1 苦戦した幕府軍
 天草四郎をトップにたて一揆勢は原城に立て篭もり幕府と戦いました。幕府軍は最初は勝てると思ったのですが、思わぬ苦戦をさせられます。 

一揆勢がたてこもった原城もまた難攻不落の城だったのです。城は三方を有明海にかこまれておりました。有明海の潮の流れはとても早く、城のそばに船を停泊させることは非常に困難だったのです。そのため幕府が海から原城を攻撃できるのは一日二回の潮どまり(※1)の時だけ。

そして陸側というと、こちらは湿地帯。ぬかるみに足をとられて城に近づくのもままならなかったのです。しかも一揆勢はガケの上に板塀を張り巡らせて敵の侵入を防ぐなど周到な準備をしておりました。一揆勢は板塀の影にかくれ、城壁をよじ登ってくる幕府軍を鉄砲で狙いうちにしたのです。地の利を生かして幕府の大群と槍あったのです。まさにベトナム戦争でベトナムがゲリラ戦でアメリカ軍をやりあったのと共通するものがあります。

籠城となると食糧の調達が重要になります。その点も一揆勢は抜かりなく、海の事情を知る彼らは、夜にこっそり船を出し、籠城のために必要な武器や食料を調達することができたのです。だからこそ、長く戦うこともできたのです。

そして一揆勢が強かったのは、かつての関ヶ原の合戦の猛者たちが指揮を取っていたのもそうですが、農民も侮れなかったのですね。農民は鉄砲を使って、走り回っているイノシシや鳥を取っていたのですね。だから、生じかの武士よりも鉄砲の腕がすごかったのです。

ちなみにこの戦いには宮本武蔵も幕府軍に加わっていたのですね。彼ほどの剣豪が「拙者、足に石が当たって動けない」と弱気なことをいう有様。

2 板倉がやってきたものの
 事態を重くみた幕府は板倉重昌を送り込みます。板倉は三河国(いまの愛知県)深溝藩主でした。徳川家光に命じられ島原の乱の平定をしようとしたのです。板倉は、相手はたかが農民の一揆いっきだとタカをくくっていたのでしょう。ところが、重昌は原城にたてこもっている一揆勢に苦戦を強いられます。

さらに援軍にきた肥後(いまの熊本県)の細川氏と肥前国(いまの佐賀県)の鍋島氏は、指揮官である板倉の言うことをきいてくれません。なぜなら、板倉の領地の石高が1万5千石なのに対し、細川氏は54万石、鍋島氏は35万7千石と、板倉よりも鍋島や細川のほうが格上なのです。いわば中小企業の社長さんが、それこそ経団連に名を連ねるような大手企業の社長さんの上にたち命令をするようなもの。これでは軍の統制がとれません。



そんななか、幕府から老中の松平信綱まつだいらのぶつながやってくるという知らせが板倉の元に届いたのです。これにあせった板倉は強引に原城総攻撃を開始。しかし幕府軍の足並みはそろわず。板倉は弾丸を受けて戦死しました。一揆勢は松平信綱によって平定されるのですが、その辺の話は次のエントリーでお話しします。

3 板倉重政が眠るお寺
 東京中野区に宝泉寺というお寺があります。。このお寺には板倉重昌いたくらしげまさのお墓があります。板倉は島原の乱で戦死しました。

ちなみに、この法泉寺のすぐ近くにある萬昌院功運寺には「忠臣蔵」でおなじみ吉良上野介きらこうずのすけのお墓があります。僕も吉良上野介のお墓参りのついでに板倉重昌の墓参りをしようとしたのですが、あいにく板倉重昌の墓がわかりませんでした。板倉の墓を探そうと宝泉寺の墓地の中をしばらくウロウロしていたのですが、次の予定が入っていたのでそのまま帰ってしまいました。それに墓地の中をあんまりウロウロするのも気持ちいいものではないしね。

法泉寺の最寄り駅は西武新宿線の新井薬師前駅です。といっても、けっこう駅から離れているし、ちょっとわかりにくい場所にあります。

最後に板倉重昌の人となりがわかるエピソードをお伝えします。大坂冬の陣における豊臣方との誓紙交換せいしこうかん(※2)精子交換の際、豊臣方は誓書のあて名を大御所の徳川家康か将軍の徳川秀忠のどちらにするか迷って板倉に質問しました。すると板倉は迷うことなく家康にするように述べました。江戸に帰った後、家康にそのことを問われると「私は二君の使いではなく、家康公の家臣です」と板倉は述べました。その板倉の忠誠心を家康にほめられたそうです。

※1 満潮と干潮時に,潮の満ち引きが一時とまること。

※2 誓紙とは誓いの言葉を記した紙。起請文。誓紙交換とは、その起請文を交換しあうこと。ちなみに起請文とは自己の行動を神仏に誓って守るべきことが書かれた文書。違反した場合は罰を受ける旨も記されている。