徳川家茂のことは前回の記事で書きましたが、今日は家茂の苦労話を。家茂は上洛し、孝明天皇に謁見。孝明天皇は攘夷を命令します。家茂は困惑します。アメリカなどの諸外国とは条約を結んでいる上に、武力も圧倒的に向こうのほうが上。戦争を仕掛けるわけにはいかない。かといって、天皇の命に背くわけにもいかない。家茂がトランプのような人だったら、孝明天皇の要望も「条約を結んだんだからしょうがないだろ!ガタガタ言うな!」ってキッパリ断るのでしょうが、家茂は心優しい人。悩んだ末に、孝明天皇と攘夷の約束をしてしまいます。その時の家茂は、ストレスも溜まりまくりだろうな。ましてや家茂はいい人だから、自分の心の中にあるモヤモヤを出すタイプではなさそうだし。

そんな折、1863年5月10日、長州藩が下関の関門海峡にて勝手にアメリカの商船を攻撃してしまうのですね。そうしたら報復父してアメリカの軍艦が長州を攻撃、長州藩はボロ負けしてしまいます。世にいう下関戦争です。長州戦争での負け戦の情報を孝明天皇は知ったのでしょうね。それから孝明天皇は無理な攘夷は危険だと感じたのです。家茂は再び上洛します。その時、孝明天皇が家茂に行った言葉が、

「汝は朕が赤子。朕、汝を愛すること子の如し 汝 朕を親しむこと父の如くせよ その親睦の厚薄コウハク 天下挽回の成否に関係す。」


孝明天皇は家茂に「自分を父と思え」といったのですね。家茂と孝明天皇は義理の兄弟の関係なのに、父と思えと言う言葉を賜っている。それくらい、家茂を孝明天皇は信頼しているだなって。同時に攘夷もしなくて良いといってくれたのです。その慈愛に満ちた孝明天皇の言葉に家茂もほっとしたことでしょう。家茂は一旦将軍職をやめようとしたのですね。何があったのでしょう?結論から申し上げれば、内乱と諸外国の圧力に加え、幕府内の対立が重なり、家茂の神経はすり減らし、将軍の辞職を望んだのですね。内憂外患な状況はもはや家茂のキャパを超えてしまったのですね。同じ将軍でも北の将軍様だったら、こんな状況でも図々しくふんぞり返っていたでしょうが、家茂は心優しい人物だったから余計に悩んだでしょう。

当時は、倒幕運動も盛んで、諸外国の外圧も相当なものでした。幕府は諸外国より兵庫(神戸)の開港と通商条約締結を結ぶよう強く求められていたのです。幕府内ではこのことに意見が分かれていたのです。開港やむなしという意見と、開港はダメという意見。開港やむなしと言うのは幕府の幹部たち。開港はダメというのが当時の将軍後見人だった一橋慶喜。慶喜は将軍を凌ぐほどの力を持っていて、一会桑というグループを作っていたのです。一橋家、会津藩、桑名藩からなる一大勢力で、京都を拠点としておりました。一会桑は朝廷と強く結びついていたのです。幕府の幹部連中は朝廷をコントロールしようという考え方。つまり幕府は朝廷を下に見ていたのですね。一方の一会桑は朝廷の意向を第一に考えておりました。幕府の幹部連中と一桑会の対立に、家茂は板挟みになって心を痛めました。その時、家茂がいった言葉が、

「なんとも致呉候」

どうにでもしてくれ、という意味。とうとう朝廷に辞表を出し、将軍職に慶喜を譲ろうとしたのです。しかし、慶喜は家茂を説得し、家茂の将軍辞職を思い止まらせたのです。慶喜はこの一番の難局に将軍となって火中の栗を拾う必要はないと考えたのでしょうね。

そして長州藩が幕府に立ち向います。家茂は大阪城に行き総大将として迎え討ちますが、突然、喉の痛みと胃腸の異常、そして足が腫れるのです。脚気です。家茂は虫歯が30本もあったくらい、甘いものが好きでした。家茂出陣の際にも甘いものが届けられたのです。糖分は脚気の原因であるビタミンB1の消費を加速させるのですね。それで症状が悪化したのです。孝明天皇は家茂の治療に自らの御典医を送ったものの、家茂は慶応2年(1866)7月20日に大阪城にて死去。将軍在位は8年9ヶ月、21歳の若さでした。家茂は若くしてなくなりましたが、幅広い人たちの信頼を得て、幕府の内紛や事件を未然に防いだのですね。バランスが良く、人との信頼関係を上手に築ける人物でした。逆に言えば調整型の人物。こういう人との信頼関係を作りつつ、ことに当たる政治家は平時はともかく激動の世には向かないのですね。戦後の政治家で言えば、竹下登元首相や羽田孜元総理みたいな方でしょうか。特に羽田元首相は金丸信から「平時の羽田」(*1)と言われたくらいですから。激動の世には吉田茂のような強いリーダーシップが必要なのですね。しかし、大変慕われていたリーダーであることは間違いなく、勝海舟は、家茂の死を持って「幕府の終わり」とつぶやいたほど。

*1 ちなみに金丸は「平時は羽田、乱世は小沢(一郎)、大乱世は梶山(静六)」といった