きょうは聖武天皇の皇后だった光明皇后について。彼女は仏教を熱心に信仰していて、東大寺および国分寺の設立を夫の聖武天皇に進言したと伝えられています。光明皇后は藤原家の出で、はじめは光明子と言われておりました。藤原氏が権力を維持するために光明子を天皇家に嫁がせたのです。光明子が男の子を生めば、その子は天皇になる。つまり藤原家の血が入った天皇が誕生する。これは藤原家にとってはまさにおめでたい事。藤原氏は天皇の親戚ということで権力を握れる。藤原氏の未来を託されたのです。いわば政略結婚。

光明子は男子を出産。これで藤原家は万々歳。しかし、すぐに悲劇が訪れます。神亀じんき5年(728)9月、皇太子が幼くして亡くなるのです。悲しみにくれる光明子。

さらに長屋王の変という事件が天平元年(729)におこります。長屋王の変からすぐさま、光明子に光明皇后となります。長屋王は皇室の人間で左大臣の地位にありましたが、藤原家との関係は芳しくなかったです。長屋王は謀反の疑いをかけられ自殺をしますが、これは藤原家が邪魔者の長屋王を陥れたといわれております。藤原氏は藤原家から皇后をだそうとやっきになっていたのです。この時代、皇室の人間以外のものが皇后になるのはあり得なかったこと。皇后というと天皇の奥さんってイメージがありますが、それは現代の感覚。この時代、皇后とは時に天皇にかわって政治を行うことができる立場という意味合いがあったのです。

皇后になった光明子は救貧施設の「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して、病人や孤児の保護や治療を行ったといいます。また諸国から献上させた薬草を無料で貧しい人たちに与えたともいわれております。また浴室からふろという公衆浴場、今でいうサウナもつくって病人たちをいやしたといいます。

こうした光明皇后が慈善活動を行った理由は彼女自身の性格もあると思いますが、長屋王の変にも理由があるのではないかと。この変では長屋王ひとりが自殺をしたのではなく、長屋王の正室や複数の息子も亡くなったのですね。光明子は藤原家の陰謀によって皇后になれた上に、そのために長屋王の家族が犠牲になったのです。そのことに対し光明皇后は罪の意識を持っていたのかもしれない。罪滅ぼしのために、こうした慈善活動を行った可能性があります。

このころ、天然痘が猛威を振るっておりました。光明皇后の兄たちである藤原四兄弟たちも天然痘にかかり次々と亡くなったのです。身内が次々となくなるという不幸があっても、光明皇后はけなげに夫の聖武天皇を支えつつ公務にあたったのです。天平10年(738)には、聖武天皇と光明皇后の一人娘である安倍内親王を皇太子とたてました。これまで女性が皇太子になる前例はなかったのです。そして安倍内親王は天平勝宝元年(749)に孝謙天皇となります。聖武天皇は上皇、光明皇后は皇太后になりました。この時、光明皇太后のために紫微中台しびちゅうだいという役所がつくられ、その役所の長官に藤原仲麻呂が就任。紫微中台という役所は、光明皇后の 意志 の 伝達 ,日常生活等を営むためにつくられたものです。

藤原仲麻呂は光明皇后の甥にあたり、非常に有能な人物でした。仲麻呂は政治の実権を握っていったのです。

聖武天皇が亡くなると、次期天皇問題が出てきます。孝謙天皇には子供がいなかったので、孝謙天皇の次の天皇を誰にするかということになったのです。候補者は二人。道祖王ふなどのおう大炊王おおいのおう。聖武上皇は遺言で次期天皇を道祖王にしろといったのです。道祖王は天武天皇の孫で血筋的には問題がない。しかし、素行が悪く評判がよくない。一方、大炊王は道祖王のいとこで藤原仲麻呂は大炊王押しでした。大炊王は人間性は悪くないが、仲麻呂の言いなりでした。自分が生きているうちは仲麻呂を抑えることができるが、自分が死んだら孝謙天皇はやり手の仲麻呂に悩まされるにちがいないと。光明皇后はどちらを次期天皇にするか悩みます。亡き夫のいうことを聞いて道祖王にすべきか、大炊王を支持すべきか。

結局、光明皇后は大炊王を次期天皇として支持したのです。大炊王はのちの淳仁天皇となります。光明皇后は本当に苦しかったと思います。自分が子供を産んでいれば、こんな次期天皇選びに悩むことなどなかったろうにって。とはいえ、次期天皇が無事に決まって光明皇太后もほっとしたと思います。光明皇太后は天平宝字4年(760)6月7日に崩御します。


光明皇后といえば、こんな言い伝えもあります。施薬院にて千人のアカを洗い落とすことを発願した皇后がその通りに人々を世話していたところ、最後の千人目に重症のハンセン病患者が現れ、皇后にウミを口で吸い出すよう要望し、彼女がその通りにすると、病人は正体を現し阿修羅如来となったというもの。その千人目が本当に如来様だったかどうかはわかりませんが、皇后がそれくらい優しい方だったということでしょう。


皇后の姿勢を見ていると、中国の作家・方方さんが書かれた『武漢日記』の一説が浮かびます。


「一つの国が、文明的であるかどうかの尺度は、高層ビルや、車の多さや、強大な武器や、軍隊や(中略)世界各地で豪遊する旅行客の数ではない。唯一の尺度は弱者にどう接するか。その態度である」


本当にそうだなって。

*この記事は『英雄たちの選択』を参考にして書きました。