(この記事は2022年8月20日に加筆修正しました)
5代将軍徳川綱吉とくがわつなよしといえば、生類憐みの令しょうるいあわれみのれいで悪名高いです。イヌを殺しただけでなく、なんとボウフラやシラミ、を殺しただけで島に流されてしまったのです。

そんな法律が出来たら大変な事です。蚊やゴキブリも殺しちゃダメ。家の中が害虫だらけになりますね。魚もとってはだめ、うなぎやドジョウも食べちゃだめ。そうなると食べ物屋さんは大変ですね。商売になりません。また、うなぎをアナゴと称して販売したものもいたのですが、その人は見せしめとして牢に入れられたのですね。スズムシやキリギリスをペットとして飼ってもだめ。また、今では考えられませんが、江戸時代は犬を食べる風習があったそうです。それが生類憐れみの令以降、犬を食べる人も減ったと。もっとも犬食いの習慣が完全になくなるのは戦後ですが。

生類憐みの令のおかげで犬目付という役人が動物をいじめていないかと庶民しょみんを見はるようになりました。戦時中の特高とっこう(※1)みたいなものですね。ともあれ、庶民にとっては迷惑めいわくな法律なわけです。

しかし、生類憐れみの令を評価する意見もあり、後ほどお話ししますが良いところもあるにはあります。そもそも徳川綱吉はそれまでの武断政治から文治政治に転換した人物で、綱吉が将軍になって早々「民は国の本なり」としたほど。かつては徳川15代一の暗君のレッテルを貼られた綱吉も近年は再評価されているのです。綱吉に謁見えっけんしたドイツの医師ケンベルは綱吉を「ヨーロッパには綱吉のような生命を大事にする君主はいない」って賞賛ショウサン
したのですね。

特に綱吉が将軍に就任して間もない頃は堀田正俊ホッタマサトシ(老中のちに大老)と共に幕政改革を行いました。綱吉が将軍になった頃は飢饉キキンで人々は苦しんでいたのです。それにも関わらず、代官たちは年貢を不当に取り立てるなど代官たちの横暴がひどかったのですね。将軍になって、たった一ヶ月で綱吉は、代官たちに農民たちに思いやりを持って接せよと命じたのです。悪徳代官は罷免ヒメンさせられ、良い代官に変えたのです。

そんな綱吉に変化が生じたのは堀田正俊が暗殺されてからです。堀田の死後、貞享ジョウキョウ2年(1685)、悪名高い❓生類憐ショウルイアワレみの令が発令。悪名と言いましても、元々は戦国時代の荒々しい風潮を改め、人々が命を大切にする慈悲ジヒの心を人々に根付かせることが、その生類憐れみの令のねらいなのですね。


お犬様だけでなく、捨て子や病人、弱い立場の人間を救済したり保護することを義務付けられたのです。何も動物ばかりを可愛がれといっているわけではないのですね。捨て子を見つけたら養い親が見つかるまで大事にしなさいとか、生活に困っている人には米を支給したりと良いこともしていたのですね。綱吉は囚人シュウジンに対しても優しく、牢屋ろうや格子戸コウシドを設けて風通しを良くした上で、囚人には毎月5回行水をさせ衛生状況をよくしたと言います。月に5回しか行水できないとは現代の感覚ではひどいかもしれませんが、囚人を人間扱いしてくれない当時としては破格の対応なのですね。

とはいえ、その範囲は、動物どころか虫や貝にまで及んだので庶民たちは大変だったのですね。特に厄介だったのは野良犬。野良犬が増えたのは鷹狩たかがりを廃止したため。鷹狩に使う猟犬もそうですが、鷹狩では、鷹のエサとしても犬を飼育していたのですね。鷹って犬の肉を食べるんですね。鷹狩が無くなったことで行き場を失った犬たちが野良犬になってしまったのですね。それから犬を食べる人も減ったことも手伝ってますます野良犬が増えたのですね。それで江戸の街は野良犬であふれたのですね。こええな。僕は犬が苦手なので、この時代に生まれなくてよかったw腹をすかせた野良犬が人間や捨て子まで襲ったり、逆に生類憐れみの令でストレスがたまりまくっている武士たちが腹いせに犬を斬る事件が多発したのですね。









(上の写真はいづれも中野駅周辺でとった犬の銅像)


 綱吉は今の中野(JR中野駅北口あたり)にでっかい犬の屋敷やしきをつくったそうです。その屋敷もどんどん広くなって、最終的にはなんと29万坪。東京ドーム20個ぶんの広さです。やしなった犬の数も最盛期に10万匹。エサ代も年間9万8千両。現代の貨幣価値に直すと120億円にもなるというからすごいですね。こんなお金を幕府は持っておりません。それでこの財源をどうしたかというと、なんと民に背負わせたのですね。犬小屋の維持費用を命じていたのです。新たな税負担に町民たちの不満は高まります。

しかし、この犬屋敷には、江戸えどの町でうろうろしていたコワいノラ犬も収容していたので、そのおかげでノラ犬が出なくなったという意見もあるようです。

生類憐れみの令は、その後も改められることなく、綱吉が亡くなる宝永6年(1709)まで続いたと言います。綱吉は亡くなる際、次期将軍となる徳川家宣を枕元に呼び寄せ、生類憐みの令の継続を頼んだと言います。それも向こう100年間!大変ですね。しかし、家宣はこう答えたと言います。


「私自身は100年後までも守りましょう。しかし天下万民は免除を願わしゅう」


家宣は自分は人間や動物の命を大事にするが、それを民にまで押し付けることはしたくないと。偉いですね。実際、家宣は就任早々、生類憐れみの令を廃止しました。

ある歴史番組で「生類憐れみの令」が悪法かいい法律かを視聴者にきいていたのですが、70パーセント以上の人が悪法と答えました。別に多数決に同調するわけじゃないけれど、自分も悪い法だと思われます。

動物をかわいがる事自体はすばらしいけれど、それを関係ない他人にし付けるのはどうかと僕は思います。動物をかわいがりたければ、綱吉一人がやればよかったんじゃないの?そういった綱吉の姿勢をみた家臣や人々が、「天下の将軍様も動物を大事にしているのだから自分たちも大事にしようかな」と思えばいいわけでして。

もっとも「生類憐れみの例」は江戸や天領てんりょう(※2)では、かなりきびしくやっていたようですが、それ以外の諸藩しょはん外様とざま大名の領地)や地域では割とゆるやかだったという説もあるようです。

また綱吉は毀誉褒貶キヨホウヘンがありますが、それまでの武断政治を文治政治にチェンジしたこと、生命を重んじる風潮を人々に根付かせた功績は大きいと思います。ただ、どんなに素晴らしい理念があったとしても、作った政策や法律がダメってことが歴史上少なくないのですね。理念が素晴らしくても、それが現実に基づいたものでなくては失敗するのですね。理念と実際の政治に生かすことがいかに難しいか考えさせられます。



※ おまけ


よろしければアンケートをお願いいたします。




※1 特別高等警察とくべつこうとうけいさつのこと。治安を守るためにつくられた。戦争を反対したり、共産主義的な人たちを捕まえるだけでなく、市民の生活も監視かんしするようになった。

※2 幕府が直接おさめていた土地


※この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。