宋家の三姉妹(字幕版)
ニウ・チェンホワ
2016-09-23



近代、中国に三人の姉妹がいました。

一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は国を愛した。


金を愛したのが長女の宋 靄齢そうあいれい、権力を愛したのが三女の宋美麗そうびれい、そして国を愛したのが次女の宋慶齢そうけいれい。宋家の三姉妹の話は映画にもなりました。

宋家は中国屈指の財閥でした。清朝末期に印刷業から身を起こし、やがて金融をとりあつかい、中国を代表する財閥に成長したのです。三姉妹の父、宋 嘉澍そうかじゅは中国の革命家孫文に資金援助をしていました。三女の慶齢は、孫文の秘書をつとめ二年後に結婚しました。映画では父が慶齢と孫文の結婚に反対する描写が出てきます。そりゃそうですね。相手は革命家、しかも年齢も親子ほど離れているから。慶齢は孫文のことをこう語っております。

辛亥革命は20世紀、最も偉大な出来事です。4億の民が4千年にわたる君主制のくびきから解放されたのです。私は中国を救うのを助けたいと思っていました。孫文博士はそれができるただ一人の人でした。


孫文は国民党でしたが、共産党とも組んで中国を改革しようと思ったのです。しかし、その孫文も志なかばにして亡くなります。そして孫文の後を継いだ蒋介石は孫文の遺志に背き、共産党を弾圧。いわゆる上海クーデターです(1927年4月)。中国は内戦状態になりました。その時、慶齢は蒋介石を裏切り者と厳しく批判。

蒋介石は、もはや孫文博士の後継者ではなく、国民党はもはや革命のための党ではなく奴隷制度にとりついた太った寄生虫に過ぎない。
(宋慶齢の声明)

しかも、その後、慶齢をさらに苦しめることがおこります。なんと妹の宋美齢があろうことか裏切り者の蒋介石と結婚してしまうのです。中国名門の娘と蒋介石との結婚はニューヨークタイムズの一面でも取り上げられたほど大きなニュースとなりました。もっともニューヨークタイムズでは、結婚を祝うというより、これは政略結婚だと皮肉るような論調だったようですが。この蒋介石と美齢の結婚を強く勧めたのが、長女の靄齢。靄齢の夫は孔祥熙こうしょうき。孔は孔子の末裔でのちに中華民国の財政大臣となります。靄齢は妹を蒋介石と結婚させることで、宋一族の権力基盤を強化させようとしたのですね。じつは蒋介石には妻がいたのですが、その妻を靄齢が無理やり離婚させて、妹を蒋介石に押し付けたのですね。ひどい話です。蒋介石の前妻がかわいそうだなって。宋靄齢はたいそう蒋介石のことを気に入っているらしく、こんな言葉を蒋介石に言っております。


あなたは今や重要人物になりつつある。だがその地位はもろい。宗家を通じて上海の銀行家から資金を引き出し、あなたに提供しよう。武器を買うためのお金も援助しよう。
(宋靄齢の言葉)

一方の宋慶齢は、姉と妹と距離を置き、国民党と対立する共産党に接近します。三姉妹は共産党と国民党との対立の中で次第に引き裂かれていくのです。そんな共産党と国民党も日本軍の侵略を受けて、協力するようになります。国共合作です。共通の敵と戦うため、いまはお互いに協力しようと。変化は三姉妹の間でも現れ、再び三姉妹が手を取り合うようになります。宋家の三姉妹は国際的にも有名で、三姉妹はメディアにもでて、日本の非を説いたのです。すると国際的世論は中国に傾いていったのです。日中戦争が泥沼化する中、三女の美齢はさらなる行動にでるのです。アメリカの軍事支援を得るためワシントンに蒋介石とともに乗り込むのです。英語が喋れない蒋介石に変わって、流ちょうな英語で宋美齢は演説。そしてアメリカ人たちを魅了したのです。

パリモードのドレスを着こんだ魅力的な中国人女性が南部なまりの英語でエネルギーと情熱にあふれつ演説をぶった。その日以来、彼女は永遠に私のプリンセスだ。(あるアメリカ人軍人の言葉)


1943年11月のカイロ会談では、通訳としてチャーチルやルーズベルトと会談。宋美齢は、ここでも首脳たちを魅了。チャーチルはその美齢の英語力、スピーチのうまさに感心したといいます。

カイロ会談の時、宋美齢は大変に魅力的で私は彼女の印象しかなかった。蒋介石が何を話したのか、ほとんど覚えていない。(チャーチル)


終戦後、三姉妹は再会。お互いに勝利の喜びを語り合ったのです。しかし、その三人の仲はそれまで。日本軍という共通の敵がなくなると、ふたたび国民党と共産党の対立は激化。第二次国共内戦(1946から1949)がはじまるのです。宋姉妹はふたたび敵と味方にわかれてしまうのです。内戦に勝利したのは共産党。蒋介石率いる国民党は台湾に追われてしまい、宋美齢も台湾に逃れてしまいます。長女の靄齢と夫の孔祥熙は金銭トラブルが発覚、二人はアメリカに逃れてしまいます。そして中国大陸に残ったのは宋慶齢ただ一人。そして宋慶齢は毛沢東らに迎えられ共産党の国家副主席の一人として抜擢。孫文の未亡人を幹部に抜擢した理由は、自分たち共産党が孫文の後継者だぞってアピールしたかったのでしょうね。

そんな共産党に取り込まれている慶齢を台湾にいる美齢は心配し手紙を送ります。

お姉さん、あなたのことをいつも思っております。中国でつらい思いをしているのではありませんか。私たちにできることがあればお知らせください。でも私はお姉さんが、どこか遠くに離れてしまっているように思えます。


そんな美齢の予感が当たったのか、次第に慶齢と毛沢東との間で、すきま風が吹き出します。きっかけは、毛沢東が自分に反対する人間を弾圧する反右派闘争。慶齢は黙っていなかった。人民日報に毛沢東にあてた手紙を搭載したのです。

かつて中国では、市民が自分たちの意見を述べたり抗議したりするとデマゴーグ(扇動者)とみなされ逮捕され、拷問され、処刑された。社会主義国である我が国では、そのようなことをしてはいけないのです。経済や社会の法則を使いこなし、人間らしく問題を解決すべきです。
(宋慶齢の手紙)


これに対して毛沢東はとうぜん激怒。

台湾でも、香港でも、アメリカでも行きたいところへどうぞ。私は止めません。(毛沢東の言葉)


こうして宋慶齢は役職を解かてしまうのです。そして1967年以降、嵐のような文化大革命が中国全土に広がります。国家主席だった劉少奇も紅衛兵に罵倒され、やがてアメリカのスパイとののしられ投獄。そしてそのまま獄死。その理不尽さに政治の表舞台からきえていた慶齢が立ち上がります。毛沢東に手紙を送りました。

劉少奇同志は長年、党の指導者として尽力してきたのに、なぜ裏切り者扱いされなければならないのでしょう。むやみに人を逮捕し、つるしあげ、無残に死なせることは革命だといえるのでしょうか。自分たちの仲間や国民を傷つけることは犯罪です。


宋慶齢もアメリカのスパイ扱いをされ投獄されそうになりましたが、周恩来のはからいによって、それは免れたのです。毛沢東の死後、劉少奇の名誉は回復。劉少奇の未亡人だった王光美と宋慶齢は抱き合って喜びの涙を流したといいます。1981年6月、宋慶齢は亡くなりました。死の直前、宋慶齢は名誉主席とたたえられました。慶齢の遺骨は故郷上海による宋家の墓に収められました。共産党の幹部は慶齢の葬儀に姉妹や宋一族を招いたものの、参列する者は誰もいなかったといいます。彼女の葬儀に参列したのは共産党の関係者と軍隊ばかり。宋慶齢は国のために尽くしたのですが、さみしい晩年だなって・・・姉の死を台湾で聞いた美齢は何度も涙を流したといいます。姉の慶齢の写真を美齢は自分が亡くなるまで飾っていたといいます。立場的には対立していたけれど、同じ血が流れている肉親同志。

宋美齢はやがて台湾を離れ、晩年はアメリカで過ごしたといいます。晩年、美齢は台湾の若者のアメリカ留学を支援する活動をしました。私財を投じて奨学金をあたえ、海外で学ぶチャンスを若者に与えたのです。その若者の一人が今の台湾の総統である蔡英文です。

※この記事は『映像の世紀』を参考にして書きました