10月23日。ソ連のフルシチョフが動きます。ソ連側のワルシャワ条約機構軍が、いつでもミサイル発射できるよう臨戦体制を敷いたのです。キュバーでもアメリカからの攻撃に備えるべく、ミサイルの配備が急ピッチで進みました。その頃、アメリカ本土はパニック状態でした。前日のケネディの中継を見た人々は買いだめに走り、どのスーパーも品切れが続出。震災やコロナの時もそうでしたが、人間パニックになると、同じような行動に走るのですね。この日の夜、ケネディは弟に今の心境を吐露します。

ケネディ「地獄みたいな状況だと思わないか?だが他に道はなかったのだ。フルシチョフがここまでやる以上、他に選択肢がなかった」と。ロバートはただ「そうですね」としか言えなかった。

10月24日、いよいよ海上封鎖が始まったのです。アメリカはミサイルを配備、いつでも戦争ができる状況にしたのです。

10月25日、ニューヨークの国連本部。アメリカの大使はソ連に揺さぶりをかけます。ズバリ「キューバに攻撃用の核ミサイルを配備しましたか」って。しかし、ソ連大使ははぐらかします。そこでアメリカ大使はキューバの航空写真をここで見せます。その写真には建設中のミサイル基地が映ってます。ソ連大使もタジタジ。国際社会もアメリカに味方します。

10月26日、この日の午後、ソビエト大使館からスカルという人物に電話が入ります。会ってほしいと。スカルはアメリカの記者で、フルシチョフとも面識があるのですね。それで、ソ連の大使館職員がスカルにこう言います。「キューバに侵攻しないことを約束するなら、ソ連はキューバからミサイルを撤去する意思がある」と。スカルは「私は一記者に過ぎないが、議論に値する提案」と答えたそうです。スカルの得た情報は、すぐケネディに伝えられました。実は、ケネディの元にもフルシチョフから書簡をもらっていたのです。その内容はスカルの話と同じでした。ケネディは確信した。和解できると。

10月27日、この日、ケネディにとって最悪の事態になります。のちに暗黒の土曜日と言われます。この日、フルシチョフから書簡が届いたのです。それはトルコに配備されているミサイル撤去の要求。これを飲むことはできません。さらに、Uー2偵察機がソ連軍に爆撃されたのです。だが、これはフルシチョフが命令したのではなく、現場のソ連兵が暴走したのです。これにはルメイも激怒。反撃をしろと言い出します。アメリカは大統領の指示があれば、いつでも戦争ができる臨戦体制に入りました。まさに核戦争の危機。それに国防長官のマクナマラに「待った!」をかけます。実は第二次世界大戦中、マクナマラはルメイの部下でした。日本の無差別攻撃をマクナマラは命令のもと、行いましたが、のちに悔やんだのです。「勝つためなら、一晩で10万の市民を、焼き殺していいのか。」と。あの悲劇を繰り返してはいけないと。ケネディも決断をためらいます。

同じ頃、ソ連も臨戦体制でした。封鎖線付近には潜水艦。しかも核魚雷を搭載。アメリカ戦闘機はその潜水艦を発見。事前の取り決め通り、浮上を求める合図として演習用の爆雷を投下、しかし、ソ連の潜水艦の艦長は、浮上を促す合図と受け止めず、アメリカ空軍の攻撃と見做し、反撃の準備をしました。しかし副官庁がなだめて、「これは浮上せよ」という合図だと言ったそうです。ギリギリのところで核魚雷の発射は回避されました。アメリカ統治下の沖縄にあるミサイル発射基地にも発射命令が下っていたのです。沖縄に核兵器があった!?今考えると恐ろしいですね。結局、その発射命令も誤報だったとわかり、ミサイル発射はなしになったのです。よかったですね。

その夜、ソ連から要求されたトルコのミサイル撤去要求をケネディは飲むとソ連側に報告。これはケネディの決断です。

そして10月28日。ソビエト政府はキューバでの武器を解体。そしてキューバ周辺に滞在するソ連軍に国に帰れと命じたのです。ケネディはホッとしたでしょう。教会に行き、神に感謝の意を捧げたのです。悪夢の13日間はこうして終わりました。アメリカも約束通り、トルコに配備されたミサイルを撤去。

「かつて世界大戦は、些細な出来事と誤った判断の積み重ねて加速し、世界に悲劇をもたらした。私たちは正しい情報と確固たる意志で行動しなければならないのだ」と、のちにケネディはキュバー危機の教訓を語っています。

しかし、ケネディ大統領は翌年の11月22日、テキサス州のダラスで暗殺されてしまいます。一方のフルシチョフも失脚、アメリカに譲歩しすぎたためだと言われております。前回の記事でも出てきた、アメリカのスパイ、オレグ・ベンコスキーは処刑されてしまいますが、アメリカは彼に「HERO」というコードネームをつけます。命懸けで情報を送り続け、核戦争の危機を救った人物だと称えたのです。