赤穂浪士は吉良邸討ち入りをして、最後は切腹をしてしまうのですが、その間、4つの大名家にお預けになるのですね。寺坂吉右衛門を除く四十六人がお預け入れになったのです。長府藩毛利家、松山藩松平家、岡崎藩水野家、そして熊本藩細川家です。長府藩というのが出てきますが、これは長州藩とは別の藩です。一応長府藩は毛利家で長州藩の毛利家とは親戚なのですが。幕末、長府藩と長州藩は初めは対立するものの、のちに協力し倒幕運動に参加します。

細川家 大石内蔵助 堀部弥兵衛 吉田忠左衛 原宗右衛門など17名
松平家 大石主税 大高源五 不破数右衛門 堀部安兵衛など10名
毛利家 竹林唯七 杉野十平次 前原伊助 など10名
水野家 神崎与五郎 矢頭右衛門七 など9名



4家に分けることで、上杉家の仕返しを防ぐこともできたのですね。吉良上野介には息子の上杉綱憲がいて、綱憲が上杉家の養子となり家督を継いでいたのです。父を殺されたというので、仕返しに赤穂浪士たちを暗殺する可能性もあったのですね。それで幕府はお預け先の4家に「上杉がどう出るかわからないので、その覚悟で念入りに引き取るように」とお達しをしたのですね。浪士たちは4家に引き取られる前に、大目付の仙石久尚の屋敷に一旦預けられたとのですね。それから4家がそれぞれ浪士たちを引き取るのですが、その際、4家は藩士たちを仙石邸に派遣。その数千四百人。その引き取りは夕方から夜の間に行われたので、仙石邸の周りには多くの藩士たちが提灯を持っていて囲んでいたので、ある種のイルミネーションみたいな感じだったようです。そうして浪士たちはカゴに入れられ、各屋敷に運ばれたのです。実は4家は待遇が違ったのですね。

松平家と毛利家は罪人扱いで、特に毛利家は浪士をカゴで運ぶ際、錠がかけられ、さらにその錠にアミまでかけられた念の入れよう。まるで天下の大悪党扱い。狭い長屋に押し込められ、長屋の窓には板が突きつけられ、外が見えないようにしたと言います。家族に手紙を出すなんてもってのほか。毛利がここまでひどい扱いをしたのは、長府藩が残酷だったわけじゃありません。長府藩は小大名で幕府の機嫌を損ねたら大変ということで仕方なく冷遇したのです。

水野家は良くも悪くもないみたいな感じだったようです。

4家でいちばん待遇が良かったのは、細川家。浪士たちを藩主の細川綱利が自ら出迎えたのですね。他の藩では家老とか重臣が対応だったので、えらい違いですね。そして綱利は浪士たちを褒め称えたのですね。その忠義に感服したと。現代の価値観だと赤穂浪士は夜中に老人を襲ったテロリストでしょうけれど、この時代は武士道が生き残っていた時代。主君の敵討ちは悪いことではなかったのです。実際、徳川綱吉も浪士を処罰するか生かすかどうか悩んだのですね。天下の法を犯したのはまずいが、忠義を全うした浪士たちを殺すのは惜しいって。

さらに綱利は幕府の許しがあれば彼らを召抱えようとしたと言います。ずいぶん大胆ですよね。さらに細川家は浪士たちを長屋に押し込めたりせず、書院の広間二間をあてがえられ、新調した小袖、上帯、下帯まで与えられ、時どき取り替えてくれたと言います。しかも、家族に手紙まで出して良いとのこと。他の3家だったら考えられません。浪士たちの手紙を家族に届けたのは細川家家臣の堀内伝右衛門。彼が浪士たちの世話役をしたのです。彼は「幕府から咎めがあったら自分が切腹して責任を取るからなんでも言いつけてほしい」とまで言ってくれたそうです。堀内は浪士たちの行動に感服していたのですね。

食事の方もよくて藩主たちと同じ二汁五菜。贅を尽くしたものが出され、酒が飲めるものには酒を、飲めないものには甘酒を振る舞ったと言います。おやつや夜食のうどんまで出されたというから至りつくせり。他家は罪人扱いで粗末な料理だっただけにえらい違いです。ここまで至りつくせりやだったから、浪士たちはさぞ満足かと思いきや、一人不満を持っている人物がいました。

それは大石内蔵助でした。「もっと贅を尽くしたものを出せ!」と言った❓まさか、むしろ逆でした。内蔵助は長く浪人暮らしで粗末なものを食べていたので、逆に体が受け付けず、玄米やイワシなど質素なものにして欲しいと頼んだのです。しかし、藩主の命令で内蔵助の言い分は聞き入れられず、ますます贅沢な食事になったようです。また、内蔵助は大変な寒がりでした。寝るときは頭巾を被り、掛け布団に加え、こたつ布団までかけていたと言います。これは他の3家だったら、まず許されないでしょう。



実はこうした細川家の厚遇に影響されたのか、水野家や毛利家の浪士への待遇も変わりました。水野家は当初は浪士たちを長屋に押し込めていたのですが、江戸の三田にあった中屋敷に浪士たちを移したちを厚遇したのですね。三田といえば慶應義塾大学があるところですね。毛利家も浪士たちの待遇も改め、藩主との謁見の際には二汁五菜を与え、菓子、酒、火鉢なども供しました。


このように4家の待遇の違いから、庶民たちは狂歌を作りました。なんてたって庶民は赤穂浪士の味方でしたからね。

「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」

これは細川と水野は浪士たちを優遇したが、毛利と松平は冷たかったという皮肉がこめられております。実際、毛利は浪士たちを厚遇するようになったのですが、初めのイメージが悪かったせいで、後々まで悪く言われてしまったのですね。毛利家も気の毒だなって。

そして浪士たちが4つの家に預けられて一ヶ月、元禄16年2月3日夜、細川邸で数人の浪士たちは堀内伝右衛門に余興を見せたと言います。浪士たちは当時人気の元禄歌舞伎の真似事をしたと言います。それをみた堀内はニコニコと楽しんだと言います。浪士たちは、もうすぐ自分達の御沙汰が出る。おそらく自分達は処罰されるだろう。その前にお世話になった堀内殿にお礼をしたいと思ったのでしょうね。

そして翌日の2月4日。寺坂を除く四十六士は切腹。切腹というと現代人は怖いイメージがありますが、これは武士にとって名誉の死なんですね。そして、四十六人は細川、松平、毛利、水野各家にて切腹の儀が執り行われました。細川邸の庭で最初に切腹したのは大石内蔵助。畳3畳が敷かれた最高の格式で切腹することを許されたのです。大石の辞世の句が、

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

自分の本懐をとげ、思い残すことは何もない、今は晴れ晴れとした気持ちだという意味です。浪士たちの切腹を目の当たりにした堀内は「もう少し、浪士たちと時を過ごしたかった」とその死を惜しんだとか。細川家の邸跡には十七人が切腹した庭の一部が今も残されています。浪士たちの血で染まった庭を幕府の役人たちが清めようとしたところ、藩主細川綱利は「彼らは細川家の守り神である」と言ってその申し出を断ったと言います。

※この記事は「にっぽん歴史鑑定」を参考にして書きました。