戦時中、陸軍と海軍は仲が悪かったといいます。これも日本が負けた理由の一つとして挙げられます。

たとえば、大日本兵器という会社の工場にいってみると、同じ工場に門が二つ並んでいたといいます。工場の当事者にきいてみると、片方が陸軍、もう片方が海軍が通る門だそうです。門でさえそうなのだから、工場も別。別にするだけでなく、陸軍と海軍の工場の間に高い塀をつくって、陸軍の工場から海軍の工場のほう(あるいはその逆)に一人の工員も融通しない。同じ会社の中でも互いに往復できないし、たとえ片っ方の工場が非常な手空きになって工員が仮に遊んでいても、片っ方の忙しいほうへの工場の援助なんてもってのほか。仮にちょっとでも手伝いをすると、あたかもスパイ行為、利敵行為、敵国の工場の手助けでもしたような目つきで見られたり、言われたり、しまいにゃ憲兵にひどい目にあわされたといいます。


それから資材でも、海軍(あるいは陸軍)が資材がほしいといっても、陸軍(あるいは海軍)はそれに応じない。そうしてお互いに資材難に悩むようになる。

また戦時中、飛行機の燃料になるからということで、松根油(※1)をとるために松の根をせっせと国民は掘ったのですが、これも陸軍と海軍とで縄張りがあって、陸軍地区で掘ったところは陸軍だけが、逆に海軍地区で掘ったところは海軍だけが使うなんてこともあったようです。

近畿地方の海軍地区のある村が、松根油をストックして保管していたところを、陸軍の船舶兵の暁部隊がやってきて、その松根をトラックで持ち去ってしまったという事件まで発生したといいます。海軍はこれを非常に怒ったそうです。しかし、暁部隊が性懲りもなくまた略奪にやってきたので、待ち伏せをしていた海軍が暁部隊を襲い、大乱闘になったといいます。それを村民たちは非常に嘆き悲しんだといいます。近畿地方のある知事は「陸軍海軍が帷幄いあくのあとでかみあうのは仕方がないが、どうか白昼国民のまでかみあうことはやめてくれ」と陸軍、海軍にそれぞれ申し込んだといいます。

戦争資材に関する縄張り争いもありました。たとえば鉄。海軍は日鉄の古くから関係が深く、一方の陸軍は日本鋼管と関係を結んだといいます。海軍は日鉄の製鉄工場、陸軍は日本鋼管の製鉄工場という具合に、一種のセクショナリズムがおきていたのです。

鉄材のみならず、どんな材料でも陸軍と海軍がそれぞれ先陣争いで資材をおさえてしまうのです。自分がいるから押さえるのではなく、もたもたしていると海軍(あるいは陸軍)に資材がとられてしまうのがいやだから、必要、不必要関係なく資材を押さえたといいます。すず、銅、アルミニウム、ニッケル、その他薬や食料品まで、陸軍と海軍がとりあいをしたといいます。

ほかにも同じ用途のねじをつくるにしても、陸軍が右ねじにすれば、海軍は左ねじにするという具合に、どんな部品でも陸軍と海軍のものが共有できないのです。みかねた軍需省がこれらは陸海軍の生産競争を調停するためにできたもので、せめて資材の片面だけでも統一するようにと希望が出されました。しかし、それは終戦まで変わらなかったといいます。

こういった陸軍と海軍の不一致は戦いにおいても現れました。たとえば、沖縄の戦闘において、海軍は「沖縄こそ最後の防衛線」ということで、沖縄決戦のために根こそぎの兵力を注ぎ込みました。ところが、陸軍は沖縄決戦の直前に、精鋭の金沢師団を台湾に移したといいます。おそらく陸軍は「台湾こそ防衛線だ」と考えていたのです。

もちろん、戦場によっては陸軍と海軍が協力したケースもなくはないとはいいますが、ミッドウェーをはじめとした損害戦果についても陸軍に本当のことを教えなかったなど、いろいろと協力しないケースも多々見られたのです。

陸軍と海軍が仲が悪いのは何も日本だけの話ではないそうですね。外国でもよくある話だそうです。しかし、日本の場合はそれが深刻なレベルだったのが問題だったようです。

このような陸海軍の対立は、日露戦争のころからやっていたといいます。1907年に帝国国防方針が決定されましたが、この時に仮想敵国はどこかも話し合いをされましたが、陸軍はロシア、海軍はアメリカをそれぞれ仮想敵国として軍備拡張をしたといいます。だから、根本的に両者の考え方が違っていたのです。陸海軍の方針がまったく違っていて、終戦まで戦略を統合することができなかったのです。だからこそ、戦争が長引いたのですね。僕はてっきり財閥が戦争をあおり、戦争でお金儲けをするために戦争を長引かせたとばかり思っていたのですが、そればかりではなく、むしろ、陸海軍を統合できるような調整役がいなかったことが大きいのですね。この時代に田中角栄元首相のように異なる利害を統合できるような人がリーダーだったら少しは違っていたかも。


陸海軍が戦略を統合し、どこかで一度だけ最後の決戦に挑み、打撃を加えそのうえで和平に持ち込んでいれば、戦争はもっと早く終わっていたはずです。ちなみに、戦時中すでにレーダーの研究もされていたのですが、その開発が遅れたのも、陸海軍が相互に研究を教えなかったからだといいます。しかもそのレーダーの技術もアメリカに取られてしまったというのだから、お話になりません。なお、その敵国のレーダーに用いられた八木アンテナのお話は、以前にも触れましたので、ご参考のほど。(クリックすると記事にとびます)








これは戦争に限った話ではないと思いまいます。派閥争いが酷くて、結局倒産した会社もあるそうですし、かつて社会党は、党内でのもめ事がひどかったと言います。自民党と戦う前に自分たちの身内と戦わなきゃいけなかったのです。これでは選挙で勝てるはずがありません。そうして社会党はどんどん弱体化し、後進の社民党は存続の危機に晒されております。

昔の自民党は、派閥があり、同じ政党に所属しながら、議員同士がお互いに罵りあい、首相であっても身内であるはずの自民党の議員が厳しい質問をすることもしばしばでした。

昔は中選挙区制で、一つの選挙区に自民党の議員が二人出ることも普通でした。だから、身内でありながらネガキャンをお互いにすることもあったのです。仲が悪いどころか派閥がまるでひとつの政党のようで、同じ自民党でありながら政策もまるで違ったのです。例えば昔の宏池会は護憲派でリベラルな議員が多く、旧福田派はタカ派で親米派が多く、旧竹下派はハト派で親中派が多かったという具合に。それでも、大事な時は協力ができたのです。それが自民党の強みでした。


※ 参考文献

敗戦真相記
永野 護
バジリコ
2012-08-10








※1 マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。