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横浜商業興信所 - 『日本全国銀行会社実業家信用録』桑田竜太郎 著, パブリック・ドメイン, リンクによる


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1 横浜の恩人
 横浜に三渓園さんけいえんという庭園があります。広大な土地に四季折々の植物と日本の各地から集められた建造物がある見事な庭園です。この庭園を造ったのが原三渓はらさんけいこと、原富太郎はらとみたろうです。


富太郎は原家の養子であり、元の苗字は青木でした。生まれも岐阜県ぎふけんです。17歳で上京して、東京専門学校(今の早稲田大学)で法律や政治を学びながら、跡見学校(今の跡見学園女子大学)で教師となり、歴史と漢学を教えていたのです。それが当時、跡見学校の生徒だった原屋寿やすと知り合いました。屋寿は原商店の創業者原善三郎の孫娘です。屋寿と富太郎は結婚。晴れて富太郎は原家の仲間入り。人の運命ってわからないですね。

たずさわっていました。とはいっても、原合名会社の本業は製糸貿易であり、富岡製糸場の経営は業務の一つという位置づけでした。しかし、原がかかわっていたころの富岡は、激動の時代でした。





関東大震災の時、横浜の街は壊滅的かいめつてきな打撃を受けました。自分の会社の存在すら危うい状態だったときに、富太郎は一企業の心配を胸にしまい、横浜の復興の先頭に立ち、その重責を一身に担いました。すごいですね。ですから、富太郎は「横浜の恩人」と呼ばれております。




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(原善三郎の写真)
2 文化人だった富太郎
 

また、文化活動にも熱心で、絵画や芸術品を集めたり、茶の湯にも造詣が深く、広く財界人や文化人とも交流をしておりました。日本画家の卵たちを財政的に、精神的に援助し、世にはばたかせたのです。
そうして、横山大観よこやまたいかん速水御舟はやみ ぎょしゅう,牛田雞村うしだけいそんといった画家が育ったのです。昔の経営者は、夢を追う若者のパトロンになる人が多かったのですね。




また、富太郎自身も絵をたしなんでおりました。僕も富太郎の絵を見たのですが、プロの画家顔負けの素晴らしい絵でした。鳥の絵をかいていたのですが、その鳥の目がなんとも優し気で、富太郎は経営者として厳しい面も持ちながらも本当は心優しい人物だったのかなって絵を見て伝わってきました。


 



3 原時代の富岡



 そして原富三郎は原合名会社の社長として辣腕らつわんをふるい、1901年の9月13日、富岡製糸場の経営をしていた三井から、原合名会社に譲渡されました。原合名会社時代の富岡は繰糸器の技術革新など思い切った設備投資をしました。



また、原合名会社は農家との連携もしました。富岡製糸場内に蚕業改良部を設置し、原料まゆの統一をめざして養蚕農家に蚕種を無償配布したり、繭の品評会を大々的におこなったりで養蚕農家の向上心を育て、ともに連携をしたのです。農家への奨励策により良質な原料繭を仕入れることができたのです。その功あってか、富岡の生糸は海外からも高く評価されました。




原合名会社は当時としては比較的社員を大事にしていました。社員は賞与の10分の1を各自の将来のために会社に預けることや毎年8日間の慰労いろう休暇を与えたり、社員のためにサークル活動を奨励しょうれいしたりしていたそうです。また、退職者(遺族を含む)には、忠勤に励んだ者には多額の一時金をだすこと、家族に不幸があれば見舞金みまいきん葬儀代そうぎだいを払うという決まりもあったそうです。



そんな原合名会社に危機が訪れます。アメリカでレーヨンが登場し、生糸にとって代わろうとしていました。さらに悪いことに生糸の最大の輸出先だったアメリカとの関係も次第に悪くなりました。

しかし、何といっても原富太郎の最大の悲劇は、長男・善一郎の突然の死でした。それは1937年の出来事でした。原善一郎は原合名会社の副社長であり、将来を嘱望しょくぼうされていました。長男の死のショックからか、富三郎は社業の整理を決断、製糸から手を引くこととなったのです。





富岡製糸場の譲渡先も片倉に決めました。その理由を富三郎は「片倉は富岡製糸場を将来にわたって大事にしてくれる企業だと思った」から。そして原富三郎は1939年8月16日に亡くなりました。



※1 原三渓こと原富太郎の肖像写真。ウィキペディアより。パブリック・ドメインFile:Tomitaro Hara.jpg作成: 1915年以前)





以下 三渓園の写真
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(在りし日の松風閣。初代善次郎が建てた。ゲストハウスとして用いられ、インドの詩人ドゴールも訪れた)


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(関東大震災で壊れた松風閣)


※ 参考文献