1 交通整備
戦国時代は敵が領内に入り込むことを警戒していました。敵に領地に入られることを防ぐため、道を狭く曲がりくねった悪路にしたり、川にもほとんど橋をかけなかったと言います。

しかし、信長はそんな戦国時代の常識などお構いなし。信長はこんな命令をしたと言います。


  1. 入江や川には船を並べた上に橋をかけ、石を取り除いて悪路をならせ


  2. 本街道の道幅は3間2尺(約6・5m)とし街路樹として左右に松と柳を植えよ


  3. 周辺のものたちは道の掃除と街路樹の手入れをせよ


道幅がぐーっと広くなり、道も平たんでまっすぐに整備したから、通行人が通りやすくなりました。さらに道路の両側に松や柳を植えて、夏には通行人が木かげで休めるようにしたのですね。そこまで行き届いているのですね。

さらに信長は排水溝も作ったり、今でいうバイパスみたいなものも作っています。こうした信長による道の整備は、道を通る行商人や通行人には喜ばれたことでしょう。交通インフラの整備によって商品流通を活性化させたのですね。

ただ、これだけ道を整備し、とおりやすくするということは、逆にいえば敵からみたらありがたいことです。そうなると敵が攻めやすくなるのではないか、信長にとって自殺行為ではなかろうかって話になりますが、信長はそういう弱点を跳ね飛ばすほどの経済力、そして軍事力を持っていたのですね。

信長は莫大な経済力をもって軍事力を強化したのですが、信長の軍事強化もこれまでの常識を破るものでした。

2 兵農分離と城下町整備
まず信長が行ったのは「兵農分離」。戦国時代の兵士たちは基本的に農民です。普段は農民として田畑を耕していたのですが、戦争になると戦地に赴くのです。だから農繁期は戦に出ることができませんし、長期遠征などできません。信長は戦に専念できる兵士が欲しいと思ったのですね。いわゆる職業軍人が欲しいと。当時の家制度は長子相続で、長男が跡取りになります。それで信長は長男には農民として働いてもらい、次男や三男を召し抱え兵士となってもらおうと。そうして集められた兵士の集団を親衛隊。

さらに召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせたのですね。そして、刀、やり、鉄砲という武器ごとに分けて集団訓練を受けさせたのですね。こうした共同訓練を受けさせ高い組織力と機動力を強化し、強くなっていったのです。また兵士たちを城下町に住まわせることで城を護衛することもできたのですね。

城下町といえば、信長は何度も居城を変えているのですね。清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城と城を何度も変えているのですね。そして変えるたびに城下町も広くなっていくのですね。城下町を拡大することで、商人を集め、より多くの税収を集めることができるのです。特に信長が最後に構えた安土城は京にも近く、大坂を中心とした畿内経済圏、名古屋を中心にした中京経済圏の中間にあたり、さらに中山道や八風街道はっぷかいどうが安土を通っており交通の要所でもあったのです。


3 鉄砲と鉄甲船
そして、信長といえば鉄砲。鉄砲を用いて強敵たちと立ち向かったのです。もちろん、信長以外の大名たちも鉄砲に目をつけていました。しかし、多くの大名たちは鉄砲に手をつけなかったのです。なぜなら、当時の鉄砲は火縄銃だから。火縄銃は強力な反面、弾を込めるのに時間がかかるし、火縄銃自体も高価だったのです。火縄銃一丁買うのに現在のお金で50万円もかかると言いますから。なかなか普及しなかったのです。でも、信長は経済力が高かったから、他の大名よりも多く鉄砲を導入することができたのです。

特に武田騎馬軍団との戦いは壮絶なものでした。相手は戦国最強といわれている騎馬軍団。まともに戦ったら勝ち目がありません。それで信長が現在の価値で15億もの大金をはたいて、鉄砲3千挺も購入したのです。長篠の戦では、一発撃つごとに先頭を交代する(*1)という斬新な戦い方で武田軍を打ち破ったのは有名な話です。

しかし、いくら鉄砲があっても、火薬や弾丸がなくては、何の役にも立ちません。実は、鉄砲の弾丸と火薬も信長はあっさりと調達することができたのです。

弾丸には鉛が使われておりました。鉛は日本では珍しいものでした。信長軍の弾丸は海外、それも東南アジアのタイの鉱山でとれた鉛を使っていたといいます。

オランダやポルトガルなどのヨーロッパ諸国は当時大航海時代。こうしたヨーロッパ諸国がアジアにも進出してきたのです。

1572年、カブラルという宣教師が信長の館に訪れます。カブラルは信長にキリスト教の布教の許しをもらうと同時に、日本では取れない貴重な鉛の取引を進言しました。信長は布教を許す代わりに、宣教師たちのもつ交易ネットワークを信長が利用したのではないかと考えられております。戦乱が続き、国内で不足しがちだった軍事物資を信長は海外から調達をしたのです。

火薬は硝石を使っていました。これも海外からの輸入品です。信長は堺を抑えていたから、こうした貿易を通して海外の物資をいち早く手に入れることができたのです。


そして、信長の軍事力の集大成と言えるものが鉄甲船。元亀元年ゲンキガンネン(1570)に石山合戦が始まりました。石山本願寺の顕如が信長に立ち上がったのです。顕如は毛利輝元に支援を求めます。毛利は毛利水軍700そうを大坂に差し向けます。信長は毛利水軍と戦いますが、あえなく敗退。毛利軍は海の戦いに強いですから。それで信長は伊勢志摩水軍に命じて燃えないような強力な船を作れと命じます。そうしてできた船が鉄甲船。全長約23mの巨大な船だったそうです。この鉄甲船を作るのに莫大な費用がかかったから、これも信長の経済力のなせる技。そして鉄甲船をもって毛利水軍を打ち破ったのです。





*1 この戦法には諸説あり。