東北の人たちも平和にくらしておりましたが、6〜7世紀にヤマト王権が確立すると、地方の有力首長層を国造くにのみやつこに任命し、それぞれの地域の土地と人民の支配にあたらせました。国造はヤマト朝廷に対して貢納こうのうの義務を負い、兵役や雑用までやらせたといいます。国造が治めるクニは太平洋側では福島県、宮城県、山形県の3県にわたり流れている阿武隈川あぶくまがわの河口以南、日本海側では新潟から長野県を流れる信濃川と福島県、栃木県、新潟県を流れる阿賀野川あがのがわの河口以南に置かれ、こうした境界ラインより北の住民を「エミシ」と呼ぶようになりました。本当は地図を使ってご説明すればよいのですが、あいにく、その地図が用意できなくて、申し訳ございません。


そして、7世紀半ばから9世紀初頭にかけて「化外けがいの民」としての「エミシ」支配を強化するために、宮城県に多賀城、秋田県に秋田城、岩手県に胆沢城いさわじょう、山形県に出羽柵でわさくなど20あまりの城や柵をつくって、これらの城や柵を拠点にして、エミシに対する支配を強化する一方で、朝廷への朝貢も強要しました。

そういた朝廷のやり方に反発した中心人物はアテルイとモレです。そのアテルイ一派を征伐せいばつするために朝廷から派遣されたのが坂上田村麻呂なんですね。ちなみに坂上田村麻呂は京都の清水寺を建立こんりゅうした人物でもあります。清水寺にはアテルイを供養する慰霊碑いれいひもあります。アテルイは大変な勇者でしたが、田村麻呂率いる朝廷の大軍にかなわなかったのですね。田村麻呂はアテルイとモレの命乞いをしたのですね。「あれほどの勇者を殺すのは惜しい」と。しかし、朝廷はアテルイとモレを処刑したのですね。

アテルイとモレは大阪あたりで処刑されたといいます。


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(アテルイとモレがたてこもったといわれる岩屋)

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(坂上田村麻呂が建立した清水寺)


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(清水寺にあったアテルイとモレの慰霊碑)

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(大阪にあるアテルイとモレの慰霊碑)