主婦が動くと歴史が動くといわれております。たとえば、米騒動に、原水爆禁止運動。
実はフランスでも主婦が立ち上がり、歴史も動いたのですね。それが、1789年10月におきたヴェルサイユ行進です。その日、パリの8000人の女性たちが雨の中をヴェルサイユに行進しました。女性たちはなんとヤリやサーベルなどで武装し、大砲まで引いていたというからすごいですねw

このころのパリではパンが不足していて、台所をあずかる女たちは先行きを不安に感じていました。そんなに人々は食うに困っていたのに、王宮では連日のようにパーティーが開かれていたそうです。それには女たちも激怒。王様になんとかしてもらいたいとおもって女たちはヴェルサイユにやってきたのです。
女性たちの代表が国王に会見し、ルイ16世はパンと麦をパリに送り届けることを約束しました。しかし、結局騒動は収まらず、群衆がマリーアントワネットの寝室まで迫ってきたため、アントワネットは手近の衣類を羽織って国王の部屋へ逃げたといいます。もはや国王といえども民衆たちに怒りは納められそうにもありません。
バスチーユ事件以降、革命はちゃくちゃくと進んでいきました。庶民だけでなく議会でも、王室に対する不満は高まっている状況でした。また、ルイ16世は今まで住んでいたヴェルサイユ宮殿を追われ、ティイルリー宮に引っ込む羽目になりました。このままではいつか自分たちも命を狙われてしまう。そんな危機感がルイ16世にもあったのかもわかりません。
すでに一部の貴族たちは革命を恐れ国外逃亡をしました。しかし一国の王様が国をすて逃げるとなると大ごとになります。このまま国に残るか、それとも逃げるか。ルイ16世は悩みます。そんな時側近の一人が、「王様お逃げください」と勧めました。
それで国王一家は国外逃亡を決意。逃亡先は、アントワネットの故郷オーストリア。国境まで無事にたどりつけば、アントワネットの兄レオポルド二世が守ってくれる。そんなことをアントワネットは考えていたのです。逃亡の予定日が1791年6月20日の夜。ルイ16世とアントワネットは馬車に乗り込み、ティイルリー宮を脱出しました。
しかし、アントワネットの強い要望で、逃げる途中で、質素な馬車から豪華な馬車に乗り換えました。そんな豪華な馬車に乗れば、人目につくし、ましてや逃げるとなると不都合です。そんなこともアントワネットはわからなかったのです。しかも、その逃げる道中ものんびりしたもので、途中でピクニックを楽しんだりしたそうです。本当に逃げるのならもっと急がなければならないのですが、ルイ16世達は「大丈夫、見つからない」と楽観視していたのでしょうね。
そしてとうとう、ルイ16世一家は、小さな町ヴァレンヌで捕まってしまいます。豪華な馬車に乗ってしまったのが仇となったのです。
そして、国王一家はパリに帰ってきましたが、聴こえてくるのは民衆の罵声。もともとルイ16世やアントワネットを嫌っていた人たちはもちろん、かつて国王を慕った人たちまでも、国をすてたルイ16世一家に怒りを覚えたのです。このヴァレンヌ逃亡事件は、のちの国王一家の惨殺につながっていたのです。もし、ルイ16世が逃げなければ、王制は廃止されても少なくともルイ16世とマリー・アントワネットの処刑は免れ、(いまの)日本の天皇陛下のようなポジションになれたかもしれない。
※ 参考文献
実はフランスでも主婦が立ち上がり、歴史も動いたのですね。それが、1789年10月におきたヴェルサイユ行進です。その日、パリの8000人の女性たちが雨の中をヴェルサイユに行進しました。女性たちはなんとヤリやサーベルなどで武装し、大砲まで引いていたというからすごいですねw

このころのパリではパンが不足していて、台所をあずかる女たちは先行きを不安に感じていました。そんなに人々は食うに困っていたのに、王宮では連日のようにパーティーが開かれていたそうです。それには女たちも激怒。王様になんとかしてもらいたいとおもって女たちはヴェルサイユにやってきたのです。
女性たちの代表が国王に会見し、ルイ16世はパンと麦をパリに送り届けることを約束しました。しかし、結局騒動は収まらず、群衆がマリーアントワネットの寝室まで迫ってきたため、アントワネットは手近の衣類を羽織って国王の部屋へ逃げたといいます。もはや国王といえども民衆たちに怒りは納められそうにもありません。
バスチーユ事件以降、革命はちゃくちゃくと進んでいきました。庶民だけでなく議会でも、王室に対する不満は高まっている状況でした。また、ルイ16世は今まで住んでいたヴェルサイユ宮殿を追われ、ティイルリー宮に引っ込む羽目になりました。このままではいつか自分たちも命を狙われてしまう。そんな危機感がルイ16世にもあったのかもわかりません。
すでに一部の貴族たちは革命を恐れ国外逃亡をしました。しかし一国の王様が国をすて逃げるとなると大ごとになります。このまま国に残るか、それとも逃げるか。ルイ16世は悩みます。そんな時側近の一人が、「王様お逃げください」と勧めました。
それで国王一家は国外逃亡を決意。逃亡先は、アントワネットの故郷オーストリア。国境まで無事にたどりつけば、アントワネットの兄レオポルド二世が守ってくれる。そんなことをアントワネットは考えていたのです。逃亡の予定日が1791年6月20日の夜。ルイ16世とアントワネットは馬車に乗り込み、ティイルリー宮を脱出しました。
しかし、アントワネットの強い要望で、逃げる途中で、質素な馬車から豪華な馬車に乗り換えました。そんな豪華な馬車に乗れば、人目につくし、ましてや逃げるとなると不都合です。そんなこともアントワネットはわからなかったのです。しかも、その逃げる道中ものんびりしたもので、途中でピクニックを楽しんだりしたそうです。本当に逃げるのならもっと急がなければならないのですが、ルイ16世達は「大丈夫、見つからない」と楽観視していたのでしょうね。
そしてとうとう、ルイ16世一家は、小さな町ヴァレンヌで捕まってしまいます。豪華な馬車に乗ってしまったのが仇となったのです。
そして、国王一家はパリに帰ってきましたが、聴こえてくるのは民衆の罵声。もともとルイ16世やアントワネットを嫌っていた人たちはもちろん、かつて国王を慕った人たちまでも、国をすてたルイ16世一家に怒りを覚えたのです。このヴァレンヌ逃亡事件は、のちの国王一家の惨殺につながっていたのです。もし、ルイ16世が逃げなければ、王制は廃止されても少なくともルイ16世とマリー・アントワネットの処刑は免れ、(いまの)日本の天皇陛下のようなポジションになれたかもしれない。
※ 参考文献
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