1 応仁の乱とは
応仁の乱は応仁元年(1467)から文明9年(1477)までなんと11年も続いた内乱です。時の将軍足利義政。足利義政には跡取りがおらず、弟の足利儀視アシカガヨシミを次期将軍に任命しました。ところがすぐ後に足利義政の正室の日野富子が男子を出産。のちの足利義尚あしかがよしひさ。日野富子はわが子を次期将軍にしたい。困ったのは足利義政。そんな将軍跡継ぎ問題に、山名宗全やまなそうぜん細川勝元ほそかわかつもとがからんできたのです。二人は幕府の実権を握り激しく対立していたのです。細川家は代々、管領をつとめてきた名門。管領とは将軍の補佐役で、いわばナンバー2の立場。また細川は土佐、讃岐、摂津、丹波をおさめる守護職(*1)にありました。いっぽう、山名氏は侍所(*2)という役職についていました。山名は安芸、備後、播磨、但馬の守護でもありました。応仁の乱は、将軍の跡取り問題にからんで、山名と細川の対立によりはじまったのです。細川が東軍、山名は西軍。山名が陣をを構えたところが、いまの京都の西陣。西陣織でも有名ですね。


2 発端は畠山家の跡取り問題
ですが、この応仁の乱のそもそもの発端は、将軍の跡取り問題というより、畠山家の内紛でした。畠山氏は越中、山城、河内、紀伊を治める守護でもあり、細川家とともに畠山家も管領の役職でした。応仁の乱からさかのぼること19年前、時の当主、畠山持国はたけやまもちくにが次期当主を弟の畠山持富はたけやまもちとみではなく、持国の息子の畠山義就はたけやまよしひろに変えてしまったのです。そのことを足利義政は認めてしまったのですね。そして畠山持国は失意のうちに亡くなったのです。そのまま義就が当主となって丸く収まるかと思いきや、持富には息子が二人もいたのです。兄の畠山弥三郎とその弟の畠山政長。あろうことか義就が家督を継ぐことに納得がいかない畠山の家臣たちが、弥三郎&政長兄弟を担ぎ上げてしまったのです。

そして義就と弥三郎&政長が争い、弥三郎&政長兄弟が勝ってしまったのです。すると、それまで義就支持だった足利義政は、あっさり畠山弥三郎の家督相続を認めたのです。それが足利義政は今度は弥三郎を家督を無理やりおろして、再び義就に戻してしまったのです。これで丸く収まるかと思いきや、畠山家の家督争いは続き、今度は畠山義就と畠山政長の対立となったのです。畠山家は泥沼化。そこへしゃしゃり出たのが足利義政。義政はとうとう、義就を自分の言うことを聞かないという理由で追放したのですね。これで畠山家の家督は畠山政長になりました。納得がいかないのは追放された義就。義就は吉野にのがれチャンスを待ったのです。そして文正/応仁元年(1467)1月18日。畠山義就が動いたのです。政長のいる御霊林ごりょうばやしに攻め込んだのです。この義就と政長の御霊林の戦いが応仁の乱の発端となったのです

実は、義就をそそのかしたのが、山名宗全だったのです。そして山名は義就に援軍を出したのです。一方の細川勝元は政長の味方をしていたのですね。細川勝元は山名が義就の味方を出したことに黙っておらず、援軍を送ろうかと思ったものの、将軍足利義政の命により手出しをしなかったのです。足利義政は山名と細川の両氏に畠山の内紛に手出しをするなと命じたのですが、山名は無視。一方の細川は将軍の命に従い援軍を送らなかったのです。そのため、御霊林の戦いでは山名の援軍を得た義就の勝利。しかし、御霊林の戦いで戦は終わらず、山名側と細川側それぞれに各国の大名たちが加勢し、どんどん泥沼化。山名と細川は京の町を舞台に激しい戦をくりひろげたのです。山名の西軍は11万、さらに細川の東軍が16万。総勢27万もの軍勢が相争ったのですね。



3 長期化した理由
しかも悪いことに、足利義政が細川の味方をしてしまい、弟の足利義視を東軍の総大将に任命。山名率いる西軍は幕府に逆らう逆賊となってしまったのです。本来、両者の調停役をやらなきゃいけない将軍が細川の味方をしたため、ややこしいことになったのですね。

これで西軍が不利になるかとおもいきや、山名は大内政弘を味方につけたのですね。大内の軍勢は8万。この大内の大軍を得た西軍は形勢逆転。これには東軍の大将だった足利義視はにげだしてしまったのですね。ますます戦はひどくなり、京にあったいくつもの寺が焼けてしまい、将軍が暮らす花の御所も半焼してしまったのです。これに怒った足利義政は後花園法王に山名討伐の院宣を出すように頼みます。とうとう山名は朝敵になってしまったのです。これで戦が収まるかとおもいきや、なんと足利義視が西軍に就いてしまい、西軍の士気があがってしまったのですね。なぜ義視が西軍に寝返ったのかというと、将軍家では日野富子の実家の日野家が幅を利かせ、義視の居場所がなかったのです。日野富子はわが子の義尚を将軍にしたい。すると義視は邪魔者でしかない。追われるように義視は西軍側に行ってしまったのです。こうした足利一族の腰の定まらなさも長期化の一因。


応仁の乱には各地の守護大名たちも参戦しましたが、各地の守護大名たちも近隣の守護大名たちと、もともと対立していたのです。たとえば、丹後の一色氏(西軍)は若狭の武田氏(東軍)は領地争いをししていたし、斯波氏(西軍)と今川氏(東軍)も遠江の地をめぐって対立。六角氏(西軍)と京極氏(東軍)は近江の守護の座をめぐって対立していたのです。守護大名たちの対立構造を抱えたまま、応仁の乱に参戦してしまったのです。これも応仁の乱が長期化したことの理由なんですね。

また、乱がはじまると大名たちは自分の屋敷に井楼せいろうと呼ばれるヤグラをつくりました。物見やぐらでもあり、このヤグラから敵を攻撃することもできます。さらに屋敷の周りに堀も巡らせ敵の侵入を防いだのです。そのため、敵の屋敷を攻撃するのに手こずってしまい、これも応仁の乱が長期化してしまったことの一つ。

足軽の登場も長期化した理由の一つでした。足軽は戦国時代のイメージもありますが、応仁の乱からすでに存在したのですね。この時代の足軽の任務は放火や略奪。しかも金で雇われた傭兵。主君に対する忠義などなく、やりたい放題だったようです。こうした足軽たちのやりたい放題も戦を長期化させた理由の一つ。

文明3年(1471)には京で天然痘が大流行。もはや戦どころではなくなったのです。さらに翌年の文明4年(1472)には細川と山名の間で和睦交渉も始まったのです。さらに、戦争の当事者だった山名宗全と細川勝元の二人が文明5年(1473)に亡くなってしまったのです。が、結局、戦争は終結せず、1477年まで続いたのです。応仁の乱は勝者も敗者もなくうやむやのまま終結したのです。



※ この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。







*1 国ごとに置かれた軍事や行政の指揮官
*2 京の警備や裁判を担当