飛騨の代官、大原彦四郎は検地を強行しました。その検地はなんと80年ぶり。80年前の検地は、当時飛騨を治めていた大垣藩が行い、田の広さを狭く見積もってくれたので、農民も治める年貢も少なくて済んだのです。それが、幕府の直轄地になり、大原の時代になって検地をすることになったのです。その検地の結果、これまでの5割以上も収める年貢がアップするのです。これでは農民の生活も苦しくなります


それに黙っていないのは農民たち。検地の中止を求めて立ち上がったのです。高山の陣屋に農民たちは赴いて、大原に直訴。しかし、大原はまともに話を聞いてくれない。それで農民たちは駕籠訴カゴソこれは定められた手続きをしないで、いきなり大名なり、老中なり勘定奉行なり幕閣に訴えることです。しかし駕籠訴は御法度違反、罪は非常に重いです。今で言うなら、市長が市民税を大幅にアップすると言い出したので、市長に言ってもラチがあかないから、総理大臣とか法務大臣にメールなり手紙とかで直談判するもの。現在ではそんなことをしても罪になりません。首相官邸のホームページを見るとご意見募集なんてありますから(聞き入れてくれるかどうかは別)。

しかし、江戸時代ではそれだけで罪になる。考えられませんね。そして農民の有志六人がもしたのです。時の老中松平武元マツダイラタケチカが乗っている駕籠に近寄り、直接、老中に手紙を渡すと言うもの。かつて駕籠訴は佐倉惣五郎サクラソウゴロウもやりました。佐倉惣五郎といえば千葉県佐倉市の義民として名高いです。彼も困窮する農民を救おうと、時の将軍、徳川家綱に駕籠訴をしたのです。佐倉惣五郎の願いを家綱は聞き入れたのですが、将軍に直訴したと言うことで、佐倉惣五郎初め一家は処刑になりました。飛騨の農民たちも佐倉惣五郎の話はよく知っていたのです。駕籠訴なんてやったら、自分達が処刑になります。自分が死ぬのをわかっていながら、仲間を救おう、農民たちを救おうとする。駕籠訴をした六人は素晴らしい自己犠牲の精神の持ち主ですね。

農民たちが駕籠訴などをするものだから、流石の大原もキレたのですね。大原は農民たちの分断を行おうとしました。農民たちを集めて、駕籠訴をした六人は勝手に行動したのであって、彼らのやったことは農民たちの総意ではないと言わせたのですね。もし、駕籠訴をした六人に同情したものは処罰すると。いわゆる脅しです。そんな脅しに屈しなかったのが、善九郎という若者。彼は弁もたち、筆もたち、10代(18歳〜19歳くらい)の若さながら、いつのまにか農民一揆のリーダー的存在になったのです。彼は飛騨の小天狗といわれたほどでした。まず、農民たちがおこなったのは、津留ツドメ。これは物資の出入りを禁止させること。米や野菜、薪や炭が商人の手に届かなくなります。特に炭が入らなくなるのは飛騨の人たちにとって痛手。飛騨の冬は寒いですからね。江戸時代はエアコンや石油ストーブなんてありませんから、暖を取るには炭を燃やすしかないのです。炭屋さんも、炭を売りたくても、炭の仕入れができないから売ることができず困ってしまいます。困った町人や商人の中から、農民に味方をする人たちも出てくるのです。今でいうストライキですね。この時代にSNSがあれば、ネトウヨみたいな人が津留をする農民を叩くのでしょうけれど、この時代は農民に味方する人の方が多かったようですね。

そして、善九郎率いる農民たちが次に行ったのは強訴。大原に直談判したのです。大原は怒るばかり。結局、善九郎以下、一揆の首謀者たちは処刑されてしまいます。善九郎が処刑される際、彼が残した辞世の句がこちら。

寒紅カンコウは無常の風にさそわれて つぼみし花の 今ぞ 散り行く


意味は「寒中に咲く紅色の梅が、つぼみのまま風に吹かれて散っていくように、私も今はかなく散ってゆくのだ」。いい句ですね。善九郎は農民の若者ながら武士のようですね。そして、この句から死に行く悲しみが伝わってきます。


その善九郎ですが、死後、彼の供養塔を農民の有史が建てました。すると大原は、それを土の中に埋めろと命じたのです。かわいそうに。供養して悪いちゅうねん。それどころか、今後一切、処刑された農民の供養をしてはいけないと、きついお達しをしたのですね。ひどいですね。そんな勝手なことばかりする大原もいいことがないだろうなって。実際、大原一家に次々と不幸が訪れます。それは次回の記事で。

*参考文献