GHQの最高権力者だったマッカーサーは1951年(昭和26)に解任させられます。公務に関して明軍政府と国連の政策を心から支持しないというのが原因とされておりますが、トルーマン大統領との対立が抜き差しならぬものとなっていたのも大きいでしょう。突然のマッカーサー解任にアメリカ国内の保守派は怒り、共和党議員の中にはトルーマンを辞めさせようといきまいていた者もいました。そして、朝鮮戦争の行きづまりにいらだっていたアメリカ国民の多くは、戦争の英雄であるマッカーサーの解任したトルーマンに怒りをぶつけました。いたるところで、トルーマンのワラ人形が作られ、その人形に火をつけられたといいます。というか、アメリカにもワラ人形ってあったのですね。ワラッてしまいますねw

おっとくだらないギャクを言ってすみませんw

一方、日本の国民はマッカーサー解任にショックを受けました。そして、マッカーサーよりも偉い人がいたのかと当時の日本人は驚いたといいます。何しろマッカーサーは当時の日本では天皇より偉い人でしたから。

マッカーサーが日本を離れるとき、日本人の多くは別れを惜しみ、マッカーサーを見送ったといいます。羽田までの沿道を人々は埋め尽くし、新聞はその数20数万人と報道しました。ちょっと前までは鬼畜米英キチクベイエイと言っていたのがウソみたい。最も、戦時中に反米感情をあおっていたのはマスコミと右派くらいで、アメリカに対して親しみのような感情を持っていた人の方が多かったのですね。戦前はジャズがはやっていたし、若き日の田中角栄は、従軍中、アメリカの女優のプロマイドを戦地に持っていって、それで上官に張り飛ばされたエピソードがあるくらいですから。

さて、マッカーサーが日本を離れて、「マッカーサー元帥の記念館を東京に建て、日本に対する功績を永久に記念しよう」という計画が本格化したのですね。その発起人に、秩父宮夫妻、金森徳次郎国会図書館長、田中耕太郎最高裁長官や、朝日新聞や毎日新聞などの有力紙の社長ら十四名がえらばれました。最も、この計画は、マッカーサー在任中から「ニュー・ファミリー・センター」という団体が計画していた「青年の家」という青少年の啓蒙ケイモウ施設の建設計画を発展させたものであり、マッカーサーの記念室だけでなく、プール、運動場、図書室、宿泊施設などを合わせた壮大なものだったといいます。

発起人たちが記念館建設計画についてアメリカに問い合わせたところ、ホイットニー元GHQ民政局長の名で「マッカーサーはこの申し出を非常に光栄におもっている」という承認の返事が来ました。

その後、先のメンバーに藤山愛一郎(日本商工会議所会頭)、浅沼稲次郎(社会党書記長)、安井誠一郎(東京都知事)らも加わり、4億5千万円の予算で三宅坂の旧参謀本部跡に鉄筋コンクリート3階建てのビルを建設する計画まで立てられました。

マッカーサーが日本を離れた翌年の2月にマッカーサー記念館建設のための募金が始まりましたが、なんと1ヶ月で8万4千円くらいしか集まらず、それで宣伝費も60万も使ってしまい、1年後に300万円の借金を残して募金運動は終わったといいます。

そして、マッカーサーがアメリカに帰国後、「日本人は12歳発言」で、日本人は失望してしまいます。日本人の12歳発言の真意は、日本人は幼稚だと馬鹿にしたのか、それとも日本は成長の余地があるからと日本の発展を期待した発言なのか、解釈が分かれるところです。ともかく、12歳発言がダメ押しとなり、マッカーサー記念館計画は幻に終わったのです。

* 参考文献
図説 マッカーサー (ふくろうの本)
鋳郎, 福島
河出書房新社
2003-10-01