1 昭和30年代の暗部 公害
 昭和30年代の暗部の一つといえば、公害でしょうか。四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病、そして今日取り上げます熊本の水俣病みなまたびょう

昭和30年代前半に、水俣病の患者かんじゃは多数発生していました。昭和34年(1959年)に、原因は日本窒素肥料(※1 にほんちっそひりょう)水俣みなまた工場が海に捨てた有機水銀である事がわかったのです。

しかし会社はこの事実を認めませんでした。政府は政府で汚染おせんの特定をさけて何らの有効策もとろうとしなかったのです。

そのような状況じょうきょうの中、一人の医師が、自分の良心と企業人として自分の狭間rt>はざまで苦しんだのです。医師の名前は細川一(ほそかわはじめ)。

細川一のことは以前、『その時歴史が動いた』で、水俣病の事が取り上げられました。水俣病といえば小学校の社会科の授業で習いましたが、『その時〜』でえがかれたようなドラマがあったとは思いませんでした。


※1 現在のチッソ

2 細川一について
 細川一は、日本窒素肥料(にほんちっそひりょう)の付属病院の院長だった人物です。彼は日本窒素肥料の社員だけでなく、地域の住民の診療しんりょうにも当たった評判のいいお医者さんだったそうです。

ある日、彼の勤める病院に水俣病の患者かんじゃが運びこました。細川一はさっそくその患者かんじゃ診療しんりょうをし、やがて日本窒素肥料の工場から出てくる排水に含まれている有機水銀に原因がある事をつきとめます。

海に流した有機水銀を魚が飲み込み、その魚を食べた人間が水俣病にかかってしまうことがわかったのです。


3 企業と自分とのハザマで

 しかし、日本窒素肥料の経営陣はそのことを否定しました。あくまでも企業の利益を優先する方針だったのです。

細川一は「水俣病の原因は我が社(日本窒素肥料)にあり」と思っていても、それを口外できないまま、結局定年をむかえてしまいました。しかし、その間にも水俣病みなまたびょう患者かんじゃは増えるばかり・・・

たしかに、この有機水銀についてだまり続けた細川一もチッソと同じムジナかもしれませんが、彼も苦しかったと思われます。組織人という立場から、上層部に逆らうことはなかなか難しかったかもしれません・・・

細川が定年後、水俣病みなまたびょうの裁判に参考人として出る事になりました。が、その矢先に彼は病に倒れてしまいました。それでも、彼は贖罪しょくざい(※2)の気持ちからか、入院先の病院で臨床尋問りんしょうじんもん(※3)を受けました。

そして、彼の証言が証拠となり、水俣病の患者側が勝訴(しょうそ)しました。患者達がうれし涙を流した映像はボクも感動しました。

※2 良いことをしたり、金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失をつぐなうこと。罪ほろぼし。

※3 証人が病気などで出頭できない場合に,裁判所が病院などにおもむいて行う尋問