一方で家来だった村上彦四郎が犠牲になったことを触れました。今日はその続きです。護良は吉野から高野山へ落ち延びました。それは後日、幕府側の二階堂貞藤ニカイドウサダフジは護良が死んでいないことを知りました。二階堂は高野山に押し寄せ「護良はどこだ出てこい!」と言って尋ねました。




このとき、高野山のお坊さんたちは護良をかくまっていたのですね。護良は高野山の大塔のはりに隠れていたのですね。結局、二階堂たちは護良を探し出すことができませんでした。実は元々高野山は護良には非協力的だったのですが、吉野山落城後は護良に協力的だったのです。

護良は機内キナイをあちこち転々としながら、ゲリラ活動を行いました。そのゲリラ活動をしながら、護良は令旨リョウジを各地に発給していました。これは護良を語る上で欠かせない言葉です。令旨とは、親王や皇后などが出す文章で、従者が主人の意思を奉じて従者の署名で発給する形式のものです。

平たくいえば、天皇の子供や皇后が出した手紙です。それも内容はだいたい命令です。令旨の内容は、護良は武将たちだけでなく、お寺や神社、武装商人にまで呼びかけ、鎌倉幕府をやっつけろという内容がメイン。

さらに令旨の内容をさらに詳しくみてみると「北条高時は在長官人時政の子孫に過ぎない」とまで書いてあったのです。北条高時は時の執権でまさに鎌倉幕府の最高権力者。今で言えば、「菅総理だって、元々は農民の子孫」っていうようなもの。護良が時の権力者が地方の下級役人に過ぎなかったと宣伝することによって、北条氏の権威を失落させようとしたのです。そんな北条なんて恐るるに足らぬから戦えということでしょう。

もちろんこのように幕府と戦えもそうですが、お寺に対しては祈祷や供養をお願いなどもありました。

令旨は護良の直筆ではなく、護良の従者である四条隆貞シジョウタカサダらが護良の意思を奉じて発給する形式を取っています。この時代はパソコンも印刷もコピー機もなかった時代ですからね。手書きの文書を複数書くのは大変だったと思います。

実は護良は吉野で挙兵する前(*1)から令旨を出していたのですが、最も盛んに令旨を発給したのは元弘3年。護良は武将たちに決起を促していたのです。その範囲も機内だけでなく、新潟や九州までほぼ全国にわたったといいます。

後醍醐天皇が隠岐オキに流されどうすることもできなかったから、父の代わりに護良が各地の武将たちに倒幕の呼びかけをしていたのです。


どうすることもできないと言っても、父の後醍醐も1332年(元弘2)8月に、出雲<rt>イズモ国の鰐淵寺ガクエンジに念願成就の祈祷キトウ綸旨リンジを出しております。綸旨とは、天皇が出す命令書のこと。護良が出したのは令旨。綸旨と令旨、似たような言葉ですが、意味合いは全く違います。後醍醐が隠岐島に閉じ込められていましたが、それでも綸旨を出したのは、後醍醐が護良に呼応したからだと思われます。護良と後醍醐は連絡を取り合っていたようです。



そして、護良の呼びかけに赤松円心アカマツエンシン(則村)も護良の令旨に応じたと言います。赤松円心は、護良の家来だった赤松則祐アカマツノリスケの父親です。赤松則祐は護良の令旨を持参し、父のいる播磨の国に行ったそうです。そして、赤松円心も挙兵をします。赤松円心は、京の六波羅を攻めます。赤松軍の勢いは凄まじく京まで上り詰めますが、しかし六波羅の反攻も凄まじく、赤松軍は山崎まで追いやられます。山崎といえば、のちに明智光秀と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が戦った場所であり、今はサントリーのビール工場があります。赤松軍は京に登っては六波羅軍に山崎まで押し戻されということを繰り返したのですね。さすがの赤松でも六波羅に苦戦を強いられております。




赤松の他にも九州の武将や四国の武将たちも立ち上がりました。こうして護良は令旨でもって味方を増やして、幕府に立ち向かったのです。

また、護良自身も十津川トツガワや吉野、宇陀ウダなど地元の野武士を7000人も集めたといます。その野武士たちが、幕府側の兵糧を遮断シャダンしたと言います。そのため幕府軍は食べるものもなくなり、少しづつ退散し始めたと言います。

護良は比叡山ヒエイザンにも令旨を送っていました。3月28日に比叡山は蜂起ホウキし近隣の豪族を含め1万6千もの大軍勢が六波羅に押し寄せたと言います。しかし、比叡山軍は烏合ウゴウの衆。すでに六波羅と戦っている赤松と連携も取れず、結局、六波羅軍に負けてしまいます。


そして元弘3年 ウルウ二月には後醍醐が隠岐島オキノシマを脱出します。後醍醐は本州に戻るなり、名和長利ナワナガトシに迎えられ、伯耆ホウキ船上山センジョウサンに立て篭もります。後醍醐が戻ってきたところで、これで倒幕運動がさらに盛り上がるかと思いきや、幕府軍はまだまだ圧倒的な強さを持っていました。護良はどうなるのか。それはまた次回。

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(相関図 肖像画はWikipediaより引用)


1 記録に残っている中で護良が出した令旨で一番古いのが元弘2年6月6日、熊野三山宛に令旨を書いていたのです。護良が吉野に立てこもる半年ほど前のこと。また、同じ月の末に護良の令旨を所持する竹原八郎が伊勢国に入り、幕府の屋敷を襲ったという。


※ 参考文献