1 敵を知らず己を知らず
僕が考える日本軍失敗の最大の理由は「敵を知らず己を知らず」だと思います。これは『孫子』にでてくる有名なフレーズであります。

そもそも日本とアメリカの国力の差が開きすぎていたのです。昭和15年ころの日本の粗鋼生産量は六百八十五万トンです。かたや、アメリカの生産量六千七百四十五万トンに比べるとはるかにおよびません。日本の原油の生産量は30万トンですが、アメリカの生産量はなんと一億八千二百万トンですから、お話にならないのです。

もちろん、当時の政府が日本とアメリカの国力の差を理解していないわけではなかったのですが、その知り方があまりに表面的で、その背後にある、たとえば鉄鋼生産量の差、いずれ飛行機や軍艦等の生産量の差にもなってくる、そのことに気づかなかったのです。

さらに重要なことは、当時の日本はアメリカにほとんどの物資を輸入していたのです。原油だけでなく、軍艦や飛行機や自動車をつくるための工作機械も。

またアメリカからの輸入代金は、生糸や雑貨をアメリカをはじめ中国、東南アジアに輸出して稼いだ資金でした。日本はアメリカなしに、一日も生きていはいけない経済構造に組み込まれていたのです。

日本の強硬派は、アメリカに勝つのは難しくても、個々の戦闘に勝ち続ければ、いずれ同盟国のドイツがイギリスやソ連をやっつけてくれる、そうすればアメリカは戦争を続ける気力を失うから、有利な条件で講和を結べると考えていたようです。また、アメリカから石油が輸入できなくても、インドネシアやボルネオの石油を確保することができれば、アメリカと戦うことができると考えていたようです。

しかし、そうした強硬派が見落としていたのは、南方を占領して石油を抑えても、日本に持ってこなければ石油を使うこともできないし、石油だけでは今ある飛行機や舟を動かすことができても、新しく作ったり、国民生活に必要な物資を供給することもできません。

また、マキャベリの「君主論」に「他人の援助は美食にひそむ毒のごとし」と言ったように、日本はドイツの力をあてにしすぎました。ヒトラーが日本に対して全面的に信頼しているわけでもありません。しかも、日本とドイツは距離的に離れすぎております。

アメリカは民主主義で女性上位の国だから、がつんとやればすぐに戦争をやめると思っていた人間がいたようですが、真珠湾攻撃で愛国心がさめるどころか、アメリカ人の愛国心に火をつけてしまったのです。そのことを当時の日本軍のお偉いさん方は見誤ってしまったのですね・・・・・

ちなみに、日本陸軍の敵はアメリカではなく、ソ連でした。ところが、真珠湾攻撃以降、急にアメリカと戦う方針に代わってしまったため、陸軍も戸惑ってしまったことでしょう。アメリカのことをよく知らないまま戦いを始めてしまったのですね・・・・

もっともアメリカ側も開戦前は日本のことをほとんど知らず、過小評価しておりました。ところが戦争がはじまると大量の語学(日本語)将校を養成し、捕虜や日本兵の日記などから日本軍の研究を徹底的におこないました。


2 ミッドウェーでも見られたアメリカと日本の差

先の大戦におけるミッドウェー海戦(1942年6月)は敵を知らなかったことが敗北の原因となったのです。帝国海軍は、アメリカ太平洋艦隊の動向をつかめないまま戦いにのぞんでしまったのです。

よく、当時のアメリカと日本の戦力差や国力の差は歴然としていて日本は全く勝ち目がないといわれておりますが、ミッドウェー海戦に限定すれば、日本のほうが有利だったのです。

ミッドウェー海戦に投入された戦力は日本が空母4隻をはじめとする大艦隊だったのに対し、アメリカ軍は空母が3隻(しかも一隻は修理中)。また、航空機の数も日本のほうが多かったのです。


それにも関わらず日本が負けてしまったのは、アメリカが日本の暗号を解読したり、レーダーを完成させたりするなど、アメリカ側が情報を活用したことも大きいのです。アメリカ太平洋艦隊司令長官・チェスター・ニミッツは、自らの情報戦の指揮をとり、連合艦隊の動きを逐次追っていました。その結果、帝国海軍はまさに、手の内を完全に読まれていたのです。

3 バンザイクリフの悲劇
敵を知らないことで起こった悲劇があります。それがサイパン島で起こった「バンザイクリフの悲劇」です。アメリカの記者が自ら目撃、あるいは伝聞により知った悲劇をあげます。




  • ある家族は身を寄せ合って、手りゅう弾のピンをぬいて一家自滅した。


  • 断崖の下の岩のくぼみに、首のない子供の死体がたくさん残されていた。こどもの首を切り落とした親たちは海中に身を投じ自殺した。


  • 断崖に両親と四人の子供が立っていた。一家はためらっているように見えた。すると背後から銃声が聞こえ、父親と母親が撃たれ、がけから海中へ落ちていった。そばにいた女性が四人の子供をその場から引き離したが、約700メートル後方の洞窟から銃を下げた日本兵が出てきた。その日本兵は待ち受けていた海兵隊員の銃弾を浴びて倒れた。


  • 岩の上にいた100人ばかりの日本人は、断崖を見上げて、そこから見下ろしていた海兵隊に向かってお辞儀をした。そのあと、裸になり、海水で体を洗い、新しい衣服に着替えた。岩の上に大きな日章旗を広げ指南役の男が各自に手りゅう弾をくばると、各自ピンを抜いて腹に押し当て全員が爆死した。


  • 海中に浮いていた4、5歳の男の子は日本兵の岩にしがみついたまま溺死した。


かわいそうに・・・ちなみにマッピ岬には米軍がしかけた拡声器があって、投降をよびかけたが、それでも日本人たちの自決を止めることができなかったのです。

よく「『戦陣訓』(※1)で降伏を禁じられていたから、兵士だけでなく民間人も身を投げた」と言われておりますが、「戦陣訓」だけが原因ではないでしょう。「白人は野蛮人で、捕虜を虐待したり、殺したりする」と吹き込まれて、本当のアメリカ人の姿を知らないばかりにこのような行動をとったのでしょう。

4 親切だった米兵

 ところで、米兵は日本の軍部がいうように、残酷でひどいことをするのでしょうか?実は米軍は残酷どころか、むしろ捕虜になった日本兵に対して親切だったといいます。一例として、米軍につかまって捕虜収容所へ送られる最中のことを回想した日本兵の一文を取り上げます。


(日本兵を)出迎えた米兵は親切丁寧だった。そして将校にはKレイション一箱ずつくれた。十二時昼食、レイションをはじめて食べる。ひさびさに文化の味をあじあう。川を腰までつかって渡渉すること20回、やっと平地に出た。我々の隊列の中に片目、両足を失った兵がいたが米兵が彼に水筒に甘いコーヒーを入れてやり煙草に火をつけて与えていた。(日本兵たちがさまよっていた)山の生活で親切など言う事をすっかり忘れていた目には、この行為は実に珍しい光景だった。久々に人情を見たような気がした。
山本七平『日本はなぜ敗れるのか』より


もちろん、中にはひどいことをした米兵もいたとは思います。サイパンに住んでいた日本人住民に米軍が暴行を加えたとか、女をおかしたとかそんな話もあったようです。が、そんな酷い米兵ばかりではなかったということでしょう。おおむね米兵は捕虜の日本兵に親切だったようです。かれらがキリスト教の博愛主義だったからというのも理由の一つかもしれませんが、日本軍の士気を下げたり、親切にすることで日本軍の情報を引き出そうとしたという冷徹な計算があったことも無視できません。

事実、捕虜になった日本軍は米兵に聞かれていないことまでペラペラしゃべったようです。親切にしてもらったということで恩義を感じて日本軍の秘密を語った者、上官に殴られたりムチャな要求をされたりしたウラミつらみを語った者、いろいろだったようです。そういう日本軍の生の情報というのは米軍にとって貴重でしたからね。


※1 
日中戦争の長期化で、軍紀が動揺し始めた昭和16年(1941)1月8日、東条英機陸相が「軍人勅諭」の実践を目的に公布した具体的な行動規範。特に「生きて虜囚の辱を受けず」の部分が明確に降伏を否定しているため、これによって多くの兵士が無駄死にしたとされます。




※ 参考文献