今日も伊達政宗に関連するお話をします。伊達政宗は1613年(慶長18年)に藩士・支倉常長はせくらつねながらをメキシコ、スペイン、ローマに派遣しております。一行は支倉たち仙台藩士だけでなく、江戸幕府関係者、各地の商人、フランシスコ会の宣教師など計180名で参加しました。その目的はスペインとの通商交渉(※1)でした。

支倉の使節団は1613年から、1620年(元和げんな6年)まで7年間続きました。これがいわゆる慶長遣欧使節団です。

一行は1613年10月月浦(現石巻市)を出帆しゅっぱんし、約90日後にメキシコに上陸。その後、陸路で大西洋側まで進み船を乗り換えスペインへ向かいました。1615年、スペインはマドリードの王宮で国王フェリペ3世に謁見えっけんを果たしました。しかし、通商に関してはフェリペ3世から「すぐには返事ができない」という感じでした。それから常長は翌年ローマに向かい、ローマ教皇パウロ5世に謁見します。ローマ法王にあった後常長はふたたびフェリペ3世に会いますが、交渉は進まず。

しかも悪いことに、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかったのです。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国しました。こうしてはるばるローマまで往復した常長でしたが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていました。そして、1621年に失意のうちに死去したのです。

海外に行くというと今の感覚でも大変かもしれませんが、昔は交通手段も船くらいしかなかったので、今よりももっと大変だったと思います。そんな命がけの旅をしたのに関わらず、交渉も成功しなかったのですから、常長は気の毒だなと思います。しかし、彼が命がけではるばるヨーロッパまで行ったことは大変大きなことだと思います。

世の中は結果がすべてで、そこに至る努力だとか情熱といったプロセスは見てもらえないことが多々ありますが、少なくとも常長の行ったことは評価どころか日本人として誇りに思ってよいと思います。支倉はそれだけの偉業を成し遂げたのですから。

さて、支倉達一行が乗った船はサン・ファン・バウティスタ号。この船は日本初の西洋型木造帆船だそうです。この船をつくるのに仙台藩の人だけでなく、なんと幕府の人までかかわっておりました。造船にあたっての総監督は徳川幕府初代スペイン使節のセバスチャン・ビスカイノ。幕府からも船大工さんが派遣されました。ビスカイノの指導のもと、造船工約800人、鍛冶工約700人、大工役3000人という大がかりな造船作業でした。それに伴い女、子供たちも働いたので、経済効果もあったようです。

船をつくるのに用いられた木材は、気仙けせん磐井いわい江刺えさしなど各郡から調達されました。

当時のスペインでは同じような船をつくるのい二年ほどかかったようですが、サンファン号は、45日で作られました。大人数で作ったとはいえ、日本の技術に驚かされます。


※1  外国と商取引をすること。交易。貿易。「条約を結んで外国と―する

※ おまけ

サン・ファン・バウティスタ号の復元船は、震災による津波で被害を受けましたが、2013年にサン・ファン・バウティスタ号は復活しました。



※ 参考文献
宮城県の歴史散歩
山川出版社
2007-07-01