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(飛騨の陣屋)

今日から3回にわたって、飛騨高山で起きた一揆について触れます。いわゆる大原騒動と呼ばれ、なんと18年も続いたと言います。明和8年(1771)から寛政元年(1789)まで。農民と代官の戦いがそんなに長く続くとは驚きです。とは言いましても、18年間ずっと毎年のように一揆が続いた訳ではなく、18年の間に、大きな事件(一揆)が3度起こっているのですね。明和騒動、安永騒動、天明騒動と呼ばれております。この三つの騒動を併せて大原騒動というのですね。この大原騒動の主役というのが、代官の大原彦四郎並びに大原亀五郎親子です。この親子が悪代官で、領民を苦しめていたのですね。今日はまず明和騒動。時は、徳川家治の時代、田沼意次が権勢を奮っていた時代です。この頃の高山は天領、幕府の直轄地でした。元々、飛騨は江戸時代の初め、金森家が治めておりました。金森家は、織田信長の家臣だった金森長近が最初です。しかし、幕府が飛騨の豊かな山林資源に目をつけ、金森家を出羽国に移し、幕府の直轄地にしたのです。飛騨はお米が取れない分、林業が盛んだったのですね。農民たちは山へ入って木を切り出したり、運んだりする仕事で、賃金や米を得て、ようやく暮らすことができたのです。だから、年貢の取り立てが厳しくなると、農民たちの生活はたちまち苦しくなります。

そして12代目の代官が大原彦四郎です。明和3年(1766)に着任。元々は江戸勘定所の組頭役をやっておりました。優秀な男だが、銭勘定には厳しい。大原は着任するや、年貢の金納の期限を例年より二ヶ月繰り上げる命令を出し、1770年には地役人六人を転勤させます。地役人とは郡代、代官などが任地で採用した役人のこと。元々いた地役人を辞めさせ、自分の言うことを聞きそうな役人に変えたのでしょうね。そして農民たちにとって一大事が起こります。幕府の命令で山の木を切ることが禁じられてしまうのです。木を切り続ければ、山が荒れ、山の木々も枯れ果ててしまいます。そうなる前に、山を休めましょうというお達しなのです。しかし、木を切って生計を立ててきた農民たちには大変な痛手。まして、飛騨高山は米があんまり取れない土地。

しかも大原彦四郎は年貢の計算法を安石代ヤスコクダイから永久石代エイキュウコクダイに変えたのです。安石代は、隣国五ヶ所の相場の平均をとる方法ですが、実際は、農民に配慮して、年貢を安くしていたのです。だから、農民にとってはありがたい制度でした。しかし、永久石代というのは相場と関係なく、一定の石代を決めて毎年それに従う方法です。これは農民にとって不利です。不作だろうか豊作だろうが関係なく収める年貢は同じ。豊作なら良いが、不作だと大変。しかも何年も不作が続くことだってある。これでは農民は困ります。

そこで大原彦四郎は提案します。もう少し有利な石代にしたければ幕府の許しが必要。そのために、三千両用意しろというのです。三千両は大変な金額。なんでこんなに大金が必要かというと、大原は時の老中・田沼意次と繋がりがありました。田沼はワイロ政治で有名で、大原も田沼にワイロを送って取り入ろうとしたのですね。さらに大原は陣屋の修理や労働奉仕を命じるなど、農民の負担は増える一方。


大原の横暴にたまりかねた農民たちは12月11日、高山の国分寺に集まり、農民集会が行われました。集会に集まった農民たちは結束を高めました。そして、農民たちは高山の米商たちの家に押しかけ、打ちこわしを始めたのです。農民たちは大原代官ではなく、米商人を襲ったのでしょう?

実は高山の米商人たちも悪徳で、農民たちが反対して中止になっていた年貢米三千石の江戸直納をこっそり引き受けていたのです。しかも、他国の米を安く買い、それを飛騨の国の年貢だと偽り、それを江戸に送りもうけ、さらに飛騨の農民たちから搾り取った年貢米三千石を隠しておいて、高山の相場が上がったときに高く売り飛ばす魂胆だったのです。悪い奴らですね。悪徳商人に悪代官なんて、典型的な時代劇の世界ですね。

打ちこわしが終わってから、農民は、木材を切らせてくれ、収める年貢の利率を低くしてくれ、労役などを5年間くらいはやめてくれなどの要望を代官に提出。当然、大原は激怒。天領で打ちこわしなんてとんでもない、農民たちの要求なんて飲めるわけねえって。それでも、労役が中止、お救い米の制度も授けられ、一応騒動の決着もついたのです。しかし、首謀者たちは死罪や遠島になってしまったのですね。

*参考文献