前回の記事で波風を立てないことも基本的に良いことなのですが、なんだろうねみたいな話をしました。今日は波風を立ててしまったけれど、それで突破口を開いた人物を取り上げます。幕末の英雄の1人、高杉晋作です。

幕末、長州藩チョウシュウハン内は、幕府に従うべきという保守派と、幕府と戦うべきという尊攘派ソンジョウハに別れていたのです。高杉は当然、尊攘派。
ちなみに尊攘派は自らを正論党セイロントウと名乗り、保守派を俗論党ゾクロントウと言ってけなしていたのですね。

そして、長州藩は保守派の方が権力を握ってしまいます。禁門の変(*1)に出兵した家老たちを切腹し、奇兵隊をはじめ、諸隊に解散を命じて、幕府との戦いをけけようとしたのですね。さらに保守派は、尊攘派の粛清シュクセイも始めたのです。高杉も投獄トウゴクされそうになったのですね。

怒ったのが高杉。1864年(元治元年ゲンジガンネン)高杉は下関にある功山寺コウザンジに兵を集めます。しかし、その数は百人に満たなかったそうです。そして、その年の12月16日に挙兵。保守派の方が圧倒的に兵力が多いのに、無謀な戦いです。

その時の高杉は「毛髪モウハツが逆立ち、目がけ、かべがビリビリれれ、人々は震え上がるほどだった」という凄まじい迫力だったそうです。

この挙兵に高杉は奇兵隊にも参加を呼びかけました。しかし奇兵隊ははじめは参加しなかったのですね。当時の奇兵隊は山縣有朋が中心人物で、高杉の呼びかけに山縣は拒否したのです。山縣は波風を立てたくなかったのですね。長州藩の保守派とことを争いたくなかったのです。それでも高杉は少数の味方ともに立ち上がったのですね。

まず高杉たちは物資調達のため下関新地開所を襲撃シュウゲキ、その後、即座に三田尻ミタジリに移動して藩の軍艦を奪取ダッシュ。その情報が伝わると井上馨イノウエカオル品川弥二郎シナガワヤジロウも呼応。

それから、はじめは参加を渋った奇兵隊も高杉に合流。その時高杉が山縣有朋に行った言葉。

「わしとおまえは焼山かづら うらは切れても. 根はきれぬ」


奇兵隊だけでなく諸隊も合流したのです。

あわてた保守派は、捕らえていた尊攘派の幹部を処刑したのです。それが火に油を注ぐ結果になり、これに反発を強めた書体のへいが次々と加わり、高杉の味方がどんどん増えたのです。高杉率いる尊攘派が長州藩の保守派に勝利し、ついに尊攘派が長州藩の実権を握ったのです。

山縣有朋は高杉晋作のことをこのように評しています。

「自分などは、いつ何時、彼のために腹を斬らされることがあるかも知れぬと思っていた。」

山縣は高杉が何かことを起こすと、いつも尻拭いをされていましたからね。高杉が亡くなってから、高杉のことを思い出すたび「しょうがないな」って言いながら笑っていたかもしれない。

伊藤博文は高杉にはじめから慕っていて、高杉のことをこのように評しております。

「動けば雷電の如く。発すれば風雨の如し」

高杉のやったことは非常に無謀ムボウなことですが、もし高杉の無謀とも言える挙兵がなかったら、明治維新は成功しなかったかもしれない。そんなことも伊藤は思ったのかもしれません。


* 参考文献
松下村塾と幕末動乱 (双葉社スーパームック)
オフィス五稜郭
双葉社
2014-09-17



また、この本は「歴史秘話ヒストリア」も参考にしました。