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4代将軍、徳川家綱は影の薄い将軍と言われております。徳川15代将軍で影の薄い将軍ランキングのサイトで3位に選ばれるほど。ちなみに一位は7代将軍の家継でした。家綱は、知恵伊豆こと松平信綱、保科正之、大老の酒井忠清といった優秀な家臣に政治をまかせっきりで何もしないイメージがあります。実際、家綱は病弱で、なんでも家臣のいうことを「さようせい(そうしろ)」というので「さようせい様」と陰口をたたかれるほど。

しかし、家綱の治世は28年9か月という長きにわたり、歴代将軍の中でも長いほうです。また、家綱の時代に江戸じゅうを焼き払った明暦の大火(*1)や、由井正雪の乱(*2)など幕府を揺るがす大事件がおこり、それを家臣ともに乗り越えたのです。優秀な家臣にまかせっきりというのは聞こえは悪いが、優秀な家臣を信頼し、家臣の意見を聞き入れ、最後に責任は自分がとるというのは、むしろリーダーとして大変優秀なのです。かつて中日の落合博満監督は、「責任はオレが取るから。迷わずに思い切り自分の思った通りにやれ」とコーチたちに言い、当時の投手コーチだった森繁和さんに投手交代どころか、先発投手を誰にするかまでも任せたといいます。落合さんが直接、先発投手を決めたのは1年目の開幕戦、川崎憲次郎さんの一度だけ。それで落合さんは何度も中日を優勝に導いたのです。

なんでもリーダーがしゃしゃり出るのが優れたリーダーとは限りません。逆に優秀な家臣をつぶし、自分が一番でないと気が済まないリーダーは良くないのです。また家綱の治世は、それまでの武断政治から文治政治に切り替わった転換期でもあります。(*3)

家綱は三代将軍家光の嫡男として生まれました。母はお楽の方。家綱は幼少から病弱だったのですが、家光は早々と自分の跡取りにしたのです。家光には家綱の他にも男子がいたのになぜ?それは、家光の苦い経験があったのです。

かつて家光は自分の弟の忠長との間で世継ぎ争いをして、結局、弟を自害させてしまったのです。我が子にそんな思いをさせたくないとの親心からでした。それと、祖父の家康の影響も大きい。家光も実は幼いころから病弱でした。しかも、言葉もうまくしゃべれなかったのです。今でいう発達障害でしょうね。一方の弟の忠長は優秀で、忠長を将軍にという声もあったのですが、家康の「家督は長男が継ぐべし」という鶴の一声で家光は将軍になったのです。家光は家康に倣い、長男の家綱を将軍としたのです。

それと家光は家綱の人間性も評価していたのかもしれない。家綱が6歳になった、ある日のこと。家綱は家臣から、島流しに罪人の話をきいて驚いたのです。流罪人には食べ物など与えられず、餓死するものも少なくなかったから。「流罪に処して命を助けたにも関わらず、なぜ食料を与えないのか」と言ったのです。その発言に感心した家光は、「遠島になったものにも食料を与えるのは理にかなっている。今後は流罪人に対しても一定の食料を与えよう」と家臣に命じ、さらに「これを家綱の仕置きはじめにせよ」と命じたのです。仕置きはじめとは最初の命令のこと。6歳にして、ここまで人のことを考えられるなんてスゴイですね。

家継が11歳の時に父の家光が亡くなり、家継は将軍になりました。家継は将軍になるや、「吾、幼年なりといえども、先業をけ継ぎ、大位に居れり」と発言。11歳と言えば小学校5年生くらいの年齢。『ドラえもん』に出てくるのび太と同い年ですね。そんな幼い子の発言とは思えない、力強さを感じます。自分が将軍になるんだという覚悟が感じられます。また、幼い家継には、こんなエピソードもあります。家継が江戸城天守閣の最上階にいて、江戸の町をみていたら、近習のものに望遠鏡をすすめられます。そのとき、家継は言いました。

「われは少年ながら将軍である。もしも将軍が天守から望遠鏡で四方を見下ろしていると知れたらおそらく世の人は嫌な思いをするに違いない」と言って断ったといいます。客観的に物事をみれる聡明さと人々を思いやれる優しい人ですね。

そして明暦3年(1657)1月に明暦の大火。この大火事で江戸じゅうが焼けてしまいました。10万人もの犠牲者が出たとか。そして江戸城本丸までも焼けてしまったのです。江戸城の天守閣は防火設備も完璧だから燃えるはずがないと思われていたのですが、この時、火災旋風と呼ばれる炎のたつまきが発生。これにより天守の窓が開いて、天守の内部に火の粉が入ってしまい、炎は中から燃えてしまったのです。さらに本丸近くの弾薬庫まで火の手が伸びてしまい、弾薬庫こと爆発。江戸城の天守閣はなくなってしまったのです。その天守閣の再建をめぐって幕閣でも意見が分かれます。天守閣は将軍の象徴ですから、優先して立て直すべきだと。

しかし、保科正之は反対。「天守は無用。天守再建に充てる費用を町の復興にあたるべき」と保科はこたえ、家綱もそれに同意したのですね。将軍の権威より民衆のほうが大事だと家綱も思ったのでしょう。

また、家綱と言えばこういうエピソードもあります。家綱がまだ17歳くらいのころの話です。そのころ江戸城の庭に大きな岩がありました。剣術のけいこのジャマになるから撤去せよと家臣に命じました。それを聞いた酒井忠勝は「岩を外に出すには土塁や塀を壊さなくてはならないのでご勘弁ください」と。で、松平信綱は「大きな穴を掘って、そこに岩を埋めたらどうか」と提言。頭いいですね。さすが知恵伊豆。しかし、酒井はあくまでも反対。「世の中のこと万事思い通りになると思われると今後いろいろ問題があろう。岩は放っておいても害はない」と。家綱は、酒井の意見になるほどと納得したといいます。酒井は家綱にできないものはできない、家臣がなんでも思い通りに動けば、わがままを通り越して暴君になる危険もあることを酒井は危惧したのです。それを家綱は、そうだなって思ったのですね。家綱には家臣のことを受けいえる懐の深さがあったのです。

父の家光は、激高型で家臣か何か言えばキレてしまう性格。だから家臣たちも家光の逆鱗げきりんに触れないように気をつかい、殺伐とした雰囲気だったそうです。野球に例えれば中日時代の星野仙一監督みたいな感じでしょうか。一方の家綱は温厚で「武力や威圧で民を縛り家臣を押さえつけるまつりごとは先がない」という考え方。そうした家綱のもと、家臣たちは自由に意見が言えて、幕閣内も活性化したといいます。

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(明暦の大火の犠牲者を弔うために建てられた回向院)

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(明暦の大火の出火元と言われる本妙寺跡。今はマンションなどが建っている
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(本妙寺があった菊坂。東京の文京区にある)

*1 明暦3(1657)年の江戸の大火。ふりそで火事とも。江戸城本丸も燃えるなど江戸の町55パーセントも焼け、死者10万人も超えた。その反省を踏まえ、大火後に道幅の広い広小路を作ったり、大名屋敷を移転させたり、墨田川に橋の増設も行った。大火前は敵の侵入を防ぐため、川に最低限しか橋がかかっていなかったが、火災で橋が少なかったために逃げられずに焼死した町民も多かった。その反省も踏まえたもの。『忠臣蔵』で有名な永代橋もこのころ建てられた。

*2 軍学者である由井正雪が中心に行ったクーデター事件。当時の江戸幕府は武断政治を行っており、大名家の取りつぶしを盛んに行っていた。それで大名の家臣たちが職を失い浪人となった。幕府は浪人たちの再就職の面倒など見なかったので、浪人たちの不満が爆発した。それで浪人たちを救い、幕府を倒そうと思ったのが由井小雪。将軍家継を拉致し、江戸城の火薬庫を爆破する計画であったが、幕府側のスパイの活躍で未然に防ぐことができた。そして首謀者の由井小雪は自害。

*3 それまで幕府はその力で諸大名を押し付けていたが、家綱の代から武力で押さえつけるやり方を改めた。その一環のひとつが末期養子禁止の緩和。末期養子とは、跡継ぎとなる子(嫡子)をもたない武家の当主が、死ぬ直前になってあわてて養子を取って跡を継がせること。 江戸時代の初期には、幕府は大名に対してこの行為を禁じていた。大名の家臣たちが自分らにとって都合の良い人間を跡取りにしようとか、そうした不正の温床にもなるということで。また跡取りのいない大名家は改易、つまり取りつぶしになる。大名家の力をそぐ意味でも末期養子の禁は理にかなっていたが、大名家がつぶれるたびに浪人が増えてしまった。これ以上浪人を増やさないためにも今ある大名家を存続させたほうがい、その大名家取りつぶしを制限するべく、末期養子を幕府はみとめるようになった