※ この記事は「その時、歴史が動いた」を参考にして書きました。


本題に入る前にちょっと豆知識を。

戦後間もないころは、広島と長崎の原ばくでたくさんの犠牲者ぎせいしゃを出したことを多くの日本人は知らなかったそうです。

意外ですよね。

なぜならば、当時日本を支配していたGHQが自分達にとって都合の悪い情報をチェックしていたから。GHQにとっても原ばくを二つも落としたこと、その犠牲者ぎせいしゃの多さは、どうしてもかくしておきたかったのでしょう・・・

日本人の多くが広島、長崎の悲劇を知ったのは昭和三十年前後でしょうか。

しかし、1954年のビキニ沖での水ばく実験で、近くにいたの第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)の乗組員も被ばくしました。その被ばく者達の姿がマスコミで取り上げられ、多くの日本人はビックリしたのです。しかも、核実験かくじっけんが何度もやったので、放射能ほうしゃのうを浴びた魚が出てきたそうです。

それで、魚屋で魚が売れなくなったり、おすし屋さんが閉まったりしたそうですね。僕なんか、”おすし”とか魚料理が大好きだから、そうなったらショックです。

そして、放射能ほうしゃのうをふくんだ雨までが日本各地に降り注いだそうです。おそろしい話です。

放射能におびえる日々にガマンが出来なくなった主婦達が立ち上がり、署名運動を行うようになりました。

そうした動きは全国的に広がり、1955(昭和30)年8月6日広島で第1回原水ばく禁止世界大会が開かれ、実にたくさんの署名が集まりました。その署名は日本国内だけでなく、世界各国からも集まったそうです。

立ち上がった主婦たちは、特定の政党に入っているわけでもなければ、団体に入っている人でもありません。ふつうの主婦が立ち上がった運動が世界に広がったことがすごいと思います。

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(いづれも本物の第五福竜丸だいごふくりゅうまる

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(第五福竜丸のミニチュア)