戦時中、日本は鬼畜米英のスローガンの元、敵性語ということ英語が使われなくなりました。野球であれば、「ストライク」を「よし一本」、「アウト」を「ひけ」という具合に。これは政府が国民に命じたわけではなく、マスコミのキャンペーンから始まって、それがいつの間にか英語を使っちゃいけない空気になったのですね。それは教育の場にも及び、学校の英語の授業のコマ数が減らてしまったのですね。エリートとか、海軍とか英語を普通に使っていたようですが、基本的には英語を使ったものは非国民扱いでした。

孫子に「敵を知り、己を知 れば百戦危うからず」という言葉があるように、戦争に勝ちたいのなら、相手のことを知る必要があります。外国語を学ぶということは、外国の文化や習慣などを学ぶことでもあり、相手を知ることが勝つためにも大事なのですが。

一方のアメリカの方は日本語を禁じるどころか、日本の文化を簡単にまとめたドキュメンタリー映画を作ったり、日本語の研究をしていたというのです。アメリカ海軍は対日諜報戦に勝つために、日本語学校まで作って、日本語を操る情報士官、いわばスパイのような士官を育成しました。そうした人たちを日本語情報士官と言いました。今でこそ日本語がペラペラなアメリカ人は珍しくなく、僕なんかよりも日本の文化に詳しくて恥ずかしいくらいなのですがw、この時代、日本語を喋れるアメリカ人は全米でも50人程度。だからこそ、日本語養成学校が必要になったのです。そうしてできたのが海軍日本語学校(コロラド大学ボルダー校)。学校の講師は強制収容所に収容された日系人から選ばれました。

日本文学研究の第一人者のドナルド・キーンさんも実は、この学校のご出身。若かり頃のキーンさんは『源氏物語』を読んで日本に興味を持って、それで入学したいと志願されたそうです。この学校では、文法を教えず、授業では、ひたすら日本語を使い、耳から聞いた言葉を読んだり、書いたりして日本語を叩き込まれたと言います。それも1年間で。漢字はもちろん、漢字の旧字体や崩し字まで叩き込まれたというから驚きです。海軍日本語学校のある生徒は「頭脳が優れたI.Qの高い人たちで、言語習得力のある人たちだった。漢字はとても難しかったからね。」とこぼしたほど。そりゃ漢字の旧字体や崩し字まで勉強したんだもの。日本人の僕だって旧字体や崩し字なんて書けないしw

でも、語学を学ぶのに文法を教えないというのは、いい教育法だと思う。

僕はラジオの「基礎英語in English」(全て英語、日本語一切なし)とか「英会話タイムトライアル」とかで英語を学び直しているのですが、文法を学ぶだけでは頭になかなか入らないし、何より退屈なのですね。逆に耳からどんどん英語を聞いて、そして講師の先生が言った英語のフレーズを真似した方が、覚えるし楽しいのですね。最近では字幕で『ゴースト・バスターズ』とか『グーニーズ』など昔見た映画を字幕抜き、日本語吹き替え抜きでYouTubeで見たり、洋楽を聴いたり歌ったりしてますね。初見の映画はともかく何度もみた映画なら、役者がしゃべる事細かなセリフはわからなくても、あらすじは知っているので、こんなことを言っているんだろうなってなんとなく想像ができるし、その方が耳が鍛えられますね。洋楽は英語の発音を学ぶのはいいですね。カラオケで洋楽歌うのも楽しいし。

おっと、話が脱線してしまいましたねw失礼。こうして海軍日本語学校を卒業し、情報士官になった人たちはボルダー・ボーイズと呼ばれました。彼らは太平洋艦隊司令長官ニミッツの配下となり諜報活動を行なったといいます。例えば1943年5月のアッツ島の戦いでは、ドナルト・キーンさんも派遣され、戦場で押収した日記や文章の翻訳をして、情報収集をしたと言います。日記には自分の胸の内、家族への想いも綴られていました。それを見たドナルト・キーンさんはこう思ったそうです。

「アメリカ軍は日本人を自分達と全く別の狂信的な民族と思い込んでいました。しかし日記を読んでいくうちに我々と変わらない。同じ人間だったということがわかってきたのです。」


日記や文章の翻訳だけでなく情報士官は捕虜となった日本人の尋問にも当たりました。もちろん捕虜から日本の情報を引き出すためです。そんなアメリカ側の思惑を知ってか知らずか、日本人捕虜たちは尋問にはなかなか素直に応じようとしない。なぜなら、当時の日本は捕虜になることを恥だと叩き込まれており、中には殺してくれと頼む人もいたほど。それで、情報士官は日本語で、日本人捕虜の心を和ませたりしたと言います。もちろん、日本人捕虜の中には、聞いてもいないのに日本軍の上官の悪口とかをベラベラしゃべったものもいたと言いますが。

また、捕虜の中には幼い子供たちも少なくありません。そうした子供たちを殺すわけには行かないので、情報士官のテルファー・ムックさんは子供たちのためにマリアナ諸島のテニアン島に学校を作ってあげたのですね。テニアン・スクールといい、1944年の11月に開校しました。授業は日本語で行い、英語や体育の授業まであったと言います。英語の授業はムックさん自ら教鞭にたったとか。

そこの元生徒さんは「日本の軍国教育下では敵国の悪口しか教えられなかったが、この学校は違った。ムック先生も優しかった」というほど。ちなみにテニアン島には広島や長崎に落とされた原子爆弾を収納されたピッドがあったのですね。このテニアン島の飛行場からB29が飛び立ち、原爆が落とされたのですね。奇しくも今日は広島に原爆が落とされた日ですね。その飛行場から程近いテニアン・スクールの子どもたちはいつもと変わらぬ日常だったといいます。

戦後、ボルダー・ボーイズは退役し、それぞれ名分野で活躍しました。テルファー・ムックさんは戦後はアメリカにて法律家、聖職者を歴任。1991年に初めて日本にも訪れ、かつてのテニアン・スクールの生徒たちと46年ぶりの再会。ムックさんは「日本語はほとんど忘れてしまったが、皆さんのことは覚えています」と同窓会で、元生徒たちに語りかけました。テニアン・スクールの子供たちは戦後は沖縄にわたりました。そして、教え子たちの中には教師になった人もいたといいます。教え子たちは、沖縄の復興を担う若者たちを育てたのですね。ムックさんが生涯大事にしていたのは、日本人形。この日本人形はテニアン・スクールの生徒さんがかつて作ったもの。そのムックさんも2008年に亡くなられます。

ドナルド・キーンさんは日本文学の研究を行いました。キーンさんは京都大学の大学院に留学し、永井荷風や谷崎潤一郎、三島由紀夫など多くの作家と親しくなったのです。さらにキーンさんは東日本大震災で東北の人々たちの心に感動し、日本国籍を取得。鬼怒鳴門と名乗ったのです。キーンさんは日本人となって日本人として死ぬことを選んだのですね。そしてキーンさんは2019年にお亡くなりになりました。

※ この記事は映像の世紀を参考にして書きました。