1 リサイクル社会だった江戸時代
江戸時代の庶民は貧しい暮らしをしておりました。逆にいえば、質素に暮らし、ものも大切にしてきたのです。江戸時代の庶民は壊れたからといって、すぐに捨てなかったのです。そのため、江戸時代には様々な修理業者や今でいうリサイクル屋みたいな商売もあったのです。

例えば、鋳掛屋いかけやという商売もありました。鍋や釜などの修理と修繕しゅうぜんを行いました。火を起こすためのフイゴや小さな炉を持って、それを使って溶接し、鍋や釜を修理したのです。

他にも下駄や雪駄、そろばんの修理をする業者、提灯チョウチン火袋ヒブクロ(※1)を張り替える業者もいました。それから、「とっかえべえ」という業者もいました。長屋に来ると、「とっかえべえ、とっかえべえ」と叫ぶのです。すると、子供たちは使い古した鍋やハサミなどを持ってきて集まるのです。とっかえべえは、それをおもちゃやアメと交換したと言います。

さらに驚くべきは、髪まで回収する業者もいたのです。抜け毛を回収し、それを添え髪やかつらにリサイクルして使ったのです。普通はゴミ扱いの抜け毛までリサイクルするとはすごいなって。

江戸時代の庶民は新しいものを極力買わず、壊れたり、消耗したら、リユースして使ったのです。

着物も新品だと高いので古着屋で買ったそうです。古着なので自分で手直しをし、破れたりして着れなくなったら、子供用に仕立て直したり、草履ゾウリ鼻緒はなおやおむつや雑巾ゾウキンににしたり、最後はかまどのまき代わりに使ったと言います。江戸時代はガスや電気もなかったから、どの家庭にもカマドがあって薪などをくべて火を起こしていたのですね。

そうして燃やした着物は灰になりますが、その灰にも使い道があるのです。実は灰を買い取る業者がいたのです。この灰は洗剤にも肥料ひりょうにもなるのですね。灰はアルカリ性なので、酸性の土壌の改良に重宝されたそうです。灰を売った庶民もお金はもらえるし、ゴミも減るし、ありがたい話ですよね。お金を出してゴミ袋を買う現代の感覚では考えられませんね。

また、江戸時代からトイレはありました。かわやと呼ばれたのですが、その厠の底にたまった糞尿フンニョウは農家の人が引き取りに来たのですね。その糞尿は肥料になったのです。糞尿をもらった農民はお礼に農作物をあげたと言います。ヨーロッパではこの時代、糞尿を町に捨てたので、大変不潔だったそうです。だから伝染病も流行ったのですね。逆に日本は大変清潔で、日本に来日した外人さんは大変驚いたとか。

2失業対策をした江戸幕府
 コロナ禍で失業が問題になっておりますが、江戸時代も失業が社会問題でした。飢饉キキン疫病エキビョウが流行り、食べ物も無くなったのですね。仕事を求めて地方から江戸をやってきた人も少なくなかったのです。しかし、江戸に来ても仕事がなく、無宿人になる人も少なくなかったのです。無宿人とはホームレスみたいなもの。盗みなど犯罪を起こす人間も少なくなかったのです。それで幕府が作ったのが人足寄場ニンソクヨセバ。その仕掛け人が鬼平こと長谷川平蔵ハセガワヘイゾウ。人足寄場は今の東京の石川島イシカワジマにありました。

そこに無宿人を収容し、そこで手に職をつけさせ社会復帰をさせたのです。人足寄場は個人の向き不向きによって、職業訓練を受けさせました。力が強くかつ手先が器用な男性は大工、体力がないが器用な男性は紙職人、女性なら裁縫サイホウという具合に様々な技術を習得できたのです。人足寄場を卒業すると、平蔵は就職の斡旋あっせんをしたり、商売を始めることを勧めたりしたそうです。生活困窮者セイカツコンキュウシャに職と生きがいを与えたのですね。

3 寺小屋
 こんにちは格差社会と言われ、貧困が問題になっております。お金持ちは子供の頃から塾に行かせ、中学から私立に行き、それからエレベーター式に一流大学に行ける。そんなふうに子供に質の高い教育を受けさせることができる。しかし、貧しい家庭はそんな余裕がない。私立中学や大学どころか、安い通信制の高校でさえ学費が払えないという家庭もあると。親の所得がそのまま子供の学力につながり、子供に学力があったとしても、お金がなくて学校に子供を通わせることができない。

いわゆる教育の機会不平等です。その教育の不平等の是非についてアンケートをとったところ、2018年の調査では、「当然だ」の9.7%、「やむをえない」の52.6%を合計すると、62.3%の人が教育の機会不平等はあってよい、と回答しているのです。10年前の2008年には60%以上の人が教育の機会不平等は問題だと答えたのに。

江戸時代はどうだったのでしょう。江戸時代の識字率シキジリツはなんと8割。この教育水準は世界最高水準だったと言います。その高い教育水準が明治の時代になって花開き、一等国になる土台となったのですが。その高い教育水準を支えたのは寺小屋です。寺小屋は江戸時代中期に始まり、幕末ごろだと全国に2万件もあったとか。寺小屋の教師になる人は特に資格は必要ありませんが、医師や僧侶ソウリョなど人望の厚い人がなったそうです。生徒は商家や農家の子が多く、6歳くらいで入学し、男子は11歳、女子は13歳ないし14歳で卒業したと言います。男子の方が早く卒業したのは家業を手伝うためです。寺小屋は個別指導だったので、そのため落ちこぼれがほとんど出なかったと言います。

習ったのは、読み、書き、そろばん。子供たちは、文章能力や計算能力を磨いたのですね。これはいつの時代も社会を生き抜く基本ですからね。

教科書は往来物オウライモノというものを使いました。これは将来就きたい仕事に直結したことが書かれた教科書です。その種類は7000種類もあったと言います。農業の基本をまとめた「農業往来」、商売用語を学ぶ「商売往来」、変わったところでは、遊女になるための業界用語や遊女の心得をまとめた「和国娼家往来ワコクショウカオウライ」なんてものもありました。個人的に「和國娼家往来」読んでみたいですね。結構Hなことも書かれていたりしてw?

授業中、寺小屋の子供たちはいたずらしたり、騒いだりするのですが、師匠は決して怒らなかったそうです。もちろん、物を盗むなど公序良俗コウジョリョウゾク悪いことをしたら、お灸を吸えたり、正座をさせるなど体罰もしましたが、基本的に子供の自主性を重んじたのです。のび太の先生みたいに成績が悪いからと言ってすぐ怒るような師匠はいなかったのです。

大正時代に乙竹岩造オトタケイワゾウという教育学者が、寺小屋に通ったことのある人に師匠を尊敬しているかというアンケートを取りました。すると97%が尊敬していると答えたのです。驚きですね。

今日、SDGsが叫ばれておりますが、江戸時代の日本は、世界に先がけてSDGsを実践していたのだなって。

※1 灯籠の火をともす所。また提灯の、紙の覆いをした部分。


※ この記事はTBS「歴史鑑定」を参考にして書きました