以前に、戦前は格差社会だったというお話をしましたが、あの時お話ししたのは、大正の終わりから、昭和の初期のお話。今日は明治のおはなしをします。明治維新以降、明治新政府は、近代化をどんどん推し進めました。西洋の様々な文化が日本に入って来て、ガス燈や、鉄道、太陽暦、西洋の様々な法律、それから洋服に洋食といろいろなものが入ってきました。近代化が急ピッチで進んで、日本は一等国を目指す一方で、そうした日本の急激な変化についてけない人々も出てきます。何事にも光の面と影の面があります。今日はその辺のお話ができればなと。

新政府は元々財政難でした。江戸幕府を倒したのは良いけれど、その財政基盤がまだ出来上がっていない状況のまま、国の舵取りをすることになったのですから。様々な改革を行いましたが、改革にはお金がかかります。それで政府は紙幣を大量に発行したのです。そのためインフレになってしまったのです。僕も子供の頃、思いましたね、お金がないというのなら作れば良いじゃんって。しかし、僕も見た目だけは大人になってw、それはインフレを起こしてお金の価値が下がってしまうから良くないのですね。かつてのドイツもすごいインフレになって庶民は困ってしまったのですね。パン一斤を買うのに何百枚の札束を用意しなくてはならなくなる。そのインフレによる窮乏がヒトラーの台頭を許してしまうのですね。

おっと、話が少し脱線しましたねw。さらに悪いことに西南戦争が起こってしまったから、その戦費のためにさらに政府は紙幣を大量発行、ますますインフレになります。そんな状況の中で、松方正義が大蔵大臣になります。彼は緊縮財政を行い、国営の工場を民間に払い下げなどを行いました。いわゆる松方財政です。しかし、彼の急ピッチな財政改革はデフレを起こしたのです。それに加えて、冷害で作物が育ちにくくなりました。地方の農民たちは、小作人になって地主に雇われたり、仕事を求め都会に出て来たりしました。農民じゃなくても人々の暮らしもデフレの影響で苦しくなります。そんな状況でも、時代の波に乗ったり、はたまた政府のお偉いさんに取りいって成功する者たちも出てくるわけです。例えば、岩崎弥太郎とか。いわゆる格差社会になるのです。

貧しい人たちは貧民窟とよばれるスラム街に住むようになります。東京にもあちこち貧民窟がありましたが、とりわけ、下谷万年町(台東区東上野)、芝新網町(港区浜松町)、四谷鮫河橋(新宿区若葉)が東京の三大貧民窟と呼ばれました。貧民窟が新聞で初めて取り上げられるのが明治十九年(1886)。

その記事には「人間の住む家とは思えぬ」と書かれておりました。

住居は4畳一間で、そんな狭いスペースに5、6人も住んでいる。そこに住んでいる住民はアカまみれ、男か女かわからない、まるでケモノのようだと。おそらく髪もボウボウに伸びていて、男性はヒゲがボウボウ。服もボロボロ。お風呂にもロクに入れないから、アカまみれ。体臭もひどい。服を買うお金、おしゃれをするお金もないほど貧しいってことでしょう。しかもフトンもレンタルだったというから、そのレンタル料金もバカになりません。

ろくな仕事もなく、あっても「もうろう」というお仕事か、内職くらい。これは人力車の車夫の仕事ですが、今日の観光地で見かけるような、かっこいい車夫のお兄さんのイメージとは大きく異なります。「もうろう」とは車夫の組合に入れないようなモグリの車夫で、給料も激安。一日7・7キロ走っても16銭しかもらえなかったのです。車夫のユニフォームは腹掛けに股引き法被と決まっておりましたが、それも、お金出してレンタルしなきゃいけない。要するに自前。普通の車夫業者のようにユニフォームをくれないのです。

そして幼い子供は奉公に出されてしまうのです。


また、新聞には「こんな世に何の望みがあって命を惜しんでいるのだろうか、むしろ、この世を捨てた方が楽なんじゃないか」とも書かれておりました。