津田の犯行の動機は、ニコライの無礼な態度もそうですが、ロシアそのものに津田が反感を持っていたのです。

まず、津田は、ニコライが、明治天皇に拝謁せず、日本各地を回っていたことを怒っていたのです。天皇陛下への挨拶もなしに、神国日本をうろちょろするとは何事だ、みたいな。

ロシアと不平等条約を結ばされているのに、ロシアの皇太子を国賓として迎え入れるのはおかしいとも津田が考えていたのです。今でいえば、北朝鮮の金正恩の子供を国賓としてもてなすような感覚でしょうか。それが津田にとって気に入らなかったのです。その不平等条約とは明治8年(1875)に結ばれた、樺太・千島交換条約。この条約によると、日本が持っていた樺太の領有権を放棄し、ロシアに渡す。その代わりロシアの領土だった千島列島を日本にあげようというもの。しかし、樺太の方が面積も広く、資源も豊富だったので、大変不平等な条約で、日本国民の多くは不満を持っていたのです。

さらに津田は、ロシアが攻めてくるってマジで思っていたのです。ニコライの来日の目的も偵察のためだと思い込んでいたのですね。実際に、新聞記事にニコライの来日は偵察が目的と書かれていたのですね。もちろん、ニコライ来日の目的がほんとに偵察かどうかなんて、ちゃんとした裏づけもありません。憶測記事も良いところ。しかし、新聞に書いてあることだからと、津田は信じてしまったのです。

新聞記事を信じたと言えば、こんな記事も津田はマジで信じたのです。「西南戦争で死んだはずの西郷隆盛が実は生きていて、ニコライ皇太子と共に日本に帰国するかもしれない?」って。さらに新聞には、「もし西郷隆盛が生きていたら、西南戦争での勲章を取り上げると天皇が言った」と。これなんか、「もし」の話で、確証のもてない話。今でいう、SNSの書き込みに近いような記事です。しかし、津田はそれを信じたのです。いわゆる、ネットDE真実ならぬ新聞DE真実。


ネトウヨみたいな人だったのかな、津田は。それと悪いことに津田は精神の疾患もあったとも言われております。津田の襲撃は計画的なものではなく衝動的なものでした。

深傷を負ったニコライも、治療を受け、汽車にのって京都に帰ったといいます。しかし、この事件は日本の政府高官を慌てさせます。日本ピンチです。ニコライはどうなるのか?そして津田はどうなるのか?それは次回取り上げます。

*この記事は「にっぽん!歴史鑑定」を参考にして書きました。