ミハイル・ゴルバチョフは日本で人気の旧ソ連の指導者。ゴルビーと呼ばれ親しまれ、『スマスマ』など日本のバラエティー番組にもご出演されました。ゴルバチョフは日本だけでなく西側諸国でも人気。これまでの旧ソ連の指導者は西側諸国と戦う姿勢を示す人間が多かった。今でいえば北朝鮮のキム一族のような感じでしょうね。それが始めて西側諸国と話し合いができる指導者が旧ソ連に誕生した。西側諸国はゴルバチョフを歓迎し、実際、ゴルバチョフとアメリカ大統領のブッシュ(父のほう)は冷戦を終わらせました。

ゴルバチョフが書記長だった時代に、ベルリンの壁が崩壊し、そしてソ連も崩壊。ゴルバチョフは民主化を進め、ヨーロッパの共産主義国家やソ連を解体し、共産主義国家を自由な国に作り上げた英雄のように思われがちですが、実際はそうでもないのです。ソ連の崩壊はゴルバチョフが望んでいたことではなかったのですね。それとゴルバチョフはロシアでは非常に評判が悪く、むしろ売国奴というイメージが強いです。

ゴルバチョフは大変有能で1979年には異例の若さで共産党幹部に就任しました。その時のソ連はアフガニスタン侵攻をやっていた頃でした。アフガニスタンはまさに地獄絵で昼夜問わずソ連の兵士たちはアフガンのゲリラの攻撃にさらされていました。そんなアメリカはソ連を悪の帝国と非難、西側諸国も経済封鎖を行ったため、ソ連は経済的に困っていきます。さらにアフガンでの戦費も重なるばかり。そして1985年、は書記長に就任。ペレストロイカ(立て直し)を掲げ、政治改革を行おうとしました。ゴルバチョフがまず行ったのは人々との対話でした。全国の民衆(労働者)に直接あって話を聞こうと。民衆の中に溶け込み、謙虚な姿勢をとる人物は、これまでのソ連の指導者にはいなかった。

そしてゴルバチョフはアフガニスタンの撤退を模索。アフガニスタンへの戦費が改革の足かせになる。かといって、すぐに撤退すれば、それは敗北を意味する。ソ連は引くに引けない状況です。

アフガンの問題に加え、ゴルバチョフに試練が訪れます。1986年4月26日、チョルノービリ原発事故が起こります。チョルノービリ?、何それと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これはウクライナ語で、チェルノブイリのこと。チェルノブイリはロシア語なんですね。この原発事故が起こった時、僕は小学生でした。学校でも放射能が日本にやってくるのではないかって、友達もザワザワ騒いでいたのも覚えています。雨つぶの中に放射能が混じっているなんてウワサもあって、雨が降った日は、僕はマジで心配したものです。この大惨事があった当日、ゴルバチョフあての報告書には、「原子炉の建物で火災があったが鎮火した。炉心は冷却されている。近くの住民の疎開の必要はない」と。事故被害の隠ぺいはその後、悪い方向へむきました。チョルノービリ周辺の町の住民に避難勧告が出たのは、なんと翌日の4月27日。これでは放射能の被害を受けた人も多いはず。ゴルバチョフが原発事故の詳細を国民に発表したのは、なんと5月14日。事故から20日以上も経っていたのです。ゴルバチョフはこの事故を通して、国家体制の悪弊を理解し、改革が必要だと実感したのです。

ゴルバチョフがまずは掲げたのは情報公開(グラスノスチ)。これにより共産党員による検閲がなくなり、出版の自由、報道の自由がなされました。

出版や報道の自由だけでなく西側諸国との関係改善にも努めました。1986年にはアメリカのレーガン大統領と対話。ゴルバチョフは戦略核兵器50パーセント削減を持ち掛け、世界を驚かせたのです。198年12月には中距離核ミサイル全廃条約が調印。1988年5月15日にはアフガニスタンからソ連軍が撤退。しかし、ゴルビーの改革は良いことばかりではなかったのです。

1989年にベルリンの壁崩壊を受けて、ソ連つまりソビエト連邦を構成する国々が、ソ連から独立しようという動きが強まります。独立しようとするのは、エストニア・ラトヴィア・リトアニアのバルト三国、カザフスタン、それから今問題になっているウクライナなどの国々です。ソ連は一つの国ではなく連邦国、州や共和国などの複数の支分国が、単一の主権のもとに結合して形成する国家のこと。ガンダムに地球連邦なんて出てきますが、あれは日本やアメリカ、イギリス、エジプトなど地球上のすべての国々を統合してできたものなのですね。

ここでソ連がウクライナやエストニアなどの国家の独立をゆるせば、ドミノ倒し式に連邦が崩壊してしまう。これらの国はガンダムに出てくるジオンみたいにソ連に独立のため宣戦布告をしたか?いえいえ、もっと穏やかな方法をつかいました。たとえばバルト三国は人間の鎖をつくってソ連からの独立をもとめたのです。ゴルバチョフは連邦の維持を求めていたのものの、ソ連からの独立運動の火はとまらず。こうした独立運動はソ連経済にも大きな影響を与えました。

特にバルト三国はソ連の重工業地域で、バルト海を通じドイツやスウェーデンなどとの交流窓口ともなっていたため、その独立宣言による分断はソ連経済全体にも悪影響を与えたのです。ソ連はこうしたバルト三国の独立の動きに黙っているはずがなく、エネルギー供給停止などの経済制裁で対抗し、1991年2月にはリトアニアの首都ヴィリニュスで血の日曜日事件によるソ連軍・警察による武力鎮圧まで起こしたほど。ゴルビーって平和のイメージがありますが、結構むごいこともやっていたのですね。


またゴルバチョフは計画経済から市場経済へ移行しようとしましたが、こうした急激な動きはかえって経済の混乱をまねくばかり。インフレと物不足が市民生活を直撃したのです。悪いことに裏ルート買いだめをする人間も少なかったものだから、モノとりわけ食料が不足したのです。さらに食料を買うのに行列をつくる様子がソ連国内のあちこちで見られたのです。人々のゴルビーに対する不満は高まるばかり。人々の不満を抑えるため、ゴルバチョフはソ連初の自由選挙をおこなったのです。この選挙の結果、共産党のお偉いさんたちが軒並み落選。選挙に受かったのが急進的な改革派の政治家たち。その急進的な改革派の中心人物が次期大統領のボリス・エリツィンでした。こうした状況にゴルバチョフはソ連ではじめて大統領制を敷き、自ら大統領になり権力を高めようとしますが、うまくいかず。


1991年8月になると共産党の保守派たちが軍と手を結びゴルバチョフと対決姿勢を示したのです。ゴルバチョフは軍に軟禁されてしまうのです。同じころモスクワに突如戦車が数台も現れたのです。これは保守派たちによるクーデターだったのです。ふたたび共産党による恐怖政治がはじまるのか。これには市民たちが立ち上がりました。市民はバリゲートをつくりクーデターに抵抗したのです。クーデターは軍の離反もあって失敗におわります。ゴルバチョフも解放されましたが、このクーデターの責任はゴルバチョフにもあるということで、共産党トップの座も追われてしまいます。これを機に、ソ連の構成国家だったウクライナやバルト三国がすべて独立。1991年12月25日、ゴルバチョフは自ら大統領の座を辞任し、ソ連の消滅を宣言。これで70年にも及んだソ連は歴史の舞台から消え去ったのです。ゴルバチョフは自由への扉を開きましたが、その一方で政治の混乱と経済の破綻、そして国家の崩壊をも招いてしまったのです。そんなゴルバチョフは経済の破綻を招いた張本人として冷遇され続け、2022年8月30日に亡くなりました。


*おまけ
旧ソ連の伝説的ロックバンドのキノーの「ペレメン」(変化を!)という歌を。この歌は現状の変化を望む歌で、若者たちの心をたきつけていきました。若者たちの非公式国歌としてあちこちで歌われていたのです。ロックは旧ソ連では西側諸国の堕落した音楽とみなされ、ロックを歌うことは長いこと禁じられたのですが、ゴルバチョフの登場により、ロックも解禁。この歌のことはゴルバチョフも知っていて、「人々が公然と『我々は変化を求めている』と言っているのだ」と語ったとか。

このバンドのボーカルは、ヴィクトル・ツォイ。父は朝鮮系移民で母はウクライナ出身のロシア人。ボイラーマンとして働きながら音楽活動をしておりました。若者たちにとってカリスマ的存在でしたが、1990年8月15日、交通事故で28歳の若さで亡くなります。




*この記事は『映像の世紀』を参考にして書きました