高村光太郎(たかむらこうたろう)は晩年ばんねんは、岩手県の花巻はなまきにて自給自足の生活を送っておりました。光太郎が暮らしていた母屋は今も花巻に残されております。光太郎が花巻で自給自足の生活を送ったのは、智恵子が亡くなった後です。光太郎も本当は智恵子といっしょに花巻で暮らしたかったのではないかと?そう思うと切なくなります。

また、智恵子がもし生きていたら、豊かな自然の花巻を気に入ったろうなって。そんな事も感じられました。

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(光太郎の母屋おもやがこの白い建物の中にある。なぜなら、光太郎がすごした母屋は老朽化が進んでいるため、こうした建物の中に入れて保存をしている) 

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ところで、光太郎は花巻にゆかりのある有名な人物と交流がありました。

その人物とは?






花巻東高校出身で、現在、北海道日本ハムファイターズの大谷翔平おおたにしょうへい選手。


なワケないよねw時代がちがいすぎるw

そう、宮沢賢治(みやざわけんじ)。

光太郎と賢治は面識があったようです。光太郎が賢治と会ったのは、賢治が亡くなる一年前だったようです。また、宮沢賢治の才能を早い段階から見ぬいていたそうです。賢治が亡くなってから、光太郎は賢治のすぐれた作品を広めようとずいぶん貢献こうけんをしたそうです。

また、かつて羅須地人協会があったところに、賢治のがあるのですが、この碑に書いてある「「雨ニモマケズ」の詩を高村光太郎が刻んだのです。

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(賢治の碑)

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※ オマケ 
今日は『智恵子抄』より「案内」という詩を。光太郎の詩「案内」は、光太郎が花巻で暮らしていた時の心境が感じられます。詩にでてくる「智恵さん こういうところ好きでせう。」というくだりが泣けます・・

今日ご紹介しょうかいする動画は、光太郎の詩「案内」に曲をつけて、それを歌手が歌うというものです。