そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
この昭和天皇の御言葉は昭和50年に日本記者クラブ主催の会見のもの。アメリカから帰国後すぐの会見で出た言葉。昭和天皇が訪米中、ホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という発言について記者が質問をして、その質問を受けての天皇の言葉。要するに戦争責任についてどう思われるかという事。昭和天皇の述べられた「言葉のアヤ」とか「文学方面」という意味はよくわからないのですが、正直、ごまかしているなあって。
昭和天皇に戦争責任があったかといえば、正直あったとおもいます。昭和天皇は戦時中、「あまりに戦果が早くあがりすぎているよ」と喜んでみたり、「一体何処でしっかりやるのか。何処で決戦をやるのか」と軍人たちを叱責したり。また、特攻隊のことは「命を国家に捧げて克くやってくれた」とほめてみたり。昭和天皇が「言葉のアヤ」と述べられたのは、昭和天皇自身が自らの戦争責任から逃れたかったのか、それとも昭和天皇は戦争責任を述べたいけれど、周りの側近たちや政治家たちに制止され、「言葉のあや」と言わざるを得なかったのか。その辺の事情はよくわかりません。
いづれにせよ、昭和天皇の発せられた「言葉のアヤ」発言は、大きくマスコミに取り上げられることもなく、この発言を批判する識者もほとんどなかったのです。ただ、昭和天皇の発言に怒りを覚えた人も少なからずいたのです。たとえば詩人の茨木のり子さんは、このような詩をそのとき詠みました。
戦争責任を問われて その人は言った(中略)
思わず笑いが込みあげて どす黒い笑い吐血のように 噴きあげては 止り また噴きあげる
三歳の童子だって笑い出すだろう 文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島 笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア
「四海波静」(1975年11月)より
茨木のり子さんも戦争でずいぶん苦労をされたのです。それなのに天皇は謝るどころか「言葉のアヤ」で片づけるとは何事かということでしょう。昭和天皇にはやはりあの場で謝罪の言葉を述べるべきかと思いつつも、昭和天皇があの場で戦争責任を謝罪したら、右翼や当時の保守系の政治家や言論人たちが黙っていなかったでしょうね。難しいところです。現に平成天皇陛下がかつて「先の大戦に対する深い反省とともに」と述べられた時、一部の人間が批判しておりました。
戦後、昭和天皇の戦争帰任について何度も問題になったのですね。海外でも言われ、国内でも天皇の戦争責任を問う意見も少なくなかった。今では考えられない事ですが、左派だけでなく、保守側の人でも昭和天皇の戦争責任を批判する声も少なくなかったのですね。たとえば、映画脚本家の笠原和夫さん。笠原さんは保守的な人でしたが、当時の軍部のやり方に手厳しく、昭和天皇も戦争責任を取るべきだったという考え方の人でした。今なら笠原さんはネットでパヨク認定されますね。そうした戦争責任を問う人々の声は昭和天皇の御耳にも入られました。昭和天皇が晩年に側近の小林忍侍従のにもらした言葉が↓
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」(1987年の4月ごろの発言)
自分の身の回りの人たちが次々と亡くなり、この年(1987年)の2月には弟の高松宮に先立たれたのですね。そんな落ち込んでいるときに、赤の他人が戦争責任をワーワー言われると、正直つらいといったところでしょうか。「戦争責任、わかっているよ。悪いと思っている。でも、そんなに戦争責任、戦争責任言わないでくれよ。俺だって、あの頃を思い出すたびつらくなる」っていうのが昭和天皇陛下の本音ではないかと。戦前は現人神とあがめられたとは言え、昭和天皇もやはり人間、スーパーマンではないのですから。
昭和天皇のこぼした言葉に、小林侍従は、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と言って励ましたといいます。
※ 参考文献
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