現在放送中の、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。僕も最近は忙しくて見たり、見なかったりです。戦国と違って、あんまり馴染みのない時代のせいか、いまいち筋がわからず、途中で退屈になったりするのですが。それでも三谷幸喜さんのコミカルな脚本に笑ってしまいます。さて、鎌倉殿に源実朝が出てきて柿澤勇人さんが好演されていますね。

これまで僕が習った歴史では、実朝は政治には興味がなく、和歌と蹴鞠しか興味がなく北条氏の言いなりみたいな印象があったのですが、実は非常に政治的センスがあった人物があったのです。そのことを、この間録画した「英雄たちの選択」を見て驚いたのです。

和歌も蹴鞠も、ただ自分の趣味でやっていたのではなく、朝廷、特に朝廷のトップの後鳥羽上皇に接近するためにおこなっていたのです。後鳥羽上皇は『新古今和歌集』の編纂にも関わったほどの風流人であり、また、この時代は和歌が実際の政治を行う上で重要な役割があったのですね。

この時代は、高貴な家柄の人物が和歌を詠むことで天災、災害、天候にも影響を及ぼすとマジで信じられたのですね。武士が有力な貴族と付き合うためにも和歌は必要な教養だったのですね。後鳥羽上皇は、源実朝を大層気に入ったと言います。偉大な父源頼朝を失い、兄も暗殺され、周りにいる御家人たちも北条家を中心に面従腹背の人間ばかり。実の母親である北条政子さえイマイチ信用できない。そんな八方塞がりの状況の実朝にとって、後鳥羽上皇は頼もしい味方であり、父親代わりの人物だったのでしょうね。

ものいはぬ 四方のけだもの すらだにも あはれなるかな 親の子を思ふ



という和歌を実朝は詠んでいるのですね。意味は、動物と言えども親が子を思う心があるんだなって意味。逆に言えば、実朝には実の肉親さえ信用できない苦しい状況だ、と言う心境も伝わってきます。また、こういう和歌も後鳥羽上皇に送っております。


山は裂け海は浅せなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも


大意は、山が裂けたり、海が浅くなるようなひどいことになっても、あなた(後鳥羽上皇)に対する忠義は忘れません。という意味。

さて、実朝は政治に関心がないどころか、実朝は承元3年(1209年)、政所を開設し、将軍の権力を高めようとしたり、幕府の御家人たちを集め朝廷の警護にあたらせたり。朝廷は独自の軍隊を持っていませんから。

北条義時に対しても意見も言っていたのですね。

ある日、北条義時が「自分の家臣の地位(ついで自分の地位も)あげてくれ」と自分を特別扱いするように求めるも、実朝はそれを拒否したのですね。でも、北条氏にとって面白くないのですね。自分達の意のままに動いてくれない将軍なんて。

そんなおり、事件が起こります1213年、幕府の有力御家人だった和田義盛が義時のやり方に耐えきれず、北条氏打倒のために兵を挙げたのです。当時の和田義盛は侍所別当という職にありました。今でいえば防衛大臣と検察庁長官を兼ねたような地位です。そんな人が兵をあげるのですから、その当時の混乱ぶりがいかにひどかったか伺えます。その和田に味方したのが、三浦義村でした。彼は戦が始まる前までは和田に同調してたのですが、いざ戦が始まると北条義時に味方したのですね。三浦は北条と密約を交わしていて、和田の動きを逐次報告していたのですね。和田は完全に孤立します。和田と北条は二日間戦い続け、そして和田義盛は死んでしまうんです。いわゆる和田合戦です。この戦に勝利した北条義時は侍所別当になります。

こうした御家人同士の混乱ぶりに、後鳥羽上皇は、実朝に対して「こいつ、政治家としての統治能力がないんじゃないか」って疑われてしまうのです。さらに悪いことに1213年には鎌倉大地震が起こります。この時代、地震とか台風とか大きな災害が起こると、為政者の政治が悪いんじゃないかってマジで思われていたのですね。今と全然違いますね。こうしたこともあって後鳥羽上皇の実朝に対する信頼も失いつつあるのですね。そこで実朝はへこたれずに、和田合戦のような出来事が起こらないように、御家人たちとコミニケーションをとって、御家人たちの不満にも耳を傾けたのですね。そうして、御家人お意見を聞きつつ積極的な政治を行った実朝の姿勢に、後鳥羽上皇も喜んだのですね。

さらに、実朝は将軍の権威を高めようと、大きな船を作ります。大きな船を作って宋に渡って、貿易を行おうとしたのでしょうね。しかし、造船には莫大な金がかかるということで御家人の長老であり、将軍の諌め役の大江広元たが大反対するのですね。それでも実朝は造船を強行。結局、設計の失敗で、船は出航できず。

一方、実朝は朝廷の権威を持って御家人を抑えようとします。そんな実朝の心に応えるかのように後鳥羽上皇は実朝に官位を授けます。1211年の非参議から始まって、1218年10月には内大臣、同年12月には右大臣にまで昇進。あまりにも急な官位の上がりっぷりに御家人の間でも不安に思う声も上がり亜ます。この時代、あまりに短期間で官位が上がると不吉だと信じられていたのですね。

こうして後鳥羽上皇と強いつながりを持っていた実朝ですが、ウィークポイントがありました。それは跡取りがいないことでした。為政者に子供がいないというのはこの時代は致命傷です。なぜなら、この時代は為政者は世襲なのが当たり前。為政者が世襲だと何かと叩かれる令和とは、まるで違います。そこで、実朝は自分の後継者を後鳥羽上皇の皇子を自分の後継者として迎え入れようとしたのです。これは後鳥羽上皇にとっても悪い話ではありません。息子を実朝の跡取りになることで、実質的に朝廷は東国の強大な軍事力を手にいれ、幕府も思いどおりに支配できると。

そんな後鳥羽上皇と実朝の構想に不満を持つ人たちがいました。北条家はいうまでもありませんが、もう1人、公暁という人物です。公暁は、実朝の兄、源頼家の子供です。公暁と実朝は、おいと叔父の関係ですね。公暁だって将軍になれる資格があったのに、自分を差し置いて、将軍に天皇の子を迎えるなんて、とんでもないって思ったのです。実際、公暁が実朝に対する呪詛をしているというウワサもあったほど。

そして、公暁は実朝を呪い殺すことをやめ、実朝を実際に殺すことを企てます。1219年正月28日、実朝の右大臣拝賀の儀式がおこなれました。これは実朝が右大臣になったことにお礼をいう儀式です。その儀式が鶴岡八幡宮で行われました。儀式を終えた実朝が鶴岡八幡宮の階段を降りていく途中、公暁に突然斬られてしまうのです。その公暁も三浦義村に殺されてしまいます。

実朝暗殺の知らせをしった後鳥羽上皇は大層驚きます。我が子当然のように接してきた実朝の死に後鳥羽上皇は激怒。朝廷と幕府の関係は悪化。これが承久の乱につながります。もし、実朝が殺されなかったら、承久の乱も起こらなかったし、南北朝の動乱だって起こらなかったかもしれない。そして、その後の歴史も変わっていたかもしれません。

※ この記事は「英雄たちの選択」を見て書きました。