本題に入る前にクイズです。この写真は、オシラさまという神様の人形なのですが、なんの神様でしょうか?
まず3番はちがいます。昔、そんな曲もありましたねw正解は1番。カイコや生糸の神様です。オシラさまの右手には、まゆから取れる絹糸(きぬいと)、左手にはカイコが大好きな桑の葉を持っています。オシラさまは主に東北地方はもとより群馬県でも信仰されていたようです。群馬県は江戸の昔から養蚕が盛んでした。そういうことも富岡に製糸場が作られた理由にもなったのでしょう。
- かいこや生糸の神様
- 恋愛の神様
- トイレの神様
まず3番はちがいます。昔、そんな曲もありましたねw正解は1番。カイコや生糸の神様です。オシラさまの右手には、まゆから取れる絹糸(きぬいと)、左手にはカイコが大好きな桑の葉を持っています。オシラさまは主に東北地方はもとより群馬県でも信仰されていたようです。群馬県は江戸の昔から養蚕が盛んでした。そういうことも富岡に製糸場が作られた理由にもなったのでしょう。
1 日本の生糸のニーズが高かった
明治時代、「殖産興業、富国強兵」をかかげ新しい国造りを日本は目指しました。そのためにも国を豊かにしなくてはいけないし、外国からすすんだ技術も取り入れる必要があります。外国からお金を得るためには、日本で何かをつくってそれを外国に売り出す必要があります。それで明治政府が目を付けたのが生糸でした。
日本は生糸など蚕糸類の生産が盛んだったのです。日本が鎖国を解き、開港した翌年の1860年(万延元年)、日本から輸出された品目の総額は395万4000円ほどありましたが、そのうち約3分の2にあたる259万4000円が蚕糸類だったのです。その後も蚕糸類は日本の輸出品目の60パーセント以上、多いときは80パーセントも占めていたのです。戦後の日本の自動車や電気機器でさえ20パーセントだったというからいかに蚕糸類の割合が大きかったかがうかがえます。
それにしても、なぜ海外の国々は日本の生糸をこれほど求めたのでしょうか。理由は2つあります。
それで外国人たちは日本は国内で内乱も起こっていないし、カイコも病気になっていないからきっと質の良い生糸が手に入るだろうと考えたのですね。
しかし、生糸といってもピンキリで質の良いのもあれば、質の悪いのもあったのです。輸出が急増した結果、悪徳な業者もでてきて、質の悪い粗悪品も大量に出回ったのですね。ともかく生糸は飛ぶように売れましたからね。曲がりものでも生糸とつけば売れる時代。また、悪徳業者ばかりが悪いのではなく、まっとうな生産者であっても、繭の中に寄生するウジ虫を除去できずに品質をさげたり、揚げ返し(※1)のやり方がよくなかったりして、生糸の品質を下げていたのです。
2 ブリュナの力を借りて
政府はせっかくの輸出品目がこれじゃいかん、きちんとした商品を輸出するには大きな工場が必要だと。それで渋沢栄一らに命じて、官営製糸工場の建設計画を練りあげます。ヨーロッパの機器を取り入れ、外国人の教師に指導させ、全国から工女さんを募集し、仕事を教え、そのあとは彼女たちを出身地に帰らせ、地元の指導者にしようと。渋沢らは明治3年(1870年)フランス人の技師ポール・ブリューナを雇い入れ、彼からアドバイスを受けることにしました。ブリュナは、ヨーロッパ製の機械を日本に導入することのメリットを見込書に書き、それを政府に提出しました。政府は全面的に受け入れました。その見込書に書いてある内容をまとめると、
明治時代、「殖産興業、富国強兵」をかかげ新しい国造りを日本は目指しました。そのためにも国を豊かにしなくてはいけないし、外国からすすんだ技術も取り入れる必要があります。外国からお金を得るためには、日本で何かをつくってそれを外国に売り出す必要があります。それで明治政府が目を付けたのが生糸でした。
日本は生糸など蚕糸類の生産が盛んだったのです。日本が鎖国を解き、開港した翌年の1860年(万延元年)、日本から輸出された品目の総額は395万4000円ほどありましたが、そのうち約3分の2にあたる259万4000円が蚕糸類だったのです。その後も蚕糸類は日本の輸出品目の60パーセント以上、多いときは80パーセントも占めていたのです。戦後の日本の自動車や電気機器でさえ20パーセントだったというからいかに蚕糸類の割合が大きかったかがうかがえます。
それにしても、なぜ海外の国々は日本の生糸をこれほど求めたのでしょうか。理由は2つあります。
- 一つは、ヨーロッパ全域でカイコの病気が蔓延し、ほとんどのカイコガ死んでしまい、生糸の生産がままならなくなったから。
- 二つ目は清(今の中国)の国内情勢が悪化したからです。清は生糸の大量輸出国でしたが、アヘン戦争(1840年〜42年)やそれに続く太平天国の乱とよばれる内乱で、生糸の生産能力が極端に落ちたから。
それで外国人たちは日本は国内で内乱も起こっていないし、カイコも病気になっていないからきっと質の良い生糸が手に入るだろうと考えたのですね。
しかし、生糸といってもピンキリで質の良いのもあれば、質の悪いのもあったのです。輸出が急増した結果、悪徳な業者もでてきて、質の悪い粗悪品も大量に出回ったのですね。ともかく生糸は飛ぶように売れましたからね。曲がりものでも生糸とつけば売れる時代。また、悪徳業者ばかりが悪いのではなく、まっとうな生産者であっても、繭の中に寄生するウジ虫を除去できずに品質をさげたり、揚げ返し(※1)のやり方がよくなかったりして、生糸の品質を下げていたのです。
2 ブリュナの力を借りて
政府はせっかくの輸出品目がこれじゃいかん、きちんとした商品を輸出するには大きな工場が必要だと。それで渋沢栄一らに命じて、官営製糸工場の建設計画を練りあげます。ヨーロッパの機器を取り入れ、外国人の教師に指導させ、全国から工女さんを募集し、仕事を教え、そのあとは彼女たちを出身地に帰らせ、地元の指導者にしようと。渋沢らは明治3年(1870年)フランス人の技師ポール・ブリューナを雇い入れ、彼からアドバイスを受けることにしました。ブリュナは、ヨーロッパ製の機械を日本に導入することのメリットを見込書に書き、それを政府に提出しました。政府は全面的に受け入れました。その見込書に書いてある内容をまとめると、
- 現在ヨーロッパで行っている方法をそのまま日本でやるのではなく、日本在来の製糸法を補強することが第一だ。
- ヨーロッパの女教師を招き、日本の職人に伝習させることは難しいことではない。
- 製糸機械を設置する場所は風通しがよく、日射が多いとことが最適。約300釜設置するには長さ126メートル、幅12メートルの建物が望ましい。
- 監督や職人など総計462人が必要
- 江戸時代から養蚕がさかんだったこと。
- 広い敷地が確保でき、地元の住民も反対しなかった
- 風景もよく、環境的にも優れている
- 妙義山などから豊富な浄水を確保できる
- 東京からそんなに離れていない
- 近辺の山地から燃料となる石炭が採掘できる。製糸機器は蒸気エンジンで動くが、その燃料は石炭だから
3 富岡が製糸をやるのに良い土地だった
ブリューナは養蚕の状況を視察するため、武蔵、上野、信濃などの各地を視察し、最終的に上野国の富岡を選んだのです。
「お、富岡っていいとこじゃん」とブリューナが思ったのは主にこれらの理由からです。
また、富岡は湿度が低い地域です。製糸の作業は湿気が多いところでは向かず、空気が乾燥しているところが望ましいのです。そのうえ、雪もあまり降らないし、気候も比較的温暖。まさに、富岡は製糸をするうえで理想的な地域だったのです。
※ 参考文献
あと富岡製糸場のパンフレットも参考にしました。
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