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(リンカーン大統領。ウィキペディアより)

リンカーン大統領とは黒人奴隷に反対し、奴隷解放をした偉大な大統領として語られております。かつては英語の教科書にも彼の伝記が載ってました。ちなみに僕の使っていた英語の教科書ではキング牧師の伝記が載っていました。しかし、実際のリンカーンはそうでもなかった、むしろ国益のため、冷徹な計算で黒人奴隷に反対していていたのです。



リンカーンの就任当時、アメリカは南部と北部が仲が悪かったのですね。北部が工業中心なのに対し、南部は綿花などのプランテーション農業がメイン産業。農業には人手も必要なので、黒人奴隷が必要だったのです。そして南部が連邦を離脱、北部にケンカを売ったのですね。『ガンダム』に例えれば、地球連邦からジオンが独立運動をおこしケンカをうったようなものです。

北部に対して南部は戦力的に優位でした。南部が優秀なモビルスーツを持っていた?まさかw南部が北部に対して優位だったの理由の一つが奴隷制度。南部は奴隷たちをこき使って富を得ていたのですね。戦争は経済力があるほうが強い。また、いざとなったら奴隷たちを兵士として戦地に送り込むこともできる。リンカーンは北部と南部の戦争が泥沼化するなかで、考えました。奴隷制度を反対したら、南部に勝てるのではないかって。歴史の教科書では、奴隷解放のためにリンカーンは南部と戦ったみたいな風に描かれておりますが、そもそも北部の戦争の目的は奴隷解放ではありません。連邦の維持です。

実際、リンカーンは周囲の者に対しこう言っていたようです。

「奴隷を解放して連邦を救えるならそうする。解放せずに連邦を救えるなら、そうする」って。もちろん、リンカーンは奴隷制度に反対でした。ただ、かれは人道主義者でも平等主義者でもなかったのです。国のために何が必要かを常に考えていたのです。黒人を解放すれば南部は大混乱になる。そして黒人を連邦軍に加えれば北部は勝てるとリンカーンはおもったのです。また、奴隷制度を残しておくと、あとあと連邦にとって面倒なことになると判断したからリンカーンは反対したのです。奴隷制度を温存すれば、また南部が北部にやらかすかもしれない。リンカーンが奴隷解放命令について閣僚と協議を始めたのが1862年の夏のことでした。リンカーンはその時、議会に言いました。

「政治に必要なのは、よりよい想像ではなく、よりよい行動だ」

そしてリンカーンは戦争のさなか、南部に対して連邦に戻らなければ、奴隷を解放すると宣言し、南部が連邦に戻る決断をするまで100日待ってやるといいました。これには南部も反発。南部は結局、北部とこのまま戦う道を選びます。リンカーンは南部が反発することはわかっていたのですが、えて100日の猶予を与えたのですね。

そしてリンカーンは奴隷解放の本を書きました。そして奴隷解放宣言を正式にだしたのです。宣言に署名する際、リンカーンの手が震えていたのですね。彼はいいました。「もし、私が歴史に名を残すとすれば、この宣言のためだろう」って。精魂をこめてリンカーンは署名したのです。もっともリンカーンは冷徹に国益のことばかり考える人間ではなく、アメリカの建国理念を信じていたのです。その理念とは「すべての人は平等につくられ、生命、自由および幸福を追求する権利を有する」。その理念を実現させようという理想もリンカーンは持っておりました。

リンカーンの黒人奴隷解放の考えに多くの黒人が賛同。そしてこの宣言により約350万人もの黒人奴隷たちが解放されました。

リンカーンは白人のキング牧師だと考えるのは妥当ではない。白人のために尽くした大統領だった」と、アメリカの歴史学者が手厳しく語っています。しかし、彼のお陰で多くの黒人奴隷が救われたのは事実であります。そしてアメリカのある歴史学者はこう続けます。

完璧な人間が時代を良くしたのではない。欠点があり誤りを犯す人間が努力し続けたからこそ、状況が大きく改善された。それがリンカーンだった。


* この記事は『ビル・クリントン元大統領が語るアメリカ大統領史』を参考にして書きました。