こうした事態を受け、明治天皇は緊急の御前会議を招集。松方正義総理や元老の伊藤博文など、お偉いあんたちが駆けつけます。この時、日本は莫大な賠償金を請求されたり、下手すりゃ戦争になると想定しました。政府は謹慎の意味を込め、おこなわれている、お祭りや大相撲5月場所も取りやめ、吉原遊郭でも客引きも禁止、銀行まで貸し出し見合わせを命じました。

そして明治天皇はすぐさま決断しました。なんと明治天皇自らが京都にいるニコライ皇太子を見舞い、謝罪をしたのです。本来、天皇の行幸には入念な準備が必要で、手続きに時間や手間がかかるのですが、それを無視した異例の行幸だったのです。皇室のしきたりを無視してまでも、ニコライに詫びたのです。それだけでなく、負傷したニコライ皇太子の元に陸海軍や宮中の医師を派遣したり、ニコライの父親のアレクサンドル3世にまでお見舞いの電報を打ったほど。さらに接待役の有栖川威仁親王にもロシアに行ってもらおうとも明治天皇は考えたと言います。


そして、ニコライに引き続き、日本にとどまり、日本の旅を続けてくれと頼んだと言います。しかし、ロシア側は、警備にあたる警察が皇太子を襲う危険な国に、このまま居てもらいたくないと思ったのです。神戸港に停泊中のロシア軍艦に乗って帰国するように命じられます。天皇はニコライ皇太子をお召し列車に乗せ、神戸まで送り届けたと言います。

そして、ニコライがロシアに帰る明治24年(18891)5月19日に、明治天皇は神戸にいるニコライ皇太子と食事をしたいと言い出したのです。場所はロシア軍艦の中。当然、側近たちから「毒でも守られるのではないか」とか「敵の船なんかに乗ったら、そのまま拉致されるのではないか」と反対されます。しかし、明治天皇はそれを拒否。「ロシアは、そこまで野蛮な国ではないから大丈夫」と。そして食事会では、和やかなムードだったようです。そして、明治天皇はニコライに遺憾の意をあらためて述べたと言います。ニコライは「記事は極めて浅く、陛下が憂慮されるには当たりません」と笑ったそうです。そして、明治天皇は無事下船。そのままニコライは帰国。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。