1 バスチーユ事件の混乱
 民衆は武器を持って立ち上がろうとしたのです。その武器を手に入れるために7月14日、アンヴァリッド(廃兵院)に押しかけ3万2000丁もの銃と24門の大砲をてにしましたが、まだまだ武器がたりない。それで、民衆たちはバスチーユに乗り込んだのです。

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バスチーユ陥落は、フランス革命の幕開けともいうべき大きな事件でした。バスチーユ要塞に市民や国民衛兵が襲撃をしたのです。バスチーユ要塞は、高さ30メートルの城壁と幅25メートルの堀に守られ、城壁にはいくつもの大砲が備え付けられておりました。そのため難攻不落だといわれていました。

ところが、要塞司令官のローネー侯爵は銃撃戦が交わされたあと、自ら降伏したのです。民衆に銃を向けることが耐えられなかったのでしょう。これでローネーがヒトラーのような男だったら、要塞をせめる民衆を銃で皆殺しにしたでしょう。

ベルサイユの宮廷では、軍隊を派遣し、パリを制圧すべきという意見もありましたが、流血を好まないルイ16世は、和平の道を選びました。7月17日に和解が成立したのです。翌日議場で軍隊を撤退する旨をつげます。人々からは「国王ばんざい」との喚声が上がり、ついでネッケルを再任することも約束しました。

ちなみに、バスチーユ牢獄は、もともとパリ防衛のために14世紀につくられたものでした。その後、パリの街が大きくなるにつれ、首都防衛という軍事的な機能を失い、政治犯を収容する監獄になりました。しかし、革命当時、バスチーユに収監されていたのは政治犯ではなく、普通の犯罪者でした。







この事件は、フランス国中に衝撃を与えました。バスチーユ襲撃事件は人々に「世直しは可能だ」という希望を与えたました。

法外な年貢を巻き上げる貴族領主たちに恨みをもっていた農民たちは、ここぞとばかり貴族の館を襲い、年貢台帳を燃やしました。

また、「大恐怖」という現象も農村部で起こっておりました。バスチーユ事件が起こった年は凶作で食糧不足。失業などでホームレスも増えたのです。当然、飢えている人もたくさんいます。「衣食足りて礼節を知る」とはいいますが、人間飢えると何をしでかすかわかりません。

そこへバスチーユ事件の情報がオーバーに農村に伝わりました。農民たちは、「自分たちの村が、そうした失業者だけでなく強盗、ならず者たちが食べ物を強奪しにくるのでは?」と思うようになりました。そうした恐怖心にとらわれた農民たちは農具や銃で武装し、襲撃に備えたといます。しかし、実際にそうした、ならず者たちが農村を襲うことはありませんでした。

また、バスチーユの混乱を機に国外へ亡命した王族や貴族たちもいました。ルイ16世の弟アルトワ伯爵(のちのシャルル10世)も真っ先に逃げ出した一人でした。


2 封建制度廃止
 こうした混乱を鎮めるには、一刻も早く改革をしていかなければいけない、そんなことが国会で話し合われるようになりました。

そして1789年8月4日、ついに聖職者および貴族たちのあらゆる特権を放棄することが決まりました。それまでの身分に基づいた免税特権、領主の年貢徴収権も廃止されました。これによって貴族たちも税金を払わなくてはいけなくなり、農民たちも年貢を納めなくてもよくなったし、貴族たちによる賦役(つまりタダ働き)も無くなりました。しかし、これらは書類上で決まったこと。

実際、こうした取り決めがあったあとも、貴族の特権は無くなりませんでした。貧しい農民たちはがめつい貴族たちに年貢を納め続けていたのです。人間は一度美味しい思いをすると、なかなかそこから抜け出せないのですね。こうした動きはジャコバン派の独裁まで続きます。

3 人権宣言
 そして同年8月26日、議会は「人間および市民の権利宣言」。いわゆる「人権宣言」を採択しました。この人権宣言はフランス革命のみならず、世界の歴史においても大変意義深いものです。人権宣言は、あらゆる近代的憲法に大きな影響を与えました。日本国憲法にも、人権宣言の精神が生きております。もし、人権宣言がなければ、現代の日本においても大日本帝国憲法が残っていたかもわかりません。

フランス革命以前は王様が偉くて、市民は虐げられるだけの存在でしたが、この人権宣言によって人は平等で、国民に主権があることが唱えられるようになったのです。この人権宣言は全部で17条あって、
「自由かつ権利において平等」や「国民主権」,「法の前の平等・市民の参政権」,「刑罰は法の下で執行」,「思想・信条の自由」,「言論の自由」,それから「所有権の不可侵」などが叫ばれるようになりました。

ただ、人権宣言に書かれている「市民」とは男性のみをさし、女性は対象外でした。さらに女性だけでなく、有色人種には適用されませんでした。たとえば、黒人でしかも女性には、人間扱いしてもらえないって事でしょうねえ。奴隷制度ドレイセイドも依然として残ったままです。しかも人権宣言は法的拘束力はなくスローガン的なものでありました。

人はみな平等とはいうけれど、封建的な価値観が根強い十八世紀で、それを実現させるのは難しかったようです。

※ 参考文献