誰も書かなかった安倍晋三 文庫版
谷口 智彦
飛鳥新社
2020-11-20



安倍晋三あべしんぞう元総理が亡くなって半年以上たつのですね。月日の早さを感じます。安倍さんが亡くなった話はもっと早い段階で取り上げようと思ったのですが、が明けて、しばらくたってからにしようと思い今の時期に語らせていただきます。本当に痛ましい事件で、このようなことが今後あってはならないと思います。今更ではありますが、ご冥福めいふくをお祈りします。

さて、昨年の秋に安倍晋三元首相の国葬が行われました。国葬が行われたのは吉田茂以来というからすごいなって。その国葬の弔辞ちょうじ菅義偉すがよしひで元首相が引用したのが山縣有朋やまがたありともの残した詩でした。それは

「かたりあひて 尽くしし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ」

これは伊藤博文が暗殺されたときに、山縣が詠んだもの。先立たれた伊藤の死を悲しむとともに、自分はこの世をどうしたらよいのかわからないという思いをつづったものです。おそらく菅元総理の心情とぴったりだったのでしょう。安倍晋三元総理は生前、山縣有朋のことが書かれた本を読んでおり、ちょうど同じようにテロで亡くなった盟友をしのび、菅元総理はこの詩を弔辞で読んだのでしょう。

それでは、その山縣は政治家としてどのような人物だったのでしょうか。

伊藤と山縣は同じ長州出身であり、盟友めいゆうでもありました。ただ政治的には対立することがあったといいます。特に二人が争ったのは政党政治。伊藤は政党政治推進派、山縣は政党政治反対派。もちろん、ふたりは政党の未熟であり、政党政治家に政治を完全に任せるのは危険だとう考え方は共通しているのです。要するに政党政治家は政策立案能力もなく、海外情勢や軍事にも疎い素人しろうとが政治にかかわるのは危険だという認識です。また政党政治家は私的な利益を求め国家全体を見ていないとも山縣も伊藤も思っていたのです。

ただ、二人の違いは伊藤は未熟みじゅくだからこそ自分たちが育てていかなくてはならないという考え方。一方の山縣は未熟だからこそ政党政治家に政治を任せてはダメという考え方。そんな山縣も政党政治の権化でもある原敬のことは高く評価。「原と自分とは何ら意見の異なるものなし、ただ原は政党を大多数となしてしこうして政党の改良を図るとふも(中略)自分は反対なり。れ一事を除きては何等異なることなし」(『原敬日記』より)というほど。ともあれ、山縣と伊藤は政治的には対立していたけれど、憎しみあったわけではなく、お互いのライバルとしてみなしていて認め合っていたのです。その伊藤がいなくなって山縣はショックを受け、このような詩を詠んだのでしょう。


その山縣ですが、何かと民衆の敵と言われがちです。山縣が亡くなり、大正11年(1922)2月9日に日比谷公園にて国葬が行われました。が、参列者はなんと千人ばかり。二度も総理大臣を務め、さらには軍を育て、元勲として日本の政治に大きな影響を及ぼした人物にもかかわらず。しかも弔問ちょうもんに来たのは軍部の関係者ばかり。政府の関係者はほとんど来なかったのです。当初は一万人は来るだろうといわれていたのに、このありさま。当時の新聞は「民抜きの国葬」と皮肉ったほど。また、当時ジャーナリストだった石橋湛山(のちの首相)は「死も、また社会奉仕」って言ったほど。つまり、「山縣が死んでくれてよかった」っていうことでしょう。


山縣は山縣閥と呼ばれるほどの巨大な派閥はばつをつくり、政界や軍部の関係者はもとより、学界、貴族院、司法省にまで及んだといいます。その山縣閥は、日本の政治史上最大と言われ、吉田茂や田中角栄の派閥など遠く及ばないといわれるほど。それくらいの幅広い人脈をもっておりながら、1000人足らずはさみしい限り。山縣の国葬とちょうど同時期に、大隈重信も亡くなり国民葬が行われたのですが、その参列者はなんと30万人。えらい違いですね。山縣は国民から相当嫌われていたのですね。次回のエントリーで山縣が嫌われる理由をお話しします。