1 労働組合に理解を示した渋沢栄一
 労働組合というと資本家(経営側)といつも対立しているイメージがあります。しかし、渋沢栄一は資本家でありながら、労働者の環境や地位の向上を求めて、大正元年(1912)8月に鈴木文治スズキブンジが創設した労働団体の「友愛会ユウアイカイ(現在の連合)の活動を支援したそうです。また、大正8年(1919)8月16日には、資本家と労働者の協調を図るために財団法人協調会を設立したと言います。

「治安警察法第17条は撤廃テッパイし、労働組合の勃興ボッコウを促し、労働者の利益を計るとともに、資本家側の利益をも計らねばならない。労働組合は意思の疎通ソツウを計り、労働者を統一する機関として、最もその必要を認めるものである」


今もそうかもしれませんが、渋沢の生きていた時代も労働組合に理解を示した経営者はほとんどいませんでした。従業員を安い給料でこき使うような経営者が多い中で、これはすごいなと。労働組合側にとっても渋沢の存在はとても大きかったのではないかと。

ネットでは渋沢は労働者を守る工場法の制定に反対したトンデモないやつとありますが違います。彼が工場法に反対したのは日本で工場法を導入すつのは早いから反対したのです。彼が工場法に反対したのは明治29年(1896年)のこと。発展途上にある産業の育成を優先せざるを得なかったのですね。そんな彼ものちに工場法に賛成します。

2 病人や震災復興に積極的に取り組む
 渋沢はハンセン病患者とも向き合いました。ハンセン病はらい病と呼ばれ、これにかかったものは差別されていました。渋沢は初代のらい予防協会の会長を務めるなど、らい病の予防にも力を入れたのですね。

他にも渋沢は災害の復興支援も熱心にやりました。明治39年(1906)に起きたサンフランシスコ地震では、サンフランシスコのために震災見舞金を率先して出したのですね。当時の多くの日本企業は躊躇チュウチョアメリカが日本人移民排除をおこなっていて怒っていたから。

大正12年(1923)の関東大震災でも国会と 商業会議所が共同して設立した大地震善後会の副会長に渋沢が就任し、復興活動に尽力したそうです。この時渋沢は高齢に達していて、家族も埼玉の深谷に戻るように進めましたが、渋沢は拒否。

「このような非常時にお役に立てなければ、何のために生きているのかわからない」と言ったとか。

 
3 救護法にも尽力
 渋沢が91歳の時に、社会福祉団体の代表が渋沢の邸宅テイタクを訪ね、生活困窮者セイカツコンキュウシャを救うために救護法キュウゴホウの予算化に尽力ジンリョクして欲しいとの依頼があったようです。救護法は、貧困者の救護を国や自治体に初めて義務化させたもので、今の生活保護にあたります。大正の昔は生活保護のみならず社会保障がなかった時代ですから。(あっても今と比べ乏しい時代)

しかし、救護法は政府の中でも「怠け者を増やす」など反対意見も少なくなかったのです。

当時の渋沢は風邪カゼをひいて体調もすぐれなかったのですが、車の用意をさせ、すぐに大蔵大臣オオクラダイジン内務大臣ナイムダイジンに面会申し込みの電話を入れたそうです。渋沢の主治医シュジイも渋沢の奥さんも驚き、渋沢の外出を止めようとしたのですね。よろける足で立ち上がり、大蔵大臣の元へ向かったそうです。その時、渋沢はこのように述べたそうです。

「こんな老ぼれが、平素から養生ヨウジョウを心がけているのは、こういう時に役に立ちたいからなんです。もし、これがもとで私が死んでも、20万もの不幸な人たちが救われるのであれば結構なことではないですか」


素晴らしいですね。自分の体が弱っても、人様のために働こうという気持ちが素晴らしい。これがどこぞのブラック企業の社長さんだったら、「甘えるな!そんなん自己責任だ」で終わりですもん。

しかし、救護法が制定される1932年(昭和7)の前年の昭和6年に渋沢栄一は永眠します。享年92歳。

* 参考文献