1 ホラ吹きと呼ばれた今村明恒イマムラアキツネ
 以前に「歴史秘話ヒストリア」でという今村明恒イマムラアキツネ人物の事を取り上げていました。彼は、1923年(大正12)の関東大震災カントウダイシンサイの予測を何と18年も前から予測したというからオロドキです。もちろん、当てずっぽうに予測したのではなく、過去の統計トウケイに基づいて地震の予測をしたのです。。

今村は、1870年、鹿児島県鹿児島市に生まれました。1891年に東京帝国大学理科大学(現・東京大学)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となります。1896年からは陸軍教授を兼任し、陸地測量部で数学を教えたそうです。

1896年(明治29)に起きた明治三陸地震メイジサンリクジシン発生を期に、今村は津波は海底の地殻変動チカクヘンドウを原因とする説を提唱テイショウしました。さらに今村は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事を雑誌に掲載ケイサイしました。

ところが、この記事はマスコミによってセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。この記事を真に受けた人びとはパニくってしまったのです。彼の上司であった大森房吉オオモリフサキチらから「今村は世の中を混乱させている。今村の説はデタラメ」として攻撃。「ホラ吹きの今村」と中傷チュウショウされてしまったのです。

ヒドイヨねえ。上司なんだから、部下の事をカバいなさいヨwと言いたいところですが、大森もやはり責任を感じていたのでしょう。自分の部下が世の中を混乱コンランさせたことに対して。混乱コンラン収拾シュウシュウさせるには今村を悪者にするしか方法はなかったのです。

結局、今村はほら吹きと呼ばれ、辛い思いをしたのですね。この今村の回の「歴史秘話ヒストリア」を放送をしていた時、ツイッターをのぞいてみたら、「ヒストリア」を見ていた人たちが「マスコミが悪い」とツイートしていたっけwあと、「学会(学者達)は今も昔もよくないね」とツイートしていた人もいたっけ。

2 地震の神様になった今村明恒
 しかし、1923年に関東地震(関東大震災)が発生。今村の忠告が現実のものとなりました。これといった地震の対策をしなかった事もあり、被害は拡大。おびただしい数の犠牲者ギセイシャが出た。

今村はたちまち「地震の神様」とよばれ、人びとから尊敬をされるようになりました。自説の正しさを訴え続けた甲斐カイがあったというもの。でも、今村本人は複雑な気持ちだったと思います。結果的に地震から人びとを救う事が出来ず、多くの犠牲者ギセイシャを出すことになったのだから・・・

雑誌にも「地震の神様のコラム」が大人気となり、このコラムがらないとクレームが来るほど。公演の依頼も殺到サットウしました。

また、東京の復興フッコウにもいろいろと提言をしました。広い道路をつくったり、隅田川スミダガワ立派リッパな橋もかけたりした。1911年に今村式強震計イマムラシキキョウシンケイを開発しました。

3 次は南海に地震がくる
1923年に亡くなった大森教授の後を継いで地震学講座の教授に昇進。次の大地震は南海地震と考えた今村は、これを監視するために、1928年に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を設立。設立費用はなんと今村の自腹じばら。地震から人びとを救いたいという思いで、身銭ミゼニを切ったのだ。出来る事じゃありません。

また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書にのせてほしいと訴えました。

しかし、満州事変以降、日本は戦争一色。今村の事を人びとは忘れ去られるようになりました。戦中も大きな地震が起き、莫大バクダイな被害があったが、その時の政府もマスコミもほとんど黙認モクニン。「地震の復興よりも、お国のために戦え」というのが政府の方針でしたから。

今村の予測どおり、戦後間もない1946年に南海地震が発生しました。そして多くの犠牲者を出してしまった。今村は「またしても人びとを地震から救い出すことが出来なかった」と自責の念にかられたそうです。しかし、昭和の南海地震のとき、今村の言葉を信じて助かった人が今村に感謝の手紙を送ったそうです。


※ 参考サイト等
ウィキペディア
歴史秘話ヒストリア