も持っておりました。彼は反中国のプロパガンダ的存在のように思われがちですが、むしろ政治家というより優れた学識の持ち主といったほうが近いと思います。


李登輝氏が総統になって真っ先に取り組んだのは疲弊した農業をどう立て直すかでした。年1回しか収穫できないサトウキビに代わり、園芸作物や熱帯果樹、畜産に舵を切ったといいます。

畜産では台湾牛生産のためにサトウキビ畑を牧草地に切り替え、30万頭の養豚にも取り組みました。熱帯果樹では、八重山はマンゴーやレンブ、釈迦頭などの栽培に成功し、李氏の農業改革の恩恵を存分に受けたといいます。

また、李登輝はダムをつくって農業の生産量を上げたりしておりました。

 

3 抑えつけるのが権力の維持だという思い違い

李登輝は沖縄にも訪れましたが、その時このような話を述べたといいます。

「サトウキビは途上国や植民地に見られるプランテーション型の作物です。権力者は、民が貧しい方が治めやすい。抑えつけているのが権力の維持だと思い違いしている人が、今の政治家には多いです。思うに、サトウキビで豊かになった国は一国もないです。サトウキビは全世界で1億5千万点源困気譟⊂暖颪22%、78%が余剰なんです」

サトウキビの知識だけでなく、その歴史的背景までパッと出るところ当たり、李登輝の学識に驚かされます。

かつて琉球王国も島津藩からサトウキビから得られる収入を搾取されておりましたし、アメリカの黒人奴隷の話をみてもそれは明らかです。黒人にサトウキビ労働でこき使い、そうして得た収入を白人は搾取していたのですね。

民が貧しいほうが治めやすいというのは言えてると思います。一概に言えませんが、独裁者がいつまでも権力を握っている国は貧しい国が多いです。北朝鮮しかり、かつての中国もそうでした。毛沢東が権力を握っていたころの中国は本当に国民が貧しかったし、今は経済成長が著しいですが、その一方で貧富の差も激しい。

また、抑えつければ権力が維持できるわけではないのです。むしろ、抑えようとすればするほど、それに反発する動きがでてきて、下手すれば独裁者を倒す動きにまで発展する。台湾も長く戒厳令が敷かれておりました。 普通戒厳令とは、震災とか特別な時に一時行われるものですが、台湾のように長く行われたのは歴史上ないそうです。戒厳令が敷かれた台湾では、中華民国の秘密警察が、人を密告が奨励され、密告をしなかったものも逮捕されたというヒドイ時代でした。そんなんだから、台湾でも激しい民主化運動がおこりました。そうした民主化運動の積み重ねが李登輝総統の誕生につながったし、中国でも度々民主化運動が起こっております。昨年、香港で民主運動家が逮捕されましたっけ。

「ドラえもん」にもそういう話が出てくるのですね。のび太がドラえもんの道具を使って「のび太王国」という国をつくるのですね。のび太はロボットの警察を操って、ドラえもんやジャイアンや出木杉など仲間を監視したり、こき使ったりしてきたが、怒ったドラえもんが反乱を起こしたという話。



4 後藤新平
 李登輝がここまで農業に関心をもったのは、日本での留学経験が大きいといわれております。李登輝は農業経済の専門家、新渡戸稲造を尊敬していたので、新渡戸が教えていた京大に進学したとも言われております。李登輝は新渡戸稲造と後藤新平の影響を受けたといいます。

後藤新平の話も出たので、後藤の話もちょっとさせていただきます。(新渡戸と李登輝の関係はまた別の機会に触れます)。後藤新平は医者だったこともあり、台湾の衛生問題に取り組み、当時台湾で流行っていたコレラの対策にもずいぶん取り組んだといいます。

予防接種を義務化し、上下水道の敷設を行い、伝染病の予防に寄与しました。衛生状況が悪かったので、後藤は衛生問題にとりくんだのですね。今日のコロナも清潔にすることが大事だといわれておりますしね。また、後藤は教育の充実を図り、医学校の創設も行い医療レベルを飛躍的に向上させたといいます。

李登輝が後藤新平から学んだことは、「人民が何を欲しているか」です。後藤は医者だったからこそ、生物学的に人民が何を欲しているかを知ろうとし、そのためには何をすべきかを考え、必要に応じて自分で法律を作ったりしたといいます。



https://hubokinawa.jp/archives/1347(参考サイト)

指導者とは何か (PHP文庫)
李 登輝
PHP研究所
2015-06-05

(参考文献) 

わが夫、溥儀―ラストエンペラーとの日々


前回の記事で取り上げた溥傑ふけつのお兄さんである溥儀ふぎにまつわるお話をします。溥儀ふぎには奥さんがいました。その人の名前を李淑賢り しゅくけん。といいましても溥儀は初婚ではありません。バツイチです。溥儀が満州の皇帝だったころ、婉容えんようというお妃がいました。そして、もう一人側室がいたそうです。で、婉容えんようと溥儀の二人の生活は最悪で、夫婦のすれ違いや自由のない生活のストレスが重なり婉容えんようもアヘン中毒にかかって、最後は狂人になって39歳の若さで亡くなってしまうのです。

で、李淑賢り しゅくけん の書いた本を読ませてもらいましたが、夫である溥儀ふぎに負けないくらい波乱に満ちた半生だったようです。

二人は結婚けっこんしてから大変な思いをしましたが、それでも夫との夫婦生活はとても充実じゅうじつしていて幸せだったことを知りました。そして溥儀ふぎが子供のような純粋な心を持ったやさしい人だということも理解できました。

李淑賢り しゅくけん は大変まずしい家庭に生まれ、少女時代は苦労をしたそうです。いちど結婚けっこんをしたが、最初の結婚はうまくいかず離婚りこんしたそうです。身分が違いすぎるとはいえ、最初の結婚生活がうまく行かなったところは溥儀と同じでした。

それから、バツイチの彼女の元に縁談えんだんが持ち上がりました。そのときの相手がラストエンペラーことruby>溥儀ふぎだったのです。

さいしょ、李淑賢り しゅくけんは最初の結婚生活でりている上に、「相手が自分とは身分がちがう人だから、結婚なんてとてもとても」と思っていたようです。


結局、元皇帝の溥儀ふぎと一般人である、李淑賢り しゅくけんは結婚をすることになりました。溥儀ふぎ皇帝こうていだったので、人にやってもらうことはあっても、自分で何かをするなんてことはありませんでした。だから、炊事すいじ(※1)だとか縫い物ぬいもの身支度みじたくなどが満足にできません。顔を洗うときも周りを水だらけにして、上着までびしょぬれにしちゃうほどだったとか。ご飯を食べるときもボロボロこぼしたといいます。

そんな溥儀ふぎを妻の李淑賢り しゅくけんはがんばって彼をサポートしました。まるでダメ亭主ていしゅとしっかり者の女房にょうぼうのようですが、それでも二人は幸せだったようです。

溥儀ふぎは妻の李淑賢り しゅくけんことを死ぬまで気づかったようです。溥儀ふぎ何不自由のない皇帝の生活よりも、平民で決して豊かとはいえないが、今の結婚生活のほうが幸せだと語っていたそうです。

しかし、そうした二人の幸せな生活も長くは続きません溥儀ふぎもガンにかかってしまったのです。しかも、溥儀ふぎが病気になった時期というのが、悪いことにちょうど文化大革命の真っ最中でした。昔、皇帝だったという理由と満州国皇帝として日本に協力したという理由で、満足な治療が受けられなかったそうです。

文化大革命というのは、毛沢東が党内で権力闘争をおこし、その余波が中国国民にも及んだ出来事です。それは、1965年から10年間続きました。この時期、先生だとか親だとかともかくエライ人がきらわれた時代でした。紅衛兵こうえいへい(※2)と呼ばれる若者達は、先生だとかエライ人たちをリンチしたのです。

https://www.youtube.com/watch?v=9DjOrC_PGWI&feature=youtube_gdata_player
(紅衛兵のことが出てくる動画)




※1 食物を煮たきして調理すること
※2 中華人民共和国の文化大革命時期に台頭した全国的な青年学生運動。毛沢東を支持し、教師だとか親だとか権威的なものを攻撃した。


あけましておめでとうございます。今年も皆様にとって良い年になりますように。ことしは亥年です。つまりイノシシ年ですね。しかし、十二支の本場中国では亥年の亥はイノシシのことではないそうです。亥年の亥はブタだそうです。つまり、本場中国では亥年はブタ年なんですね。中華料理にはブタ肉を使う料理がたくさんありますね。餃子もそうですし、春巻、麻婆豆腐もそう。あと回鍋肉とか。



ブタはイノシシが家畜化された動物ですが、その歴史は意外に古く、紀元前6000年くらいからブタは存在しておりました。日本でも弥生時代にブタが飼われていたという文献があるようですが、ブタが飼育される風習は日本では長らくなくて、日本人はイノシシをとって食べていました。今でこそ肉屋やスーパーに行けば豚肉が買えますが、大昔はブタなんて非常に珍しく、日本人にとってブタよりもイノシシのほうが身近な動物だったんですね。

さて

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