江戸時代、名君と言われた人がいました。会津藩主の保科正之です。2代将軍徳川秀忠の子で、家光の母親違いの弟です。33歳の時に会津藩主になります。保科の前の藩主が悪政を敷いていたので、領民は疲弊し、疫病にも苦しんでいたのです。他藩に逃亡する人間もいる始末。

それで、保科は領民第一の政治を行いました。保科の政治の根底にあったのは「仁」。全ての人に健康と福祉を推進した名君だったのです。



保科は社倉制という政策をとりました。社倉制とはまず、藩が米を買い占めます。そして共作の年に領民に貸し出します。生活に困った領民は2割の利息で米を借りることができたのです。次の年、年貢を納めるときに利息と共に借りた米を返済する決まりになっているのですが、たとえ生活に困って返せなくても、利息を払わなくて良いのです。その年の年貢も納めなくても、待ってくれるということです。ずいぶん寛大な処置ですね。

さらに社倉制でえた利息分も、藩のもうけにしないで、その利息で米を買い、飢饉の時に備えたと言います。そのため、会津藩では飢饉になっても、餓死者を出さなかったと言います。


 
お話は保科が生まれる前にさかのぼります。実は保科正之の母が、身籠った時、徳川秀忠の妻、お江与の嫉妬を買ったのですね。それで、一度はお腹の子をおろそうとしたのです。そのお腹の子こそ保科正之だったのです。もし、母親がおろしていたら、保科はこの世にいなかったでしょう。そのため保科は命を守りたいという意志が強かったのです。それで、領民に間引きを禁じたのです。

さらに保科は旅人にも心遣いをしました。領内にやってきた旅人が倒れたら、医者に連れて行くように政令を出したのです。その旅人がお金を持っていなかったら、藩がお金を出したのです。



高齢者の保護も手厚く行いました。領内の90歳以上の領民全てに一日5合分の米を毎年支給したのです。ある年は該当者が百人以上にも及びましたが、分け隔てなく配ったので、涙を流して喜んだ者もいたのです。

また、保科は4代将軍家継の時代に幕閣の1人に任命され、そこでも人命を守る政治を行いました。明暦3年(1657)1月18日から20日(いまの3月2日 - 4日)の三日間、明暦の大火が起こりました。火事とケンカは江戸の華といいますが、それくらい江戸は火事が多かったのです。明暦の大火はとりわけ被害が大きかったのです。火災は三日間にもわたり、江戸の6割を焼き尽くしたのです。明暦の大火は本郷にあった日蓮宗本妙寺で発生。その火は風にあおられ、あっという間に周囲に燃え広がりました。また『むさしあぶみ』という文献によると「はげしき風に吹きたてられて車輪のごとくなる猛火地にほとばしり」という記述もあります。これは火災旋風(火の竜巻)までが起こったことを意味しております。それくらいひどい火災だったのですね。



(火災旋風)

大名屋敷160軒、旗本屋敷810軒、町人地(町人たちがすむ住宅街)800町以上も消失。しかも江戸城天守閣も焼けてしまいます。死者もおよそ10万2千100余人にもおよんだといいますから、いかにひどい火災だったかがうかがえます。これほど火災が広がったのは消防システムの脆弱さとあまりに江戸の町が密集しすぎていたからです。

一応、大名火消しという消防団があったのですが、これがあまり役にたたないもので。幕府から任命された大名が10日交代で火消しの役を担ったのです。しかし、この大名火消し、火災が大名屋敷で起こったら出動したものの、町人地でおきたときは出動しなかったのです。つまり町人地で火事が起こっても知らんぷり。そんな大名火消しを「消さぬ役」と皮肉ったほど。

町人地では町人たちが火災は自分たちで消しなさいというのが幕府の方針。つまり武士と町人たちが火災にあってもお互いに協力しようという姿勢がなく、それどころか、武士は町人たちを犬畜生かのように見下していたのですね。同じ人間と思っていない。まさに人間軽視だったのです。実際、明暦の大火で武士たちは火災でさほど被害を受けておらず、火災で亡くなったのは町人たちがほとんど。つまり武士たちは町人が火あぶりになっても知らんぷり。これでは助かるはずの命も助かりません。

火は三日で収まったものの、被災者たちは身も心もズタズタです。家も焼かれ、家族や友達を失ったもの。保科はまず、被災者のために、お粥の炊き出しをしました。その粥は幕府の米蔵から使われました。しかも、老人や病人には塩分控えめの粥を配るという配慮。

焼けた家屋の再建のため、幕府から資金も保科は渡しました。家康以来貯めてきた御金蔵も使ったのですね。これには幕閣も猛反対。今のご時世でいうならコロナ給付金みたいなものですね。しかし、江戸時代には、民間人のために政府がお金を使うなんてことはありえなかったこと。御金蔵はあくまで、いざ戦争になったときの備えだという認識が幕閣の間にあったのですね。それを保科は「お金は下々の人々を救うためにあるのだ。金を貯めるだけでは、それはないものと同じ」と幕閣たちを説得。大名や幕臣だけでなく町人たちにも返済義務のない援助金をわたしたのです。その総額はいまの価値で200億円だというから驚きです。

さらに保科は火災で亡くなった無縁仏の供養塚も作ったり、江戸城再建をやめたりしたのですね。

もちろん、江戸の町再建は保科ひとりだけの手柄ではなく、知恵伊豆こと松平信綱らの活躍もありました。幕府は町中に広小路という空き地を作って、火災の被害をすくなくしようとしたのです。有名なのは上野にあった広小路。いまも地下鉄の駅名(上野広小路)にもなっております。

江戸城内にあった御三家の屋敷も移転、被災した大名たちの屋敷も当時は野原が広がっていた麻布などに新たな屋敷を与えたり。本郷や湯島にあった寺も、当時は発展途上だった浅草に移されたり。また墨田川には橋がなかったので多くの人が亡くなったのですね。それで、立派な橋をかけてあげたり。万治2年(1659)には両国橋が完成。そして両国橋の先の本所をニュータウンとして開発。のちの『忠臣蔵』に出てくる吉良邸も本所に移されるのですね。また赤穂浪士たちも両国橋をわたって吉良邸に討ち入りするのですね。もし、両国橋がなかったら、赤穂事件はなかったかもしれない。

また幕府は消防システムも整えました。従来の大名火消しに加え、定火消じょうびけしを組織をつくりました。今でいう消防隊ですね。


 
※この記事は『英雄たちの選択』、『にっぽん!歴史鑑定』を参考にしてかきました。