徳川の時代が終わって明治になっても吉原遊郭はそのままの形で残ったそうです。しかし、新しい時代の風が吉原にも吹いてきたのです。

明治5年(1872年)に起きたマリアルーズ号事件もそうしたものの現れともいえそうです。

これはペルーの汽船であるマリアルーズ号が横浜に入港したところ、中国人の奴隷が一人逃げ出し、イギリス軍艦に助けを求めたものです。奴隷に逃げられたペルーはイギリスの軍艦にすぐ身柄を引き渡すように要求したのですが、イギリス側は拒否。それで日本において裁判になったのですが、その時の裁判長の大江卓が下した判決は「奴隷売買は国際法違反」というもの。それで中国人は本国〈清)に帰ることができました。

ところが面白くないのがペルーで、ペルーの弁護士が「日本が奴隷契約が無効というのなら、それよりもっとひどい目にあっている娼婦のことはどうするのだ」と国際裁判で述べたそうです。

それで大江卓は「日本はただいま、公娼解放の準備である」と答えました。明治5年10月2日に娼婦解放令が出されました。この解放令以降、遊女は娼婦となり、楼主と契約した従業員という身分になり、さらに奴隷制度に等しい遊女さんの年季奉公が禁止されました。

解放令が出されたというので、遊女さんたちはよろこび、さあこれで親元に帰れるといったとか。

けれど生活苦や借金のかたに吉原に売られた彼女たちに帰るところはありません。故郷を帰る途中で行き倒れになった娘やら、私娼(※1)になる娘もいたとか。

また、娼婦解放令が出たからと言って遊女さんたちの生活実態は実質的には変わりませんでした。

※1 公娼制度の認められていた時代に、国から公認されずに営業した売春婦

※ 参考文献