第二次世界大戦において、日本が破滅の道を歩んだ、その第一歩というのが日独伊三国同盟です。これは、1940年9月に調印されました。3国のアジアとヨーロッパにおける指導的地位を確認し、もし、この三国が敵から攻められたら互いに助け合うというもの。これにより、日米との対立は決定的になり、アメリカと日本の戦争につながります。

そんな日独伊三国同盟締結を反対する声はなかったのかとお思われますが、実際、日本国内でも反対意見が少なくなく、こんなものを締結したら大変なことになるという声もちらほら。西園寺公望は、「ドイツだけが得をするもので、日本にとって非常に不利なもの」と懸念を示したほど。国内の反対意見を押し切ってまで成立した日独伊三国同盟。この日独伊三国同盟を強烈にプッシュした人物がいました。その人物は大島浩。

大島浩は、陸軍軍人で、父はの大島健一は陸軍大臣にまでなったほど。大島健一は薩長出身でないにも関わらず、陸軍大臣になれたのは山縣有朋に気に入れられたことも大きかったとか。

大島浩はドイツ語が堪能で、ドイツ通と呼ばれておりました。一概に言えませんが、「○○通」と呼ばれる人は大局的なものの見方、広い視野で物事を見れない傾向があり、また自分が気に入った人物やものに深く入れ込むことがあり、客観的な判断ができないことがあるのですね。また大島にかぎらず、陸軍はナチスドイツに入れ込んでいたのですね。

大島浩は1921年以降、ドイツに断続的に滞在し、ドイツにおいて人脈を広げ、1933年以降は、ナチスの幹部とも個人的につながっていきます。そして大島はリッベントロップという人物に出逢います。リッベントロップは元々はビジネスマンでしたが、ナチスに入党して、ヒトラーに気に入られ、出世していたのです。大島はリッベントロップとの個人的な関係を通して、ドイツと日本の距離を縮めていこうとします。1936年には日本とドイツとの間で防共協定が結ばれますが、これも大島の強い働きがあったからと言います。これは日本とドイツもどちらも反共産主義を国策としてとっている。ともに共産主義、とりわけソ連と戦おうというもの。


しかし、協定が結ばるその間、外務省が防共協定につきイギリスとも何らかの話し合いが必要だと言ったのですね。日本はイギリスと同盟を結んでいましたからね。それを陸軍が強硬に拒否、外務省はイギリスへの工作を伴わないで、ドイツとだけ提携しようとするのはまずいんじゃね?と反論。陸軍はそれを譲歩したと言います。合わせてこの協定がソ連を過度に刺激したり、イギリスに不安を抱かせることがあってはならないことも強調することを確認の上で協定が結ばれました。が、結局、この協定は各国に不信感を抱かせるのですね。よりにもよってナチスと結ぶわけですから。

その後駐ドイツ大使であった東郷茂徳を退け、1938年(昭和13年)自らが駐独大使に就任したのですね。そして、同じ年、大島と関係の深かったリッベントロップもドイツの外相に就任します。

そんなドイツも1939年に独ソ不可侵条約が結ばれます。これはドイツとソ連が戦争するのをやめようという取り決め。それにショックを受けたのが日本。それまで日本はドイツと一緒にソ連と戦おうと約束したのに。日本は裏切られた気分でしょう。時の首相の平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇たる新情勢を生じた」と述べ総辞職をしたほど。大島もドイツの動きを見抜けなかったということで、その責任を負いドイツ大使を辞めてしまったのです。

しかし、その後もドイツは日本と同盟を結ぶことを模索していたのですね。ドイツはフランスを陥落させ、イギリスに空爆をするなど破竹の勢いでした。そんな状況でしたが、アメリカがイギリスを助けるとなると状況も違ってくる。当時のアメリカは第一次世界大戦で痛手を負っていたため、ヨーロッパの戦争に関わりたくなかったのですね。それでもアメリカが参戦すればドイツは不利になる。一方の日本はアメリカとの関係も悪くなっている。それでドイツと日本が手を結べば、いくらアメリカといえど、日本、ドイツ、それとイタリアを相手に戦うのは難しいだろうという計算がドイツにあったのですね。

また、日本もアメリカと対立が深まって、ドイツの協力が得られるのはありがたい。それとアジアの権益をドイツに認めてもらいたいという思惑がありました。独ソ不可侵条約で仲間割れするかと思いきや、ドイツと日本は再び接近します。しかし、それは友情というものでは決してなく、お互いの思惑があっての話。

1940年8月13日、ドイツはベルリンの日本大使館に正式な同盟締結に向けた交渉を通達。9月7日にリッベントロップの指揮の元で特派公使としてハイリンヒ・スターマーという人物が来日します。そのスターマーが日本に来る際、真っ先に訪れたのが大島浩の自宅だったと言います。それから、スターマーはドイツの駐日大使を伴って松岡洋右外相とあい日独伊三国同盟の交渉に当たったと言います。日独伊三国同盟の主要な条文は以下の通り。




第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ歐州ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亞ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。



カタカナと難しい漢字ばっかで読みづらいですねw要するに、「日本とドイツとイタリアは同盟を結びますよ、日本がアジアを支配をするのを認めますよ、でも、それぞれの国が他国から攻撃を受けたら、政治的に経済的に援助しなさい」、ということでしょう。それと、それに加えて、ドイツは自動参戦権を条文に明記しろと要求したのですね。これは、ドイツがアメリカと本当に戦う羽目になったら、日本はすぐに参戦してドイツともにアメリカと戦えというもの。もし、これを認めたら日本は自動的にアメリカと戦う羽目になる。それでなくても日本は中国と戦って泥沼化。そんな状況でアメリカと戦ったら間違いなく日本は破綻する。

松岡も馬鹿じゃないから、松岡と自動参戦の明記を求めるスターマーの交渉の結果、自動参戦の件は、条約本文には書かないで、交換公文、つまり個人的なプライベートな手紙に「第三条の対象となる攻撃かどうかは、三国で協議して決定する」と書いたのですね。それで自動参戦条項は事実上空文化したのです。これで、日本はアメリカとの戦いは一応避けられたのです。しかし結局、1941年の真珠湾攻撃で、松岡の苦労は台無しになるのですが。

また、松岡は日独伊だけでなく、ソ連も同盟に加わってくれることを期待しましたが、それは叶わぬ夢となりました。

一方の大島は、1940年12月に駐独大使に再任されました。一度はクビになったのに、また再任されたのは、ナチスとの個人的なつながりがあるから良いだろうと思われたからでしょう。1941年3月27日には松岡洋右外務大臣のベルリン訪問時には松岡・ヒトラー会談に同席したと言います。戦争が終わって、松岡も大島もA級戦犯になり、松岡は裁判の途中で病死、大島は終身刑になりましたが、1955年に恩赦が出て仮釈放。その後、自民党からも議員にならないかってオファーが来ましたが、大島は拒否。大島は日独伊三国同盟締結に動いたことへの責任を感じており、重大な過ちであったと自ら認めています。

しかし、一方でヒトラーへの心酔ぶりは晩年まで変わらなかったようで、「ヒトラーはいろいろ悪く言われるようだけでも、天才であることは間違いない」って評していたそうです。そんな大島も1975年に亡くなりました。享年89歳。




※ この記事は「英雄たちの選択」を参考にして書きました。

また、こちらの本も参考にしました。